第二章 支配者の庭と、朝の約束
約束の時刻より、少し早く支度ができた。
ニナは客室の窓から庭を眺め、肩にかけた羽織りものを整えた。
昨夜は、知らない部屋で眠れるだろうかと、まだ少し不安だった。けれど、枕元に残された穏やかな灯りを見ているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。
今朝は、庭へ出るのが楽しみだった。
教えられた食堂の前で待っていると、やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「……待たせたか」
振り返ると、ヴァレンティンが立っていた。深紅の上衣に黒い外套。朝の散歩にも、ずいぶん立派なお召し物だ。
その足元から、ブランが顔を出した。
「おはようございます、侯爵様。私も今、参りました」
ニナが微笑むと、ブランの尾が大きく揺れた。
「ブランちゃんも、おはよう。……あら」
昨夜とは違う首輪をしている。淡い金色の毛並みに、深紅の刺繍がよく映えていた。
「素敵な首輪ですね。とても似合ってる」
「……館の警備を担う者には、相応の装いが必要だからな」
侯爵が顎を上げる。
ニナは少し屈んでブランの首元を撫でてから、顔を上げた。
「侯爵様と、おそろいの色なんですね」
「家の色だ。……別に、散歩のために新しく用意したものではないぞ」
「そうなのですね。並んでいらっしゃると、よくお似合いです」
彼は一度ブランを見下ろし、自分の襟元へ触れた。
「……昨夜は眠れたか」
「はい。灯りを残してくださったので、よく眠れました。ありがとうございます」
「ならばいい。まだ最初の朝だからな。無理のない範囲で、この館の庭を見せてやろう」
扉が開く。
ひんやりした空気と、湿った土の匂いが流れ込んできた。
*
庭は、客室の窓から眺めたときよりも奥行きがあった。
低く刈り込まれた植え込みの先に花壇があり、その間を石畳の小径が延びている。朝の光が届いたところから、葉の色が鮮やかになっていた。
ブランは道の先へ行っては振り返り、二人が来るのを待っている。
「お迎えに来てくれたの?ありがとう」
「……そいつは、散歩となれば誰にでもそうする」
隣から、低い声がした。
ニナが顔を向けると、侯爵は何でもないように前を見ていた。
「では、いつも皆さんをご案内しているんですね。頼もしいです」
ブランが先へ進んだ。
侯爵も歩き出す。
「この庭の配置は、俺が考えた」
「侯爵様が?」
「無論、実際の植栽や手入れは庭師の仕事だ。だが、何をどこから見せるか、そこには主の美学が表れる」
彼は小径の曲がり角で足を止めた。
「ここからでは、池は見えぬだろう」
「……はい」
「では、この先へ進んでみろ」
促されるままに数歩進むと、植え込みの向こうが開けた。
小さな池の水面に、朝の空が映っている。その向こうには石造りの東屋があり、柱の間から、さらに遠くの街並みが見えた。
「まあ……!」
ニナは思わず立ち止まった。
侯爵が、満足そうに口元を上げる。
「一度にすべてを見せては、興趣に欠けるからな」
「歩くと景色が変わるんですね。窓から見ているだけでは、分かりませんでした」
振り返ると、たった今通った道が植え込みに隠れていた。
戻るときには、また違って見えるのだろうか。
ニナは、隣の彼へ尋ねた。
「侯爵様の、いちばんお気に入りの場所もございますか?」
「……俺の、か」
「はい。よろしければ、見せていただきたいです」
少しの間のあと、彼は東屋へ手を向けた。
「ならば、あそこだ。特別に案内してやる」
東屋まで来ると、侯爵はベンチへ指先を当てた。それから、ハンカチで座面に残る露を拭う。
「ここなら、濡れぬ。座るといい」
「ありがとうございます」
腰を下ろすと、花壇の向こうにリーヴェンの街が広がった。
家々の屋根の間を川が流れ、その岸辺には大きな四角い建物が並んでいる。川沿いに薄く残る朝霧の向こうで、煙突から煙が上り始めていた。
「……落ち着きますね」
「落ち着く?」
ニナは顔を上げた。
「はい。お花も綺麗ですけれど、街が見えるのが好きです。皆さんも、もう起きていらっしゃるんでしょうね」
「……ここは、我が領地を見渡す特等席だぞ。もう少し、こう、圧倒されるような感想はないのか」
ニナはもう一度、景色を見た。
「こんなに遠くまで見えるお庭は、初めてです」
「そうだろう」
「昨日、通ってきた道も見えますね。あの橋を渡って……」
指で辿るうち、途中で分からなくなった。
「こちらから、私の通う商会も見えるのでしょうか」
侯爵はニナの指す方を見て、それから川沿いへ手を向けた。
「あれだ。灰色の屋根の、大きな石造りの商館。その奥には倉庫が続いている」
「あそこ……」
今日から通う場所だった。
あの建物の中に、自分のまだ知らない仕事や、これから教えを請う人々がいる。
ニナは膝の上で、軽く手を握った。
「……緊張するか」
「少し。でも、楽しみでもあります。実家の商会とは、品物の数も、人の多さも違うと伺っておりますから」
「ここは各地から荷が集まる。取引の仕方も、相手によって異なるだろう」
「侯爵様も、商会へ足を運ばれるんですか?」
