082 居館
背中に軽く手を翳したラウ……チャクラヴァルティンの癒しを受けて、多少顔色は悪いもののイェライシャは何とか顔を上げると周りを見回した。
「ありがとう……チャクラヴァルティン殿。フィルダウスに着いたのね?」
並んで立つ俺達ではなく、移動した先である室内を観察しているようでもあるその視線が部屋の中を壁に沿うようにしてなぞる。
ここは辺境守の館の中でもこういった移動して来る者を受け入れる為に使われる部屋で、部屋の四方の壁に扉がしつらえてある。
本当の出入り口はそのうちの2か所しか無いのだが、間違ってここへ入り込んでしまった者、もしくは招かれざる客を惑わす偽装の為に取り付けられているものだ。
間違った扉を開けようとすれば、不審者として捕らえられる事になる。
「辺境守の君の……ヴァルさまの屋敷だよ。この部屋は移動してくる者を受け入れる為の専用でね、わざとこんな地味な造りになっているんだ。まるで……地下室のようだろう?」
「何の為に?」
「陰気なこの部屋から出たなら、さして明るくもない外の景色を見ても……よもやこの国が地上の国では無いなどとは思うまい?敢えて地底の王国などと言う暗いイメージを持たせる必要も無いからだよ」
本来の血なまぐさい用途を俺とヴァルとの2人の誘導で誤魔化しつつ、イェライシャを部屋の外へと案内する。
先程の部屋とはがらりと変わって、明るい採光の施された半地下の廊下がスロープのように伸びているのに沿って本館に当たる棟へと移動する。
「移動の属性を持つ者や……王族ならば、大体何処の場所でも移動出来るんだけれど。他人の家や土地の中へ勝手に入るのはどう考えてもお行儀が悪いからね。大きな館では大抵……こういった移動する者を受け入れる為のスペースを設けてあるんだ」
主翼の回廊へと移り、物珍しそうにきょろきょろと天井の高い廊下や柱を眺めている彼女は、半分くらい俺の話を聞き流しているような気がする。
「余程珍しいものでもあったかい?造り自体は豪奢なものだが、建築様式はイクシール辺りの古い建造物と大して変わらぬものだよ」
如何にも笑いをかみ殺している、といった風情のチャクラヴァルティンの言葉にようやくイェライシャは前を向いて歩く事にしたらしい。
仄かに頬が赤いのは、チャクラヴァルティンの言葉で自分がお上りさん扱いをされたと思ったからだろうか。
今度は背を伸ばして、貴族の令嬢に相応しいゆったりとした姿を見せる。
「無理して猫をかぶる事も無いけれどね」
つい微笑んでそう口にしてしまい、きっちりと彼女に睨み上げられてしまった。
淡い金色の髪から覗く更に深みのある黄金色の瞳から目が離せなくて、そのまま見つめてしまったら、イェライシャは今度は気まずそうにふいと視線を外す。
彼女のその頬がほんのりと染まっているのを見つけてしまうと、少しは期待を持ち続けてもいいのかなと思えて、真面目な顔に戻れない。
収まらない笑顔のまま暫く回廊を進んだ所で、人の気配とともに前方に見慣れた人影が現れた。
チャクラヴァルティンの侍女長ミュゼナの配下で、ヴァルの身の回りの世話をする事の多い侍女だ。
国内の一部の疑い深い関係者の誤解を受けない為にも、チャクラヴァルティンの侍女は意図して皆年配の女性で固めてある。
まぁ、一部と言っても、嫉妬深い従妹姫の勘気を被らない為の処置だとは言うまでもないのだが。
華やかさに欠けると言う向きもあったが、これはこれで落ち着いていいとチャクラヴァルティンは気にも留めていないようだ。
「まぁ、主人〈あるじ〉さま!ようこそお戻りなさいました」
はじめは呆気にとられたような表情だったものの、その侍女はすぐに腰を折ると丁寧な挨拶をしてみせる。
「ああ、ただいま。前触れもなく戻ったからね、ミュゼナにお小言を食らってしまうだろうが……お客人もご一緒だからと伝えておくれ。取り敢えず書斎に行っているから」
「はい、ご伝言承りました」
素直にうなづいて自分の上司の元へと報告に向かった侍女の後ろ姿を見送るでもなく、チャクラヴァルティンはいつも通りの歩幅で書斎へと歩いてゆく。
一瞬戸惑ったふうのイェライシャを促してその後に続くと、ヴァル曰く書斎、つまりは彼の執務室へと向かった。




