075 追求
文字どおり世界、いいえ私の周りが揺らぐ。
景色が不自然に歪み、瞳を閉じても周りの空気に名状し難い異常を感じる。
とっさに唯一手に感じられるものへとしがみついた。
それがファドラーンの腕だと、そして彼の身体に包まれるようにしてしっかりと抱きしめられているのだと改めて認識したのは、周りの異常が収まってからなお暫く経ってからだったと思う。
「……落ち着いた?」
目を閉じていたけれど、自分の周りの先程までの異常な空気が消えたのに気付いて深呼吸を一つ。
そして耳元にファドラーンの心配そうな声。
ようやく周りを、相変わらずファドラーンの腕の中からだったけれど見回すと、そこは見覚えのある場所だった。
こぎれいに整えられたアルマンスールの屋敷の玄関ホール。
さっきまで私達が居たのは馬で何日も掛かると言う神聖湖で……。
「……一体どうなっているの?」
ようやくそれだけが言葉になった。
とにかく訳が分からなくて、疑問だらけの顔でファドラーンを見つめていたのだと思う。 自分の腕がまだ彼をしっかりと捕まえたままの状態で、はたからみたら単にいちゃついてる恋人同士ぐらいにしか見えない事なんて全然分かっていなかった。
所謂、溺れるものは藁をも掴むっていう心境だったのに。
だからファドラーンがいやに嬉しそうな顔で私を見下ろしている、その訳に思い当たったのはもう少し経ってからだった。
「取り敢えず、無事とは言い難かったけれど……帰って来たんだよ」
「それは分かっているわ、私が知りたいのはどうやってって事よ。今度は仕掛けなんて使っていなかったじゃない」
「さっきのあいつ……ラグヌスがその代わりなんだけど、転移の力を持っているんだ。俺は残念ながらその手の力は持っていないからね……だから目印の石を用意して待っていたと言う訳さ」
ファドラーンの説明にまだ納得がいかなくて、ようやく彼の腕から抜け出す。
そして、しっかりと睨み付けてみた。
「でも、今日はあんな事態になるなんて……思っても居なかったはずなのに。何もかも用意が出来過ぎているわ」
「何があっても対応出来るように……準備に抜かりは無いって事だよ。ひとつ間違えばあいつら……クァーナの狗……に奴らが探し求めているものへの手がかりを与える事になってしまうのだから。俺達がそんなへまをしたら、何の為にここまで出張って居るのか意味が無いだろう?」
むしろ余裕で振り切るくらいの力量が無けりゃな。と、呟いたファドラーンをやっぱりまだ少し納得いかない気分で見上げる。
そしてもう一度、さっきの質問を口にした。
「ラグヌスが最後に言っていた……ヴァル様って……だれ?」
見つめていたから、ファドラーンが少し眉を動かしたのにもちゃんと気が付く。
私なりの推測もあったのだけれどやはりきちんと確認を取りたかった。
ラグヌスは自分よりも立場が上らしいファドラーンの事を「殿」と呼んだわ。
けれど、その「ヴァル」と言う人の事は「様」と呼んだの。
特に敬意の籠った恭しい口調で。
つまり、そのヴァルという人が。
「君のこの外套を……俺の母親に下された方だよ。俺の母親には昔、とても中の良かった女友達が居てね……彼女はここルクアの民だったのだけれど。……彼女の為にと彼からの贈り物だった。その友達はもう随分前に亡くなったんだ、俺たちとはやはり時間の流れが違うから」
分かっているの?
私と貴方の間の時間もそうだわ。
どう表現していいのか分からない恐怖心が背中から這い上がる。
胸が締め付けられるようだなんて言う陳腐な言葉ではなく、心底からの恐怖心。
無意識の言葉に依て穿たれた私と彼との距離は現実の身体では半歩もありはしない。
今の今まで抱き合っていたくらいなのに。
けれど、こうして言葉の端からこぼれる現実。
それはどれ程覗き込んでも底を見定める事の適わぬ、深淵そのもの。
彼はそれを自覚しては居ないのかもしれない。
「その……ヴァル様って方が貴方がたの上司なのね?王族の……」
「……ああ」
諦めにも似たため息をついて言葉を続けると、少しばかり緊張していたらしいファドラーンの答え。
真っすぐに私を見つめて、ゆっくりとうなづく。
どうやら、彼はこの上司への私の追求の方に気を取られていたのだと判った。
「フィルダウス辺境守<イレ・イフェ>。俺達の上司にして……フィルダウスの次期国王……だよ」
「……嘘」
「嘘なんかじゃない。それこそ何の為に」
呟くように言うと、それを否定するのはもういつも通りの彼だった。
確かに王族だとは言っていたけれど、そんな重要な人だとは思ってもみなかったわ。
「そんな人が、私の近くに居たと言うの?」
これまでの間に知らなかったとは言え、その人に無礼な事をしていなければ良いのだけれどとか、そんな意気地のない事を考えている私が居て。
「フィルダウスへ行きたいんだろう?」
「それは……」
私の無様な心の迷いなぞ関係なく、畳み掛けるようなファドラーンの言葉。
「直談判って手もあるよ」
「片道切符が欲しい訳じゃないのよ?」
笑顔でそう言われても、納得出来なくて言い返していた。
それってつまり口封じと一緒って事じゃない?
随分と彼等の事を知ってしまった私をフィルダウスへと連れていき、帰れないようにしてしまえば良いのだもの。
その言葉にしかしファドラーンは意外そうな顔をした。
「君が望めば戻る事は不可能じゃないよ?そりゃ……俺としては……君が居てくれた方が良いんだけれど」
「もしかして……それってプロポーズのつもりなの?」
そこまで突っ込んだ質問をするつもりは毛頭なかったのに。




