081 萎縮
「溜め息なんてついて……どうしたの?」
朝食の後、玄関ホールで外出の為にラウドラチャクリン……本当の名はチャクラヴァルティンと言うのらしい……を待っていた私とファドラーン。
けれど、何を思い出したのかファドラーンは「ちょっと、忘れ物……」と再び2階へと上がって行ってしまい、彼と擦れ違うように現れた当のチャクラヴァルティンと共に今度はファドラーンを待つ事になってしまった。
食事だと呼びに行った時にファドラーンが言った事がずっと心に引っかかっていて、何気ない振りを装って皆と食事をしていても、実は何を食べたのかすらほとんど覚えていない。
改めて、そしてストレートに告げられたその言葉に偽りのカケラも無いのは十分に承知しているのに。
けれど未だにそれにすら返事を返せない私は、こうして彼を待っている間も何だか落ち着かなくて……こっそりと詰めていた息を吐き出した所をチャクラヴァルティンに見つかってしまったのだ。
「何でも無い……です」
いつも通りに返事をしようとしたものの、彼の正体を知ってしまった今となっては自然と言葉が固苦しくなってしまうのを止められなくて、下を向く。
自分の国の王族にすら会った事も話をした事すらないのに、あまつさえいつかと願った国の、いずれは王様になるかもしれないひとに最早今までのようなぞんざいな口なんて利ける訳が無い。
まるでちょっと近所へ出掛けるのだとでもいうような、外套すら羽織らないいつも通りの軽装の彼はそれすら見越していたかのように軽い口調のままだ。
「べつに君を取って喰いやしないよ?王宮以外でなら……今まで通りの態度でいいんだが」
「貴方の国へ行ってしまったら……そんな事出来る訳無いじゃない。そこまで私も礼儀知らずじゃないわ」
深呼吸してようやくそう言い返すと、彼がにやりといつもの笑みを浮かべる。
「解釈は君に任せるよ。それにしても、ファドラーンは君にまだ何もアプローチしていないのかな?君が自分の事を忘れてもいいなんて、殊勝に諦めの付く男じゃないからここまで追い詰めてみたのに」
「人の事で……遊ばないで」
今朝の私達の間で何があったのかを既に気付いているような彼の言葉遣いに、流石に少しむっとしてついいつもの調子で反論してしまい、慌ててチャクラヴァルティンを振り返った。
「そう、その調子」
ようやくペースが戻ったという彼の微笑みに、なんだか馬鹿らしくなってしまったのは何故かしら。
肩に必要以上に入っていた力を抜いていつものように言葉を繋いだ。
「見かけに拠らないけれど、貴方が……一番心配性なのね。そんなじゃ、早く老けるわよ?」
けれど私の言葉にチャクラヴァルティンが今度は少し変な顔をした。
「やっぱりこんな口調じゃ気に入らない?それとも、私…何か変な事を言ったかしら」
「……いや、なんでもないよ」
いつもと違う彼のリアクションを訝しく思ったものの、さらりとそう躱されてしまえば問いつめる訳にもいかない。
なにげに自分が口にした言葉が、何かしら彼に影響を及ぼしたのだとは判るけれど、その理由を推察出来る程にはまだ彼との付き合いは長いものではないのだもの。
少し残念な気がして、軽く肩をすくめてみる。
「ご免、待たせたね」
急いで来たのだと知れる足音で階段からファドラーンが降りて来たのはその後すぐだった。
「何を忘れたの?」
「まだ纏め終わってない方の書類。これをつくり直す事の方が骨が折れるからね」
愛用らしい剣を腰に帯び、いつも持って歩いている書類入れを軽く持ち上げてみせる。
おどけたように質問に答えるファドラーンにようやく私は自分が失念していた事を思い出した。
「……私、身の回りの物もなんにも用意していないけれど、いいのかしら。今朝それを聞こうと思っていたのに……」
朝食前、ファドラーンの突然のあの言葉ですっかり頭から抜けてしまっていたのだ。
タイミングが良いとは言えないファドラーンのあの言葉。
意味ありげに彼を睨み上げると、誰の真似をしているのかにっこりと微笑んでみせる。
確かにフィルダウスに連れて行って貰える事にはなったけれど、すぐに戻るのか、何日も逗留する事になるのか、という詳細すら知らされては居ない。
けれどラウ……チャクラヴァルティンの立場からすれば、とんぼ返り出来る程に気楽な身分でも無さそうで。
「何日……フィルダウスに居る事になるのかは判らないけれど、その間の身の回りのものとか……用意しなくても良いの?」
「何も必要ないよ?」
「君はわたしの客人としてわたしの領内に留まるのだから、その間の事は全て……わたしに任せてくれれば良いのだが?」
あっさりとしたファドラーンの返事をチャクラヴァルティンの言葉が追う。
寛容な言葉だが確かに、貴族が客を迎える際……特に相手を庇護する場合……よく取られる手段だわ。
「何だか……どこまでも貴方のお世話になりっぱなしね、私」
流石に申し訳なくて頭を下げつつそう言葉にしてみたが、チャクラヴァルティンはいつもの微笑みを見せただけ。
それでもちらりと、となりに居たファドラーンの少しばかり複雑な表情を横目で見つめているのが気になるけれど。
「……どう致しまして。君の後見にはアルマンスール家でもいいのだが……わたしの名を背負っていた方が最終的には障害は少ないかと思ってね」
少しばかり計算高い発言だが余計な波風は立てない方が良いに決まっている、と彼の判断に納得しておく事にした。
取り敢えずファドラーンも当面はその上司の意向に従うつもりのようだし。
「では、行こうか」
何の問題も無かったかのようにさらりとチャクラヴァルティンは言い放つと、私に背を向けた。
でも、何処から、どうやって?
見当が付かなくてとまどっていたら、彼の言葉に応えるかのようにファドラーンの腕が私の肩へと廻された。
咄嗟に昨夜経験した事が思い出される。
あの、表現しようの無い奇妙な感覚。
「……」
左腕を肩程の高さに掲げたチャクラヴァルティン。
いつもより低い声が何かを呟くのを聞きながら、昨日と同様に襲って来た違和感をファドラーンに縋るようにして何とかやり過ごす。
けれど、どう表現すればいいのか判らないその感覚に何だか、気持ちが悪くなってしまった。
周りの景色が一変しているのだろうという事を察してはいたものの、胸の奥の違和感にファドを頼って掴んだ指が離せない。
「イェライシャ、大丈夫か?」
落ち着いた彼の声にうなづいてみせたものの、顔は上げられなくて……彼の胸に縋り付くような形になってしまった。
「移動に酔ったようだね。王城からの『扉』を使えれば良かったのだが……」
隣からそう言うチャクラヴァルティンの声が聞こえて、背中に暖かな気配を感じる。
何の名前だろう、またしても知らない単語が聞こえた。
けれど不快感によろめかないようにするのが精一杯で、背中の気配にも注意を払えなかった。
それが彼の癒しの暖かさだと気付いた頃には初めの不快感も大方が消えていて、ようやく私は顔を上げる事ができた。




