096 異例と慣例
少し早足で目的地に向かいながら、俺は心の中で溜め息をついていた。
黙って俺のエスコートについて来るイェライシャをちらりと見遣り、もう一度溜め息を零しそうになる。
これから先、この国に滞在する間に彼女が辛い思いをする羽目にならなければ良いと……そう心から思うから。
思いがけず聞く事のできた彼女の覚悟。
それこそが、俺達が彼女に期待できる代償の最たるものだと、当の本人は気付いているのだろうか。
そしてその覚悟を以ってしても、彼女がこれから先に予想しうる事態を無傷で切り抜けられるとは、俺には到底思えなかった。
それはヴァルの権威と俺の采配だけでは防ぎきれない、心理面でのダメージ。
はじめから俺の客として招いた者であれば、こんな心配はしなくても済んだかもしれなかった。だが、悲しいかな俺にはそれだけの権限がない。
こんなデメリットも承知の上で、上司たる彼に依存しなくてはならないのだ。
ヴァルがその権力を傘に無体を働くような人物ではないのが救いとは言え、余計な騒動に巻き込むのが判っているから余計にもどかしい。
珍しくうだうだとマイナス思考に突入しかけていた俺を現実へと引き戻したのは、軽く腕に手を沿わせているイェライシャのその幽かな体温と見上げて来る彼女の視線だった。
「何処まで行くの?」
「すぐそこだよ、もう……見えてる」
慎重に探るような口調で質問して来たのは俺の機嫌を伺っているらしいからだと察せてしまい、努めていつも通りの態度で返事を返した。
伝言を持ったアルガが入っていった建物を回り込むように移動して、開けた場所の縁へと辿り着くと足を止める。
そこはむき出しの地面が顔を覗かせる広場のようになっていて、固く締まった土がこの場所の使用目的を示していた。この広場の向こうには厩が見渡せる事からしても、歩行や騎馬での鍛錬場だと察する事ができるはずだ。
「ここがそうなの?」
「練兵場も兼ねた馬場なんだ。時間があれば皆ここでそれぞれに身体を動かしているんだ。鈍らないようにね」
「ファドラーン、貴方も?」
ぐるりと馬場を見回して物珍しげにしているイェライシャは、俺の言葉にそう質問して来た。
「非番の時には、勿論。後、ヴァルさまもね」
「嘘、彼がここで、皆と一緒に?」
余計な事を付け足してしまったかな、と思ったもののイェライシャの反応が面白かったので言葉を続けることにした。
「そもそも本館の方を造った方は武芸を嗜まない方だったから、あちらの建物には身体を動かすのに適した空間がなくてね。新しく造り足すか改築する事もできたんだけれど、ヴァルさまがこの屋敷を造った方の趣味にはそぐわないからとか何とか言って……そのままになっているんだ。まぁ、本当の所は単に面倒だとか思ってるくらいなんだろうね」
「……変なの」
呆れたような笑顔のイェライシャは、それでも何処か納得しているような落ち着きを見せている。
「まぁ、普通に考えればそうかもしれないけれどね。一緒に身体を動かしたりする事で連帯感のようなものも生まれるし、何より廻りの者達の技量を把握する事もできるから、彼にとってはメリットの方が大きいんだよ」
「はじめっからそっちの理由を聞いた方が納得出来るわ」
そう本音のような事も聞かせてしまったのだけれど、やはり彼女の態度は変わらない。
むしろそれを最後まで隠していた事を責めるかのような視線で下から見つめられてしまい、どぎまぎしてしまった。
多分表情には出ていないとは思うけれど、自分が少し落ち着きが無くなっているのを自覚する。なるべく平静を装いつつ、早く伝言を宛てた相手が現れないかと腕組みをして待つ羽目になってしまった。
そう自制していなければ、欲に負けた俺の腕はイェライシャを掴まえようとしてしまうから。




