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暁の銀嶺と黄昏の蒼  作者: 天野原 唯
80/110

080 夢と本心と

 

 とても嫌な夢を見た。

 

 

 優しい微笑みのまま彼は私に背を向ける。

 いつも通りの愛嬌をたたえた瞳が私から離れてゆく。

 心は彼を引き止めたいと思うのに、どうしてだか身体は言う事を聞かない。

 むしろ、私はそれ以上彼には関心が無いのだという素振りで。



 飛び起きたベッドの上で、ドキドキする鼓動とそれよりも痛いくらい胸の奥が締め付けられて束の間呼吸が出来なかった。

 はしたない位大きく口を開けてようやく空気を吸い込むと、ぶるぶると頭を振ってさっきの嫌な夢を頭から追い出そうとする。

 昨日の、ラウドラチャクリン……ヴァルの言葉のせいだわ。


 私の記憶を封じる、と彼は言った。


 だから私は、彼が、ファドラーンが私から離れる夢を見てしまったの?

「封じると言われて……忘れてしまう事が出来る程、私は薄情なのかしら」

 呟くとベッドから出て窓を開けた。


 同時に疑問が浮かぶ。

 私が彼を忘れてしまったとして、彼は……ファドラーンは……平気なの?

 高地特有の爽やかで冷涼な朝の空気を期待して窓を開けたのに、開けた世界は曇天で微かに湿った気配も感じられる。

 今日はじきに雨になるのかしらと気分まで滅入りそう。


 身支度を済ませて一階へ降り、厨房のサヤを訊ねようとしていたらその手前の玄関ホールでラトーとヨシュアに会った。

「ああ、おはようございます、イェライシャさま」

「おはよう、ラトーさん、それにヨシュア。早いのね」

 いつものように挨拶を交わすも、2人の態度はなにげにぎこちなく感じられる。

「昨日は大変だったね、体調を崩したりしてない?」

「ありがとう、いろんな事にびっくりしたけれど……大丈夫よ」

 慎重に尋ねてくるヨシュアに、彼等が心配していてくれたのだと察して、笑顔でそう返事を返す。

 少なくとも私の今のダメージはあの一連の出来事では無かった。

「それならいいけれど……何かあったら、皆相談に乗るからね」

「ええ、……本当にありがとう」

 笑顔でそう言ってくれた2人に改めて礼を言うと、今度はサヤを捜して厨房を覗き込む。

「あら、お早うございます。すぐ朝食の支度が出来ますから……ラウとファドを呼んで来て下さる?」

 本当は彼女に聞きたい事があったのに、見越していたかのように用事を頼まれてしまい渋々2階へと引き返す羽目になった。

 イクシールで会ったファドラーンの母、ルツィエラはこまごまと気を使ってくれる優しい人だが、サヤは自分の答えは自分で見つけなさいねって言う自立タイプらしい。

 仕方なく、ファドラーンに訊ねようと彼の部屋をノックする。

「ああ、お早うイェライシャ。早速サヤに使われたの?」

 少し間が空いたものの扉を開けてファドラーンが覗く。

 どうやら彼女の性格はお見通しらしいファドラーンの言葉に苦笑しつつ、彼が小さく欠伸を噛み殺すのに気が付いた。

「どうかしたの?眠れなかったの?」

「いや、国に戻るのなら……何枚か書類を出しておかなけりゃならない先があるから、それを纏めていたんだ」

「思いっきり寝不足って顔になってるわよ?」

 至って平然としたファドラーンの返事にそう突っ込むと、彼はいつもの明るい笑顔で。

「ラウと違って俺は、書類と格闘するのは得意じゃないんだよ。……でもほら、朝一番で元気な君の顔が見られたから……少しは元気になったかな」

 しれっと続けた言葉の後、頬に暖かく微かな感触。

 無防備にしていた頬に口付けを落とされ、途端にその頬が火照ってしまう。

「朝の挨拶」

 抗議しようと睨み上げたのに、軽くそうあしらわれては怒る気さえ削がれてしまう。

「って、イェライシャ……何処に行くの?」

「ラウの所、サヤは彼にも声を掛けてって言っていたもの」

 怒っても今更始まらない相手をその場に残すと、更に奥のもう一部屋へと向かう。

 慌てたふうのファドラーンの言葉にもそう返事だけを返し、教えてもらったばかりのラウドラチャクリンの部屋の前に立った。

 ちょっぴり躊躇ったけれど、思いきってノックしてみる。

「……ラウ?」

 ノックしたものの返事はなく、気配もないので訝しげに声を掛けてみた。

 それでも返事はなく、もう一度ノックしようとした腕をファドラーンに軽く押さえられてしまった。

「……ファド?」

 微かに面白がっている気配がして、ようやく私はサヤに担がれたのだと気が付いた。

 ラウドラチャクリン……チャクラヴァルティンはとても早起きで、一緒に旅をしていた間一度として寝坊などした事が無かったのだ。   

 当然こんな時間に起きていないはずがなく、返事がないとなればここには居ないという事になる。

「もうとっくに彼は事務所だよ。まあ……俺の倍以上の書類を片付けたところだろうね」

「2人とも……ちゃんと寝たの?」

 面白がっているらしいファドラーンをつい睨み上げてしまった。

 彼等の事を心配して見上げているのに、当の本人は涼しい顔で、ただ面白がっているだけのよう。

「もちろん、自己管理を怠ると……ひどい目に遭うのを承知しているからね」

「じゃあ……もういいわね?サヤの所へ戻るわ。彼女に聞きたい事もあるし」

 素っ気なくそう言うと彼に背を向けて、厨房へと歩き出そうとした。

 けれど……すぐ後ろから伸びた腕に抱きすくめられてしまう。

「連れないなぁ……けど、俺達の事を心配してくれていたのなら……嬉しいな。ありがとう……イェライシャ」

 抗議しようとしたのに耳元へとファドラーンの言葉が注ぎ込まれ、微かに掠めるその吐息に鳥肌が立つ程の感覚を覚えてしまった。

 いつだったか彼に抱きしめられた時に感じたのと同じ、痺れるようなその感覚。

 息を詰めてそれをやり過ごそうとしたものの、身体が一瞬震えるのを止められなかった。


「……愛してる」


 しかも突然そう告げられて、さらに狼狽えてしまった。

 みっともないくらい驚いているだろう顔で振り返ると、ファドラーンは優しい微笑みのまま。

「だからこそ、君の選択を尊重するよ」


 深い深い意味を込めた言葉。

 唖然として、何時の間に彼が抱きしめていた私を自由にしてくれたのかも定かではなかった。




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