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第一章 恐ろしい館の、親切な掟

 三ヶ月ものあいだ、侯爵の館で暮らす。


 ニナ・ベルネットは、荷物の持ち手を握り直した。


 丘の上に建つ館は、実家よりもずっと大きい。重厚な玄関扉を見上げると、道中で何度も確かめた挨拶が、急に心もとなくなった。


 エルデンフェルト王国の交易都市、リーヴェン。


 振り返れば、川沿いに倉庫や商館の屋根が並び、街道を進む荷馬車が小さな箱のように見えた。ニナが三ヶ月にわたって仕事を学ぶ商会も、あの街の中にある。


 本来なら、泊めてもらうのは親戚の家だった。ところが急な出張で留守になることになり、実家の商会と以前から取引のあるローゼンヴァルト侯爵家が、滞在を引き受けてくれたのだ。


 ありがたい話だった。


 けれど、男爵家の娘であるニナにとって、侯爵の館で暮らすというのは、やはり気の張ることでもある。


 扉へ近づこうとしたところで、内側から玄関が開いた。


「ニナ様ですね。お待ちしておりました」


 出迎えたのは、青みを帯びた黒髪を後ろで結んだ、若い男性だった。中性的な顔立ちに、薄紫色の瞳。落ち着いた物腰が、館の静けさによく似合う。


「侯爵の側近を務めております、リュシアン・アーベルと申します。お荷物はお預かりいたします」


「ありがとうございます。三ヶ月間、お世話になります」


 一礼して荷物を託し、ニナは広間へ足を踏み入れた。


 磨かれた床。高い窓。正面に延びる階段。


 その途中に、一人の男性が立っていた。


 金色の髪が、黒い上着の襟へかかっている。深紅を差し色にした衣装も、こちらを見下ろす赤い瞳も華やかだった。


 彼はゆっくりと口元を上げた。


「……よく来たな、ニナ」


 低い声が、広間へよく響いた。


「俺が、この館の主。ヴァレンティン・ローゼンヴァルトだ」


 片手が胸元へ添えられる。


「三ヶ月。この館へ身を置く以上、忘れられぬ日々になると覚悟しておけ」


 ニナは背筋を伸ばした。


 何か答えなくては、と思ったとき、傍らから静かな声が入った。


「閣下。ご到着早々です。まずは旅のお疲れを」


「……分かっている。今、その話をするところだ」


 侯爵は階段を下りてきた。


 ニナの顔を見て、リュシアンの預かった荷物を見て、もう一度ニナへ視線を戻す。


「道中、困ったことはなかったか。部屋は用意してある。茶も――」


 そこで一度、言葉が止まった。


「……この館の支度に、抜かりはないということだ」


「お茶菓子は三種類ございます。閣下が、お好みが分からないのでと仰いまして」


「リュシアン」


「はい」


「説明は、俺がする」


 側近が一礼する。


 ニナは二人を交互に見てから、少しだけ表情を和らげた。


「お気遣い、ありがとうございます」


「……さて。俺に伝えておきたいことはあるか」


「はい。昼間は商会へ通いますので、外出するときや、帰りが遅くなるときは、どなたにお伝えすればよろしいでしょうか」


 忘れないうちに、もう一つ尋ねる。


「それと、こちらで暮らすうえで、守ってほしい決まりはございますか。先に伺っておけば、ご迷惑をおかけせずに済むかと思いまして」


 侯爵の口元に、満足げな笑みが戻った。


「ふん。規則か。いい心がけだ。この館の主は俺だ。俺の定める掟には従ってもらうぞ」


「はい」


「外出の連絡は俺かリュシアンへ。帰りが遅れるなら、その旨を知らせろ。……それから、無用な夜更かしは禁ずる」


 ニナは真剣に頷いた。


「食事も抜くな。部屋が寒ければ、すぐに言え。凍えながら眠るような真似は許さん」


「承知いたしました。お食事に遅れそうなときは、どうぞ、先に召し上がってくださいね。私のために侯爵様のお腹まで空かせてしまっては、申し訳ありませんから」


「……腹?」


 彼が瞬きをする。


「貴様は、この俺が客人の夕食の支度もせず、一人で食事を済ませる男だと思っているのか」


「いいえ、そういうことではなくて」


「安心しろ。遅くなるなら、温め直せるものを用意させる。……完璧な支配とは、そこまで考慮するものだ」


 なるほど、とニナは思った。


 少し変わった言い方をなさるけれど、困らないように考えてくださっているのだ。


「ありがとうございます。心強いです」


「……リュシアン。部屋へ案内しろ」


「かしこまりました。湯加減も、閣下のご指示どおり確認しております」


「その報告は、後でいい」


 ニナは階段を上りながら、そっと笑みをこぼした。


 厳しい掟について聞いたはずなのに、食事と寝具と湯の支度が整っていることが分かった。


 思っていたより、安心して暮らせそうだった。


     *


 夕食の席には、じっくり煮込まれた肉料理が並んでいた。


「……侯爵様は、どんなお料理がお好きなんですか?」


 勧められた席に着き、ニナが尋ねると、向かいの彼は少し意外そうにした。


「俺の好みだと。貴様、この俺の隙を探るつもりか」


「隙、ですか?」


「食事とは、生命を維持するための――」


 皿から上った香りに、彼の視線が落ちた。


「……肉だ」


 先ほどまでより、ずっと短い答えだった。


「特に、味に深みのあるものだ。薄弱な味付けでは、俺の舌は満足せん」


「お菓子についても、閣下のお好みは明確でございます」


 給仕の様子を確かめていたリュシアンが、傍らから言った。


「今夜のチョコレート菓子にも、『絶望的なまでの甘さが足りん』と注文をつけておられました」


「客人に出す品を確認しただけだ」


