083 破笑
さして明るくもない、とチャクラヴァルティンは言ったけれど、屋敷の外も中もとても明るく感じられる。
窓の向こうに見渡せるのは広大な耕作地なのだろうか、明るい緑が目に眩しい。
何の予備知識も無しに連れて来られたとしたら、この地を地上の土地と勘違いしてもなんら不思議は無いかも知れない。
大きな開口を持つ窓がずらりと並ぶ回廊を幾つも巡り、階段も上がってようやく辺境守の君の書斎とやらへ辿り着いた。
豪奢な造りの重厚なドアに躊躇したものの、招き入れられるままに足を踏み入れると、そこは書斎なんてモノではなかった。
「……これは書斎とは言わないのじゃない?」
「普通はね。けれどここの主がそう言い張るものだから、いつの間にかそれで通じるようになってしまったのさ」
独り言のように呟いた私に、ファドラーンの答えはすっかり諦めたような感じで。
見回すまでもなく、ここでもやはり大きな窓が外からの明かりを十分に取り入れているのだが、その開口部以外の壁を覆い尽くすように高い書棚が巡らされて、様々な書物や綴じられた紙や羊皮紙の束が詰め込まれている。
それこそ目一杯に。
そして窓寄りに設えられた重厚な造りの机。
落ち着いたマホガニーのその机にも、補助の為だろうかその隣に設けられた机にも、これでもかと言わんばかりに書類が積み上げられている。
この部屋の主がかなり長い間ここで仕事をしていないであろう事は推して知るべし、だ。
「普通……こんな部屋は執務室とか言うんじゃないの?」
「この屋敷はあくまでわたしのプライベートエリアだから、書斎……でいいんだよ」
山と積まれた書類にため息をつきながら、そう……ラウ……じゃないチャクラヴァルティン殿下が応える。
これだけの書類に目を通すだけでも、何日掛かるか判らない。
これじゃあ、彼はすぐにはクティナンに戻れないわね、と変に確信が持ててしまった。
「大半は事後承諾でもいい書類だから、本当に目を通すだけでいいんだよ。残りはわたしがきちんと決裁をしないといけないものだが……まぁ、ファドラーン以下人足は確保する予定だから、大丈夫」
「……何が大丈夫なんですか?」
私の呆れたような顔付きから推察したのだろう、さらりとそうヴァルが独り決めしてしまったらしい予定を続けると、その後ろでファドラーンが渋い顔でそう突っ込む。
たしかファドラーンはデスクワークは大の苦手だったはずだから、この人選は初めから彼を当てにしていないと言う事なのかしら。
それとも只の嫌がらせ、かもしれない。
自分が一人で仕事をしなくちゃいけないのにのんびりしている人が近くに居たら、私だって少しは腹立たしいかもしれないもの。
「冗談だと言いたい所だが……少しは手伝ってくれるんだろう?」
「……少しだけですからね」
笑いをかみ殺していると一目で分かる上司の言葉に、ファドラーンは仕方無さそうにそう答える。
肩を落としているファドラーンのしおれっぷりが面白かったのだけれど、ここに来る以前にチャクラヴァルティンが言っていた事を思い出して、私なりになけなしの反論をしておく事にした。
「あら、それじゃあ……私の案内は誰がしてくださるの?たしか、辺境守の君は客である私の案内役として……ファドを付けて下さるとおっしゃったでしょう?」
「……イェライシャ?」
両方の腰に手を当てて、思ってもみなかったと言う意外そうな表情のファドラーンと、いつも通り余裕の微笑みを浮かべたラウ……辺境守の君チャクラヴァルティン……とを睨むように、交互に見上げてみる。
睨み上げるとは言っても、所謂パフォーマンスなのは明らかでじきに私のそのポーズは思いも掛けないもので崩されてしまった。
「……ラ、ラウ?」
「ヴァルさま?」
ファドラーンの声ですら呆気にとられて。
はじめは喉の奥で堪えたような、笑い声、だったと思う。
だんだんと表面に現れたのは大きな笑い声で、初めて目にするその光景に対応出来なくて、ただ立ち尽くしてしまった。
彼が笑うと言えば、せいぜいが唇を少し動かす程度の微笑み程度しか見た事がない。
彼の明るい笑い声を聞いたのすら初めてだった。
隣に居たファドラーンですら同じように驚きの表情を見せている所からしても、声を出して笑う彼の上司が如何に珍しいかを物語っているわ。
呆気にとられたまま、ひとしきり笑ったヴァルが呼吸を整えるのを見つめて、そんなに私の言った事が面白かったのかとかなり複雑な気持ちになっていた。
「何がそんなに面白かったのか知らないけれど、そこ迄笑うなんて……少しばかり失礼だと思うわ?」
「それは……申し訳なかったね。だが、ここ迄笑ったのはほんとうに久しぶりだ、涙が出てしまったよ」
余韻を引きずって掠れ声の彼は、目尻を拭いつつ……本当に涙が出る程に笑っていたのらしい……背筋を正した。
「もう、本当に失礼なひとね」
呆れつつ膨れっ面で追い打ちをかけると、今度はにやりと落ち着いた微笑みを見せる。
「随分と楽しませてもらったから、そのお礼も兼ねてファドラーンを自由の身にしてあげるよ。ここに居る間……公式な行事などにわたしの用事で随員として付き従う場合を除いて、彼を君の専属の守護騎士として任ずる」