「ああ。帳簿の数字だけでは分からぬこともある。道や倉庫が使いにくければ、領内の商売にも関わるからな」
彼も、商館の方へ目を向けていた。
「学びに行くなら、分からぬことをそのままにするな。手順を確かめるのは、恥ではない」
「はい」
「それから、困ったことがあれば、まず担当の者へ。それでも話がつかぬなら、俺かリュシアンへ知らせろ」
ニナが見上げると、彼は腕を組んだ。
「この館の客人を預かる以上、必要な対応はする。……それが、完璧な管理というものだ」
「ありがとうございます。心強いです」
ニナは微笑んだ。
それから、ふと思いついて続けた。
「でも、困ったお話ばかりではなくて、うまくできたことも、ご報告できるように頑張りますね」
侯爵の視線が、街から戻ってきた。
「……うまく、できたこと?」
「はい。こちらで教わったことを、少しずつ覚えたいですから」
「……報告書が必要だと言っているのではないぞ」
「お話しするだけでは、ご迷惑でしょうか」
彼は一度、口を開きかけた。
ちょうどそのとき、ブランがニナの靴先へ鼻を寄せた。撫でてほしいのかと手を伸ばすと、満足そうにベンチの足元へ伏せる。
「……迷惑ではない」
少し遅れて、声が返ってきた。
「良い報告であれば、特別に茶を用意してやってもいい。この街で何を学んだか、聞いておくのも悪くはないからな」
「では、お茶をご一緒できるように頑張ります」
嬉しくなって答えたあと、ニナは少し考えた。
「……でも、うまくいかなかった日にも、少しだけ聞いてくださると嬉しいです」
侯爵は黙った。
あまり頼りすぎただろうか。
ニナが言い足そうとする前に、彼は背筋を伸ばした。
「失敗も、次へ生かすためには振り返りが必要だ」
「では……?」
「聞かんとは言っていない」
ニナの顔がほころぶ。
彼はブランへ視線を落とし、いくらか早口で続けた。
「ただし、落ち込んだまま食事を抜くなよ。……そういう日は、茶に菓子もつけてやる」
「それでは、失敗した日のほうが豪華になってしまいますね」
ニナが真面目に言うと、侯爵は一瞬、言葉を止めた。
そして、どこか不本意そうに口元を緩めた。
「……菓子目当てに失敗するなよ」
「それは、もちろんです」
顔を見合わせ、ニナも小さく笑った。
*
朝食を終える頃には、街道の往来も増えていた。
初日のニナを商会まで案内するため、屋敷の馬車が用意されている。帰り道は現地で教えてもらい、慣れるまでは明るいうちに戻る。
リュシアンとそう確認してから、ニナは玄関へ向かった。
ヴァレンティンは、広間で書類を受け取っていた。
「……忘れ物はないか」
「はい。紹介状も、筆記具も持ちました」
「ならばいい」
彼が書類を脇へ寄せる。
ニナは背筋を伸ばした。
「行ってまいります、侯爵様」
「……ああ。行ってこい」
馬車へ乗り込む前に振り返ると、玄関にブランの姿が見えた。その横には、黒い上着の人影がまだ立っている。
ニナは小さく手を振った。
*
商会の朝は、屋敷の食堂とはまったく違う音に満ちていた。
荷車の車輪。木箱を置く音。人を呼ぶ声。
帳場の奥では、誰かが数字を読み上げ、別の誰かが帳簿をめくっている。
挨拶を済ませたニナは、まず、先輩の仕事を見せてもらうことになった。
品物の名前だけでなく、数量、届け先、受け渡す相手。
同じ箱でも、確認することはいくつもある。
「こちらの紙は、到着した荷の控えですか?」
「そう。受け取りのときは、相手の持ってきた書類と見比べるの。違っていたら、荷を出す前に担当へ聞いてね」
ニナは手元の帳面へ書き留めた。
実家でも似た仕事を見てきたはずなのに、置き場所や呼び名が変わるだけで、ずいぶん戸惑う。
先輩が次の紙を取る。
ニナは書きかけの行を見て、ためらった。
忙しそうなのに、また手を止めてもらってもよいだろうか。
けれど、後で分からなくなれば、今見せてもらったことまで間違えてしまうかもしれない。
手順を確かめるのは、恥ではない。
朝の声を思い出し、ニナは紙の端を指した。
「すみません。こちらの印は、何を表しているのでしょうか」
先輩は帳簿を引き寄せ、隣の欄と合わせて説明してくれた。
ニナは頷き、教わった意味を、自分の言葉でもう一度確かめた。
「そう。それで合ってる」
返事をもらってから、帳面の続きを書いた。
*
昼を過ぎる頃には、書きつけた頁が何枚も増えていた。
覚えなくてはならないことの多さに驚きながら、ニナは窓の外へ目を向けた。
庭から見えていた商館の中に、今、自分がいる。
ここからも、あの東屋が見えるのだろうか。
窓へ少し身を寄せてみたが、向かいの倉庫の屋根に遮られ、丘まではよく分からなかった。
ニナは帳面へ視線を戻した。
覚え書きの途中に、先ほど確かめた印がある。
最初は分からなかったものを、今は見分けられる。
帰ったら、あの話をしてもよいだろうか。
お茶を用意してもらうほどの報告では、ないかもしれない。
それでも、聞かんとは言っていないと答えた声を思い出すと、少し嬉しくなった。
「ニナさん。次は、こちらを見てもらえる?」
呼ばれて、顔を上げる。
「はい。お願いいたします」
ニナは、帳面の新しい頁を開いた。
帰るまでに、覚えていきたいことが、まだたくさんあった。




