086 感慨
「すぐに済む用事だとおっしゃいましたのに、何処で油を売っておいででしたの?」
「ちょっと野暮用に捕まっていたんだよ、すまないね。……イェライシャは?」
主人からの伝言以外の用事で俺を引き止めていた相手を何とか次の日へと廻して、イェライシャが着替えている部屋へと戻ったのは、ちょっととはとても言えない時間を費やした後だった。
ミュゼナの非難には反論出来ないし、してもどうせろくな事にはならないと身に滲みて理解しているので、ここは素直に謝っておく事にする。
そんな俺の腹の内なぞお見通しだろうミュゼナだったが、それ以上特に追求する事はせず身体で塞ぐようにしていた扉から横へとその身をずらすと、入ってもいいとうなづいて見せた。
「幾つかドレスの試着をして頂きましたの。今日は特にお直しの必要のなかったものを御召しいただく事にしましたわ。如何です?」
よく知っている部屋という事もあり、室内へと踏み込んで、特にきょろきょろする訳でもなくお目当ての存在を見つける。
そして、彼女を包む深い緑色の生地を使ったフィルダウス風の衣装に目を奪われてもいた。
いつも頑な過ぎる程にしっかりと何枚もの生地を重ねる故国の装束を守っていた彼女の、打って変わった軽やかなその出で立ちから視線を逸らす事ができない。
視線の隅では、微かに微笑みを漏らす屋敷の侍女達を捉えてはいるのだが、今はそれすらも気にならない。
「……意見を聞いていもいいかしら?」
「あ、うん。……ちゃんと似合っているよ」
どれ位そうしていたのか自覚は無かったが、そうイェライシャに促されて何ともありふれた返事の他に言葉なぞ出てはこなかった。
「女性が殿方に意見を求めるという場合は……その言葉だけを聞きたいという訳じゃありませんわよ」
隣で如何にも仕方が無い奴だと、言外に仄めかすミュゼナにちらりと視線を向ける。
彼女のその表情もいつの間に似たのやら、ヴァルにそっくりのしたり顔だ。
ラトーからかなりの情報を得ているのだろう、俺の反応の理由もやはりはっきりと確信しているらしい。
それに最低限の言葉に絞っておかなければ、ついついそれ以上に個人的で余計な事まで口にしてしまいそうだったからだ。
「俺は……誰かさんみたいに舌を操るのが上手くはないものでね」
少しばかりの当て擦りと共に憮然とした表情を浮かべてみせると、きょとんとした表情のイェライシャを除いて他の者達は皆一様に微笑みを浮かべている。
「そんな事はもう十分判っているけれど……もうちょっと何か無いの?」
「……本当に良く似合っているよ?俺にとっては君はいつだって綺麗なんだけど」
流石に呆れたと言う雰囲気のイェライシャに、それでも……やっぱり言っておくべきなんだよな、と覚悟を決めると不満そうな彼女のすぐ側まで近付き、そう耳元に言葉を送り込んだ。
勿論、その後に真っ赤になってしまうだろうその姿を間近で観察する為でもあったのだけれど、イェライシャの反応は予想とは全く違うものだった。
「ありがとう、ファド」
はじめは驚いたような表情だったのに、すぐにそれは晴れやかな微笑みに変わり、その笑顔の眩しさに俺の方が真っ赤になってしまいそうだ。
「……べ、別に」
嬉しそうなその声に、そうしどろもどろな返事を返すのが精一杯。
さっきまでは気にならなかった廻りの侍女達の視線も、流石に気に触りはじめたのでさっさとここから逃げ出す事にした。
「もうここの用事も済んだのなら、屋敷の中を案内がてら次の用事に行こう」
歩くのに脚元をかなり気にしているふうのイェライシャに手を差し出し、衣装の見立てを手伝ってくれた侍女達に彼女が礼を言う間だけ足を止めてその部屋を後にした。
「じきに昼食の時間ですから、お忘れにならないで下さいませ」
ミュゼナは涼しい顔でそう言っただけで、俺の行動を特に咎めるふうもない。
その言葉に力付けられたと言う訳ではないがイェライシャの手をとって、改めて屋敷の正面にあるエントランスポーチへと足を向けた。