そう続けた時のチャクラヴァルティンはもうすっかりいつもの彼で、さっきの笑い顔とのギャップが激し過ぎて言葉に出来ない。
「しかし、ヴァルさま……」
私の態度と、予想外の彼の反応で、呆気にとられると言うよりは何となく自失していたようなファドラーンが、ようやくそれに異論とはとても言えない言葉を挟んだ。
「問題は無いだろう?当分……公式の行事は無い筈だから、お前はこれで……こっちに残している親衛隊の部下とイェライシャとに時間を割けばいい訳だし。わたしはここで書類と睨めっこだから、とりたてて護衛の必要は無いしね」
「……信用出来ませんね。あなたが……大人しく一人でじっとしていられるタイプだと確信が持てれば、俺も余計な心配をしなくて済むんですが。残念ながら、今迄そんなあなたを見た事が無いので」
狼狽えていたようだったファドラーンは、それでも何とか態勢を整え伸ばした背筋で上司への反論を試みた。
「大丈夫だよ。これだけ書類を溜めてしまったのだから、ジェイルも他の者も……わたしが怠けるのを許してはくれないだろうし。ミュゼナの目を眩ませる事が出来る程、わたしはかくれんぼがうまくはないしね」
「……そうですわね。祭祀王様の状況が差しせまっていた事もあり、随分と大目に見ては居りましたが……お戻り下さった以上はきちんとお仕事をして頂かねばなりませんわ。わたくしから逃げられるとは……お思いになりませぬよう」
難なくファドラーンの反論を言いくるめたかに見えたチャクラヴァルティンの言葉にそう続いたのは、穏やかだけれどしっかりとした女性の声だった。
勝手な関心だけど、ファドラーンの自由が掛かっているらしい2人のそのやり取りにすっかり気を取られていた私は、その声の主の気配には全く気が付いていなくて。
「おや、来たね?ミュゼナ」
そう微笑んだチャクラヴァルティンの言葉に、慌てて振り向いた先に居たのは貫禄のある初老の女性だった。
貫禄とは言っても嫌みが無いのは、大貴族の使用人にありがちな驕った上の尊大な態度ではなくて、自分の職務に忠実で且つそれに自信と誇りを抱いている、そういう雰囲気を纏っているからかしら。
彼女の見た目の姿は決して若いとは思えないのに、きちんと結い上げられた不思議に艶のある茶色の髪が目を引く。
『……鍵を差し上げますわ、貴女が明日お訪ねになるフィルダウスには、チャクラヴァルティンさまのお屋敷を取り仕切るミュゼナ様と言う方が居られます。彼の方はチャクラヴァルティンさまの乳姉妹であらせられるとか。もしかしたら……』
昨夜、そう恭しげな口調で語ってくれたサヤの言葉があの時の彼女の表情とともに思い出される。
乳妹、だと聞いていたけれど、見た目はミュゼナの方がチャクラヴァルティンの母親程にも歳が違う。
そして鋭いそのまなざしは淡い藤色で、故国でよく見た花の色に似ている、と思った。
雪深く厳しい冬を越え……春の最初に開く花。
春を呼ぶ花として…春の祭りの主役となる。
その瞳で射るような厳しい視線でチャクラヴァルティンを見つめていた彼女は、すぐにその視線を外して私へと目を向けて来た。
「この辛口の彼女が……わたしの腹心とも言える侍女長のミュゼナだよ。こちらはユグドラセアの貴族令嬢イェライシャ嬢……ラトーからの報告が届いているとは思うが、わたしの客としてしばらくここへ滞在するから。その間の部屋と世話を頼むよ」
ここ迄の厳しい言葉とその態度から、同様にその瞳に晒される覚悟をしたのだけれど、次に続いたのは優しい言葉と柔らかな口調だった。
「ようこそフィルダウスへ、お客さま。気ままなお館さま故……色々と戸惑う事もおありでしたでしょう?こちらではわたくしとそこの……ファドラーンが主にあなた様のお相手をさせて頂きますわ。わたくしは辺境守の君の侍女頭ミュゼナと申します……お見知り置きを」
「セシリア・イェライシャ・グレンフォードと申します。よろしく」
優雅に挨拶されて、負けないようにと故国風の礼を執りそれに応えた。
顔を上げるとミュゼナと視線が合い、微笑んでくれた彼女の心遣いに素直に感謝が込み上げる。
見知らぬ土地でその地の領主の庇護を得ているとは言っても、冷遇を受ける事もなくはないのだ。
シュヴァーゼに於ける私のように。
ましてやこの国が抱える特殊な事情からしても、外からの客なぞ疎まれても文句は言えないくらいなのに。
「まったく……おまえに掛かるとわたしも形無しだね。イェライシャ、そのミュゼナがこの屋敷の影の主だからね、何でも入り用な物があれば彼女に言っておくれ」
「無論、辺境守の君のお客さまに不自由はさせませんわ」
溜め息とともにそうチャクラヴァルティンが言うのを、謙遜するでもなく受け止めた彼女の言葉にその自信を感じ取り、私は唇の端が綻ぶのを隠せなかった。
「それでは……後は任せるよ、ミュゼナ」
彼女の態度全てを容認しているらしい彼はそう言ってうなづくと書斎の机へと向かうことにしたらしく、ファドラーンとミュゼナに促されてその部屋を後にする時には、その背中が見えただけだった。




