060 予定
「俺も昼食の後はハルヴァイとミシェイルとで挨拶回りがあるから、留守にする事になる。その頃にはラウも戻って来ているはずだから……もしも何かあっても大丈夫だろうと思っているよ」
ヨシュアもいるしね、と締めくくった言葉に神妙な表情でうなづくイェライシャ。
俺が外出して彼女だけがここに残る事に不安が無い訳じゃないだろうに、それを表にあらわす事はしなかった。
ただ、何か言えずにいる事があるのだけは感じ取れて、それが孤独の不安のせいなのだろうかといつもの台詞を重ねて口にしそうになった。
「大丈夫だよ」と。
けれどいつもその後に彼女が見せるどことなく不満げな表情を見るのが嫌で、言葉ではなくつい腕が出てしまった。
言葉が足りないのはいつもの事だ。
だったらそれ以外の方法で気持ちを伝えたかった。
俺からすればかなり小柄で華奢な彼女の身体を抱き込むように胸の中へと仕舞い込む。
サヤは食器を下げるついでに厨房へと入ってしまっているので、つかの間の二人きりに便乗したと思ってくれればいい。
「本当は……置いてきぼりになんてしたくはないんだ。けれどここの方が安全なんだよ」
俯いた姿勢のせいで声がかすれたが、本当にそれだけだったかは自信が無い。
彼女は抵抗もしないで俺の胸の中から見上げて来た。
その金色の瞳に見とれて少しの間、時間を忘れる。
このまま口付けてしまいたいと暴れそうになる心を何とか押さえつけて、その代わりに右手をイェライシャの髪の間に潜らせてみた。
短くしているので、結い上げないで肩の下辺りで揺れているその柔らかな金色の髪。
すい……と髪の間に差し入れた指が頭の後ろで彼女の髪を弄ぶ。
その刺激がうなじから耳の後ろにまで伝わって、どんな感覚に襲われているかはすこし鳥肌の立った彼女の首筋が言葉よりも明確に語っている。
「……判っているわ」
微かに震える声でそれでも彼女が返事を紡ぐ。
強がっているその言葉に本心を見せまいとする、虚勢を張っていた頃の彼女の姿が思い出され、愛しさに抗えなかった。
情けない程衝動的にイェライシャの首筋に顔を埋め彼女の香りに満たされる。
短いけれど、とても甘い時間だったと思う。
イェライシャは依然として返事をくれた訳ではないのだが、こうして彼女の気配を求める俺を拒む事は無い。
彼女が返事……詰まる所俺の求婚への答え……をいまだにくれない理由にはいくつか思い当たる節もあり、決断をせかそうとは思っては居ない。
ただ、時々こうやって彼女の温もりを求めてしまう、情けない自分をいかに押さえるかが難しいのだ。
触れたくて仕方が無い相手が拒む事をしないのなら、どうやってこの昂りに歯止めが掛けられると言うのか。
……それでもまだ貰っていない返事が俺の中の欲望に歯止めをかける。
「……ありがとう、これから俺は事務所に戻るよ。興味があるなら店を覗いてくるといい、丁度今はミシェイルが担当しているから」
「いいの?」
ひとしきり彼女との抱擁を堪能して、それでも渋々ながら身体を離した。
まだなんとなくかすれたままの声でそう告げると、彼女は驚いて俺を見上げる。
そういえばアルマンスール商会という外見しか彼女は知らなかった。
イクシールにいた時も、店舗部分を見せてあげる時間の余裕がなかったのに気が付いてはいたのだが。
だから俺たちが具体的にどんな商品を扱い、どんな客層を持っているのか全くと言って良い程知らないはずだ。
「興味が無いのなら無理にとは言わないけどね、暇だと退屈するだろう?ハルヴァイは主に事務方で店にはあまり顔を出さないんだ。ラウと一緒さ」
だから警戒しなくてもいい、そういうニュアンスを込めた言葉に上気して赤い頬の彼女はゆっくりと微笑んだ。
その微笑みがひどく儚げでもう一度抱きしめそうになってしまう。
まじめにやばい。
「この廊下の奥……布の暖簾からなら、事務所を通らずに店に入れる」
いぶかしげな彼女にそう順路を教えると、見守るイェライシャの視線を背後に感じたまま手前の扉から事務所へと戻った。
早速サヤを手伝うと言っていた彼女だが、夕方までは手が空くのを知っていたから敢えて次の行動を見守る事はしないでおいた。
ある程度イェライシャが自分に出来る事を模索するだろうと言うのは既に予測が付いていたので、サヤに手伝いの時間を区切るようにとラウドラチャクリンが指示を出しておいたのだ。
しかし、午前中には店舗部分に彼女が現れる事はなかった。
事務所に顔を出したミシェイルからそう聞いた俺は、昼食の時間より少し早めに厨房を覗きに行き、涼しい顔のサヤに「お嬢様ならお部屋ですわ」と軽くあしらわれる羽目になった。
「そんなにご心配なら事務所のご自分の横にでも居ていただけば宜しいのに」
いつからイェライシャがサヤの「お嬢様」になったのかと突っ込みたいのを見送った所で、更にそうカウンターアタックを喰らう。
見た目は充分な手弱女であるサヤだが、実は容赦がない。
流石はあのミュゼナを姑に持つ女だ。
夫であるラトーの母親ミュゼナはラウ……チャクラヴァルティンの乳姉妹を務めた女性で、彼の所領内の影(?)の実力者でもあるのだ。
「……自分がそんな事されたら、息が詰まっちまうだろう?」
「あら、真面目に仕事している所も見ておいて頂かなければ」
……って、まるで俺が何にもしてないみたいじゃないか。どうやって言い返そうかと迷った所で後ろからの気配に気付いた。
どうやら少し前から居たらしいそいつに、なんとかしてくれと視線を向ける。
「なんだ気付いたのか。……かなり面白い展開だったのに」
「お帰りなさいませ、ラウドラチャクリンさま」
呆れて言葉が出てこない俺を尻目に、サヤは彼に対して恭しく腰を折る。
それにうなづきながらもラウドラチャクリンは少しばかり人の悪い微笑みを引っ込めようとはしなかった。
「ああ、それにしてもサヤ……あまり若い者を苛めるものではないよ?これでも一応頑張っている方なんだから」
「傍で見ていてあまりにももどかしいものですから、つい……ね」
苦笑混じりに彼女はそう言うと、もう一度挨拶をして自分の仕事へと戻って行った。
「皆して……俺たちを楽しんでますね?」
「皆して反対するよりはいいと思うが?」
俺の苦情に奴はさらりとそう言うと、にっこりと気持ち悪いくらい爽やかな笑みを残して自分の部屋へと入って行く。
外出着を改め、昼食迄の少しの時間を休息に充てるつもりなのだろう。
確かにそうなんだけれど、と、その後ろ姿をひとしきり睨んで不承不承もう一度事務所へと戻る事にした。
この後に控えている外出に備える準備を思い出したからだ。
大半の用はハルヴァイの得意先回りだが、帰国の挨拶をしておかなければならない要人も中にはいて、その為に俺が同行する。
一応ここでは俺が父の名代として取り仕切る事になっているので、これは逃げられない。
そして、そんな雑事に等しい用にイェライシャを同行させるまでもない。
頭ではそんな事は十分に理解出来ているのだが、すこしばかり寂しい。
まるまる一月以上の旅の間、ずっと隣に居たのだ。
当たり前のようになっていたその存在が側に居ない、それがこんなに空虚感を伴うものだとは思っても居なかった。




