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暁の銀嶺と黄昏の蒼  作者: 天野原 唯
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071 逃走


 よく聞き取れなかった。

 ファドラーンが何かを呟いたのに。


 彼の口振りから、怪我をしたのは私のせいではないらしい事、何か理由があってそうしたらしいとは推察出来たの。

 でもそれに安堵してしまって気が散漫になっていたのかもしれない。

 もしも自分が大切な人の足手纏いにしかなれないのだとしたらと、無力な自分に愕然としていたのだもの、ファドラーンの言葉は救いの光明のようなものだった。

 続いて彼は傷付いた方の腕を肩くらいまで持ち上げて、何かを叩こうとでも言うような仕草で振り下ろした。


 今までに流れ出していた彼の血が、水のような鈍い音を立てて地面へと叩き付けられ、その鮮やかな血の色と生々しい音とに悲鳴を上げそうになってしまった。

 でも、それは声にはならなかった。

 見慣れない真っ赤な血の色と、その鼻を突く匂いに身体が言う事を聞かなかったから。

 むしろ膝から力が抜けて、崩れそうになる身体をファドラーンの背中で支えているのが精一杯で。


 そのせいで廻りの風景が変わったらしいのに気付くのがかなり遅れた。

 目からの情報よりも、刺すように冷たい空気と、街中では有り得ない新鮮で清浄な森林の香りに正気に引き戻されたと言う方が正しいのかしら。


 それに気付いて見回した廻りは最早薄暗い街の片隅、陰気な小径ではなくなっていた。


 大して太くはないけれど、かなりの高さに茂った葉を持つ木々が私達を取り囲み、そして広く広がっていた。


「何処なの……此所」

 当然のように口にしてしまった問いに、しかし答えは無かった。

 それどころかしっかりと腕を取られて、見上げたファドラーンは既に走る態勢だった。

「静かに、すぐ此所から離れるよ」

 そう言い終わる前に既に彼は走っていた。

 すぐ後ろでクァーナ人達のうろたえた叫び声が上がりはじめ、彼等もこの異常な事態に困惑しているのだと知った。

 何度も下生えの草や木の枝に足を取られ、倒れそうになるのを時には引張り上げられ、時には抱きかかえるようにファドラーンのサポートを受けて、かなりの距離を走ったと思う。

 木立の中、ひっそりと白い石が立つ所を見つけたファドラーンがそこへ向けて足を速める。


 探るように彼が左手を動かしたので、答えるように握り返した私の右手に込める力が一瞬強くなった。

 けして離さないように……そんなふうに感じられるその力に、そして彼の手のひらの力強さとその温もりと、全てにドキドキした。


 もうとっくに息が上がっていて、鼓動は休息を求めて暴れている。

 それでも、疲労から来るものではないとはっきり言い切れるその感覚にもうどうしようもなくなった。

 白い石の脇を通り過ぎるその一瞬、何か重い空気の中を通り過ぎるような、或いは見えない壁のようなものを感じたけれど。

 ファドラーンが強く手を引いていてくれたから何とかそこをやり過ごす。


 そして、ようやく立ち止まったファドラーンの胸に、ただ何も考えずに飛び込んだ。


 彼が驚いているらしい気配に更に満足して、そのまましっかりとファドラーンの胸を占領する。

 耳をぴったりとくっ付けて私と同じように早くリズムを刻むその鼓動にしばらく聞き入ってから、ようやく心を落ち着ける為に深呼吸を一つ。

 彼がそこで何も言わなかったら、私はこの感情の昂りのまま彼に返事を返していたかもしれなかった。

 ぐずぐずと何時迄も保留にしている……とても大切な事。

 けれど突然の私の行動を、脅えていたからだと勘違いしたファドラーンが様子を窺うように覗き込んでくる。

「この先に休める所があるから、行こう」

 心配そうな瞳のファドラーンと視線を合わせたが、いつもの事ながら彼には私が考えている事が判っていないらしい。

 ちょっぴり悔しくて睨んでみたが彼には通じない。

 判っているの、彼が私の安全と休息を優先してくれているのは、ね。

 そう自分を納得させ、そして一瞬前のその浮かれるような感情の昂りから離れてしまった今は、咄嗟の思い付きのような自分の行動の大胆さに改めて頬が火照って来るのを感じていた。

 幸いにもさっきまでの全力疾走のお陰で息も上がり、呼吸すらまだ荒い。

 これだけ頬が赤くなっていても不自然には見られないだろうと自分を納得させると、先に立って歩きはじめたファドラーンにエスコートされるように目的地へと向かった。


 そしてまだ彼の左手は私の右手を掴んだままで。


 一歩遅れてファドラーンの隣を歩きつつ、じっとそれを見つめる。

 差し迫った危険はなくなったのだろうから、手を離してくれても良いだろうに、彼にその気配はない。

 右手の自由を確保しようと思ったら、私は彼の手を振りほどかなければならない事になる。

 この手を離してしまいたいのかどうかもはっきりしないまま、彼と一緒に歩き続けた。


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