第三章 一箱分の行き違い
商会へ通い始めて数日が過ぎた。
ニナは、朝の挨拶をしながら帳場へ向かう道を、もう迷わなくなっていた。伝票を入れる引き出しや、使い終えた筆記具を置く場所も覚えた。
けれど、荷の受け渡しとなると、まだ先輩に確かめなければならないことが多い。
その日の午前、ニナは搬入口の帳場で、届け先ごとに伝票を分けていた。
窓の向こうでは、荷車を引く馬が首を振っている。倉庫の奥から、木箱を運ぶ掛け声が聞こえてきた。
「お嬢さん。荷を受け取りたいんだが」
顔を上げると、日に焼けた男が立っていた。片手に受取票を持ち、もう片方の手で、帽子の縁をせわしなく曲げている。
「お待たせいたしました。お名前と、お受け取りの品を伺ってもよろしいでしょうか」
男が告げた商店の名を、控えの中から探す。
品目は合っていた。届け先にも間違いはない。
ただ、男の受取票には、こちらの控えより一箱多く記されていた。
ニナは二枚を並べ、数量の欄をもう一度確かめた。
「恐れ入ります。こちらの控えと数が異なりますので、担当の者に確認してまいります」
「追加で頼んだんだよ。いつもの担当なら分かる。先に出してくれ」
控えの余白にも、追加の書き込みはなかった。
別の紙に記されているのかもしれない。先輩が戻ったら、確かめなくては。
「申し訳ございません。私では判断できませんので、担当を呼んでまいります」
「こっちは荷車を待たせてるんだ。それくらい、融通を利かせてくれないか」
男の声が強くなった。
ニナは立ち上がりかけた姿勢で止まった。
「新しく来た子だろう?いつもそうしてもらってるんだよ」
倉庫へ向かった先輩は、まだ戻らない。近くにいる者も、それぞれ荷や書類を抱えて動いていた。
待たせてしまうのは申し訳ない。
けれど、確かめずに一箱多く渡したら、後で困る人がいるかもしれない。追加を頼んだという話も、ニナだけでは確かめようがなかった。
受取票を持つ指に、力がこもる。
ニナはそれを卓へ置き、顔を上げた。
「……確認が済むまで、こちらでお待ちいただけますか。荷は、そのあとでお渡しいたします」
「だから、急いでると言って――」
「急ぐならば、なおさら担当を呼ばせたほうが早いのではないか」
低い声が、割って入った。
ニナが振り返ると、商会の奥からヴァレンティンが歩いてきた。書類を持つリュシアンと、商会の責任者が続いている。
侯爵の外套の裾には、街の埃が少しついていた。
「……侯爵様」
男も相手に気づいたようだった。口を閉じ、帽子を持ち直す。
ヴァレンティンはニナの傍らで足を止めた。
「何があった」
「お受け取りの数が、こちらの控えより一箱多いんです。追加でお頼みになったと伺ったのですが、まだ確認ができておりません」
言い終えて、ようやく息がつけた。
彼は二枚の紙を見比べ、男へ向き直った。
「いつ、誰に頼んだ」
「昨夜です。酒場で、こちらの担当の方に会って。もう一箱欲しいと話をしたんで……」
「では、その相手に確かめればよい」
責任者が受取票の商店名を確かめ、近くの係員へ担当者を呼ぶよう指示した。
男は帳場の奥を覗き込んだが、ヴァレンティンに声をかけられ、足を止めた。
「ここで待て。急いでいるのは分かったが、確認を飛ばしてよい理由にはならん」
「……はい」
ニナは二枚の紙を揃え直した。
数の違いだけは、すぐに伝えられるようにしておく。
「追加のご相談は、こちらの品を一箱、でよろしいですね?」
男が頷いた。
ほどなく担当者が来ると、ニナは、今までに聞いたことを順に伝えた。
昨夜、追加の相談があったのは、確かだった。
ただし、その場では在庫を確かめられず、手配が済んだわけではなかったという。
「今朝、ご連絡するつもりだったんです。先にいらっしゃるとは思わず」
説明を聞いた男は、帽子の縁へ目を落とした。
「……もう話が通ってると思ってた。急かして悪かったな」
ニナは肩の力を緩めた。
「お待ちいただき、ありがとうございます。追加の一箱については、こちらの担当の者からご案内いたします」
書類を渡し、用意の済んでいる荷と、追加で確認する荷を分けて伝える。
担当者が在庫を調べに向かうと、別の係員が、先に渡せる木箱を運び始めた。
男も搬入口の方へ移り、荷車の位置を直しに行った。
帳場に、いつもの声と足音が戻ってくる。
ニナは、ようやく手を開いた。紙の端を握っていた指に、薄く跡が残っていた。
「……ありがとうございました」
ヴァレンティンとリュシアンへ向き直り、一礼する。
「お二人がいらして、心強かったです」
「ふん。確認する相手が分かっているなら、話は早い」
侯爵は、荷を運ぶ係員へ目を向けた。
「……渡さずに待たせた判断は、正しかったぞ」
ニナが顔を上げる。
「急かされていると、分かっていることでも迷うものだ。よく手順を守った」
「……はい」
それ以上、すぐには言葉が出なかった。
朝、教わった通りに確かめようとした。
それでよかったのだと聞けて、ようやく笑えた。
「ニナ様、お疲れ様でした」
リュシアンが静かに言った。
「引き継いだあとのことも、担当の方に確かめておかれるとよろしいかと」
「はい。そういたします」
商会の責任者が、ニナへ頷いてから、侯爵たちを玄関の方へ案内した。
ニナは三人を見送り、帳場へ戻る。
卓の上には、途中まで分けていた伝票が残っていた。