「はい。試作も残さず召し上がっておいででした」


 ニナはナプキンの陰で、小さく口元を緩めた。


「お菓子も楽しみです。……侯爵様も、温かいうちに召し上がってください。お好きなお料理が冷めてしまっては、もったいないですから」


 彼は一拍遅れて、ナイフを手に取った。


 肉は柔らかく、ソースには野菜の甘みが溶け込んでいた。ひと口食べると、長旅で張っていた気が、ようやくほどけていく。


 皿が下げられる頃には、窓の外は暗くなっていた。


 庭の明るさが失われ、ガラスに室内の灯りが映る。それを見て、ニナはふと思い出した。


「……あの、侯爵様。お部屋の灯りは、眠るときにも少し残しておいてよろしいでしょうか」


「灯り?」


「慣れない場所で、暗くなると少し心細くて。小さな灯りがあれば、落ち着くと思うのですが」


 旅先で眠れなくなるのは、初めてではない。けれど、迎えてもらったばかりの相手に打ち明けるのは、少し気恥ずかしかった。


 それでも、夜になってから困るより、先に相談したほうがいい。


 侯爵は、まるで大事な決断を下すように頷いた。


「許可する。……リュシアン。客室には覆いのついたランプを。明るすぎぬものを選べ」


「承知いたしました」


「廊下の灯りも、夜中に消す必要はない」


「そちらは、先ほど既にご指示をいただいております」


 彼は小さく咳払いをした。


「……この館で、夜中に足元を見失う者が出ては困るからな」


「ありがとうございます。それなら、安心です」


「それでも落ち着かぬなら……その、俺の飼っている犬でも、顔を見せてやろう」


「わんちゃんを?」


 ニナは思わず顔を上げた。


「ぜひ、会ってみたいです。お名前は、何というんですか?」


 侯爵はニナの勢いに少し身を引き、それから、部屋の隅へ目を向けた。


「ブランだ。……来い」


 暖炉から少し離れた敷物の上で、大きな犬が身を起こした。


 白金がかった毛並み。柔らかそうな耳。ゆったりと揺れる、ふさふさの尾。


 足元まで来たブランは、ニナの匂いを確かめると、膝へそっと顎を預けた。


「……まあ」


 つぶらな瞳で、見上げられている。


「この館の警備を司る、忠実な――」


「初めまして、ブランちゃん。ニナです」


 ニナが手を差し出すと、ブランは鼻先を寄せた。それから首元を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。


「ふふ。本当に、柔らかい……」


「……毛並みの管理にも、抜かりはない」


「侯爵様のそばでも、こんなふうに甘えるんですか?」


「甘えるのではない。主従の礼節をわきまえているだけだ」


 言い終わる前に、ブランの尾が、侯爵のブーツを二度叩いた。


 彼は一度それを見下ろし、何も見なかったように顔を上げた。


「……執務中、勝手に足へ顎を乗せて寝ることはある」


「侯爵様のそばだと、安心するんですね」


 ニナはブランの背を撫でた。暖かな体温と柔らかな毛の感触に、知らない場所へ来た心細さが、少しずつ薄れていく。


「明日の朝、お散歩にもご一緒してよろしいでしょうか」


 彼女は顔を上げた。


「ブランちゃんと、お庭を歩いてみたいです。……侯爵様も、お時間があれば、ぜひ」


 侯爵は、今度こそはっきりと動きを止めた。


 ニナは少し不安になる。朝は、お忙しいだろうか。


「……庭園の巡回をする予定がある」


 やがて、低い声が返った。


「特別に同行を許そう。道に迷われても困るからな」


「ありがとうございます。楽しみにしております」


 ブランも、尾を揺らした。


 彼は犬へ視線を落とし、それからニナを見た。


「……寝坊はするなよ」


     *


 ニナが客室へ戻ると、食堂はずいぶん静かになった。


 ヴァレンティンは椅子へ深く腰掛け、足元のブランを見下ろした。犬は、ひと仕事を終えたような顔で伏せている。


「閣下。ニナ様には、何時とお伝えすればよろしいでしょうか」


 リュシアンが手帳を開く。


「朝霧の残る頃がいい。薔薇が美しく見える」


「お時間をお願いいたします」


「……六時では早いか」


「早いとお思いでしたら、遅くなさっては」


「いや、六時十五分だ。散歩を終えてから朝食にすればいい。長くは歩かせん」


 側近のペンが動く。ヴァレンティンは、客人が旅の疲れを残していたら予定を変えればよい、と付け加えた。


「それから、ブランの首輪を替えておけ」


「どちらへ」


「……白い毛並みに合うものを」


「深紅の刺繍のものがございますね」


「ならば、それでいい」


 食事も部屋も、気に入ってもらえたらしい。


 それなのに、ニナが一番嬉しそうな声を上げたのは、ブランが膝へ顎を載せたときだった。


 ヴァレンティンは、足元の犬へ目を落とした。


「……あいつが喜んだのはブランだ。俺ではない」


「ええ。もちろん」


 リュシアンは手帳を閉じた。


「ただ、お散歩には閣下もお誘いでしたね」


 ヴァレンティンは返事をせず、手元のグラスへ触れた。もう飲み終えていたことに気づき、そっと手を離す。


 足元の犬の頭をひと撫でしてから、立ち上がった。


「……明日の支度に、抜かりのないようにな」


「承知いたしました」


 その晩、ニナの客室には穏やかな灯りがともった。


 眠る前、ヴァレンティンは窓辺へ寄った。


 雲の切れ間に、星が見える。


 しばらく庭を見下ろしてから、彼はカーテンを閉じた。

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