一枚ずつ、届け先を確かめて置き直す。
先ほどより、手は落ち着いて動いた。
*
その日の夕方、ニナは侯爵邸へ戻ると、まずリュシアンを探した。
「侯爵様は、今、お忙しいでしょうか」
「書類の確認中でございます。急ぎのものが終わったか、伺ってまいりましょう」
ほどなく、執務室へ来てよいという返事が届いた。
ニナは扉をノックする。
「ニナです。少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「……入れ」
机に向かっていたヴァレンティンが顔を上げた。窓の外はまだ明るかったが、机の端には、夜に使う燭台が用意されていた。
「どうした。今朝の件で、また何かあったのか」
「いいえ。その後のことを、ご報告したくて」
ニナは首を横に振り、微笑んだ。
「追加の一箱も在庫がありまして、無事にお渡しできたんです。担当の方にも、あとで確かめました。次からは先に確認すると、仰っていたそうです」
「……そうか」
侯爵が羽ペンを置いた。
「ならば、よかった」
穏やかな返事に、ニナもほっとした。
「私、もっと慌ててしまうかと思ったんです。でも、担当の方へ引き継ぐところまでできました。今日は、ありがとうございました」
「俺が来たときには、すでに確認するまで渡せないと答えていただろう」
「はい。でも、あのまま強く言われていたら、どうしたか……」
「まだ起きていない失敗まで、数える必要はない」
彼は机の上の書類を揃え、脇へ寄せた。
「俺が割って入る前から、貴様はすでに答えを持っていた。まずは、それを覚えておけ」
ニナは瞬きをした。
助けてもらった、と思っていた。
けれど彼は、その前に自分がしたことも、見てくれていたらしい。
「……ありがとうございます」
「礼は聞いた。座れ」
彼は客用の椅子を示すと、卓上の呼び鈴を鳴らした。
「約束したからな。報告には、茶を用意してやると」
ニナの口元が緩む。
「覚えていてくださったんですね」
「この俺が、自分で口にしたことを忘れるとでも?」
侯爵はそこで言葉を切り、少し考えた。
「……今日は、良い報告に分類して構わんな」
「はい。私も、そう思います」
*
使用人がお茶と菓子を運んできた。
大皿には、蜂蜜のタルトが三つ載っている。
そのあとから、リュシアンが書類を持って入ってきた。
「閣下。こちらの三件は、明日の正午までにご確認をお願いいたします」
「分かっている。……お前の分まで、菓子があるのか」
「厨房で数を確認いたしましたので」
リュシアンは書類を机へ置き、勧められた席についた。
ニナと侯爵の皿へ、一つずつタルトが分けられる。
フォークを入れると、生地がさくりと割れ、蜂蜜の香りが広がった。
「……おいしい」
「そうだろう。店の選定にも、抜かりはない」
「そちらは私が手配いたしました」
「屋敷で出す品として、俺も認めているという話だ」
ニナは小さく笑った。
午前中のことを話すときには、また少し胸が硬くなるようだった。それが、温かい茶を飲んでいるうちに、ゆっくりほどけていく。
「今日は、思っていたより緊張していたのかもしれません。こちらでお話ししていたら、肩の力が抜けました」
「初めての場所だからな。疲れるのも当然だ。……無理はするな」
言いながら、侯爵が大皿に残るタルトへ手を伸ばした。
「閣下。そちらは既に私の分です」
リュシアンの声が、静かにその手を止めた。
「……分かっている」
侯爵は手を戻し、自分の皿に残るタルトへフォークを入れた。
リュシアンは最後の一つを取り、自分の皿へ移した。
ニナはこらえきれず、声を立てて笑ってしまった。
二人がこちらを見る。
「すみません。……皆さんの分があって、よかったです。私だけいただくのでなくて」
「客人にだけ食べさせ、俺が眺めているのも妙だろう」
「はい。一緒にいただくほうが、楽しいです」
侯爵がカップへ目を落とした。
少しの間、お茶を注ぎ足す音がした。
ニナは窓の明るさを確かめ、机へ寄せられた書類へ目を向ける。
「侯爵様のお仕事は、ひと段落されたんですか?」
「急ぎのものはな。残りは、この三件だ」
「では、お時間をいただきすぎないようにしますね。お話を聞いてくださって、ありがとうございました」
「まだ茶は残っている。そこまで急ぐ必要はない」
ニナは頷いた。
それから、向かいにいる彼へ微笑みかけた。
「侯爵様がお仕事で疲れたときも、私でよければ聞かせてくださいね」
タルトを持ち上げかけた彼の手が止まった。
「……俺の話を?」
「はい。分からないことも多いと思いますけれど、聞くことはできますから」
彼はフォークを皿へ戻し、窓の方を見た。
返事を待つ間、ニナもカップを持ち直した。
あの商会では、何の話をしていたのだろう。今日はほかにも、どこかへ出かけたのだろうか。
自分ばかりが聞いてもらうのではなく、彼の一日も、少し知ってみたかった。
「……機会があればな」
やがて、そんな返事があった。
「はい」
ニナが頷くと、彼は残ったタルトをひと口食べた。
リュシアンは何も言わなかった。静かに自分の皿を引き寄せ、最後の一片をフォークへ載せる。
机の上には、これから確認すべき書類が三件。
けれど、侯爵がもう一度ペンを取るまでには、まだ少し時間がありそうだった。
ニナも、残ったお茶を、ゆっくりと飲んだ。




