056 侍従長
「……?」
その奇妙な沈黙が途切れたのは、不意に日誌を閉じて立ち上がったラウドラチャクリンの動きでだった。
閉じた本をソファの前の低いテーブルにのせ、扉を見つめる。
「どうか……したの?」
問い掛けるのと、扉が開いたのとはほぼ同時だったかもしれない。
「済まない……待たせてしまったね」
穏やかな声、しかしほのかに疲れの感じられるその言葉の主を、座ったままぼんやりと見つめていた。
僧侶が身に纏うとされる指甲草染めの衣……はここに来るまでに大分見慣れていた……にフードを後ろへと払っていたので、きちんと手入れされているのだろう剃髪された頭に目がいく。
そして次に疲れの見えるその表情へと。
少し遅れて立ち上がったファドラーンが手を差し伸べてくれたので、それに縋ってようやく私もソファから立ち上がる事が出来た。
「お久しぶりです、ナムリ殿。今日は帰国のご挨拶と……連絡を差し上げていた件についての裁定を頂きにまいりました」
すでに立ち上がっていたラウドラチャクリンが優雅な礼と共に口上を述べるのを、少しばかりよそよそしい感じだな、と思ってしまう。
多分、この人ともラウドラチャクリンは普段はもっと砕けた会話をしていそうなのに。
今は私が居る事を意識してこんな口調なのかしら。
「そうだったね。そちらがその……御婦人かね?」
ラウドラチャクリンの挨拶に、彼の視線が私を捉える。
穏やかな声と表情のその人だったが、その侮れない瞳は厳しい。
緊張しているのでぎこちないのは否めないが、サヤの助言通り……故国風の腰を落とす挨拶をして相手の表情を伺った。
ナムリと言う目の前の人は先に出会っていたシェカルの実力者ティサ卿と同じくらいの歳だろうか、疲れたような雰囲気を纏っているせいで本来の年齢は分かりにくい。
もう何日もこの王城に詰めているのだろう、とは推測出来るが。
「先に書状でご紹介させて頂きました、ユグドラセアのイェライシャ・グレンフォード嬢です。バーラートのシュヴァーゼ藩王の元から出奔なされた後に我々と偶然出会ったので、ジャヤルの主の力を御借りしてここまでお連れしたのです。結果的にはバーラート内の勢力争いに巻き込む形になってしまったのですが、無事に自由の身になる為にはナムリ殿の御協力が欠かせません。どうぞ良しなに……」
「……ジャヤルの王からの贈り物として遣わされた娘御故、平時であれば私一人の裁量で事を進める事は出来ぬのだが……。幸いにも今は非常時だ、既に猊下より事後を託されておる事もあり……そなたらの希望に添う事も出来よう」
流暢に言葉を紡ぐラウドラチャクリンに、彼は寛大な処置を惜し気もなく約束してくれた。
そのあまりの気前の良さに、更に裏では何かの取り引きがあったのではないかしらと疑いたくもなる。
「ありがとうございます」
そう口を開いたのはファドラーンで、敬うように深い礼をした彼を見てナムリ殿は微笑みを見せた。
「早速ジャヤルの王には私からの書状を用意しよう。書類の上とは言え……一応この令嬢の身元は私が後見に立ち、君たちの預かりという事にせざるを得ないが、くれぐれも問題を起こさないように頼むよ。摂政のカルザンとは良好な関係を崩したくはないのでね」
「勿論承知しています。彼女の身辺警護はこのファドラーンが務めていますから、ご心配なく」
とうに決まっていたような口ぶりのラウドラチャクリン。
やはり既に事態の流れそのものにはあらかじめ打ち合わせがしてあったみたい。
手早く話をまとめたナムリ殿はそれでも、最後には少し不安そうに念を押していた。
摂政、とは何度も耳にしていた役職だが、王に次ぐ地位とされるナムリ殿でさえ顔色を伺わねばならぬ程の人物なのかしら。
「どちらかと言うと侍従長と摂政とは同等というのが理想の力関係なのだが……今の摂政は猊下が殊の外重用なされた者でな。わしらよりも随分若い故…気負いが強く、今手綱を誤れば共に破滅じゃよ。これからの時期に無用な波風を立てれば、付け入られ易くもなろうからな……自重しておるのじゃよ。儂も、彼もな」
そう説明するかのようなナムリ殿の言葉に黙ってうなづいた。
私の表情から、私が抱いたであろう疑問まで推測出来てしまうその洞察力には降参する他ないもの。
そして付け入るのが誰かとは敢えて口に出されなかったものの、それが山地を隔てた隣国であろうと言うのは流石に推測が立つ。
同時に事情に疎い私にですら、同じ敵を持つが故に、このルクアディナルファの王とフィルダウスの勢力とが利害の一致を見て手を結んだのだとも理解出来た。
「ジャヤルの主殿への書状は後ほどラウ殿に誂えるとしよう。儂は猊下のお側へ戻らねばならぬ故、これで失礼するが……令嬢は護衛殿にこの町を案内して貰うと良い。早々に猊下が化身を収束なされる事となれば、本来のこの地の賑わいをお目に掛ける事は適わぬかもしれんからな。ラウ殿は儂と同行してくれるかね?猊下は君に会いたがっておられる故」
「もちろんです」
用件が済んだと判断したのか、ナムリ殿はそそくさと席を立つとついでのようにラウドラチャクリンへと声をかける。
神妙にそれに同意したラウドラチャクリンは私達を見遣ると、少しばかり元気が無いいつもの微笑みを見せて言った。
「わたしは戻るのが遅くなるだろうから……サヤとラトーにそう伝えておくれ」
「……判った」
返事を返すファドラーンの声も硬くて、予想はしていたけれど事態は切迫しているのだと痛切に感じられた。それにしても……。
「さっきナムリ殿が言っておられた……化身を収束する……ってどう言う意味?」
疑問に思った事を口に出せたのは、城を出て城下の賑やかな通りが近付いて来た頃だった。
私達を案内して来てくれた、初めの無愛想な僧侶が再び城の外へと案内してくれたので、預けていた馬を引きながらのんびりとした風情で王城の前の大きな池に面した街を眺めて歩いていたのだ。
「祭祀王は……水王の導きで生まれるとされるので、水王の化身だと考える向きもあってね。俗界の王が亡くなる場合は崩御と使うが……ルクアディナルファの祭祀王の場合は化身を収束する……つまり本来の神に戻るという意味合いを込めてそう言う表現をされる事もあるんだ」
「神様……の生まれ代わりなの?」
「厳密には違うらしいけれど、ナムリ殿や摂政殿は主義は違うものの、王を敬愛していると言う所では近いものがあるらしくてね、特に敬った表現を好むんだ」
ファドラーンの説明を聞きながら戸惑っていた。
私の故国には「生まれ変わる」と言う概念そのものが無かったので。
バーラートやイクシールでも当たり前のようにその言葉は使われていたが、通り過ぎる者としての感覚でしか対していなかった私はその意味を、そして世界観を理解しようとしていなかった。
「人は死ぬと生まれ変わるの?……私もいつか死んだら……生まれ変わるのかしら」
「俺は……それを信じていない訳じゃないが、何だか逃げてるような気がして好きになれない。今生がうまく行かなかったからって……来世が良いとは限らないだろう。それよりは今を出来る限り精一杯頑張るほうが俺の主義には合ってる……と俺は考えているんでね」
彼なりの解釈を聞きながら、黙って通りを歩いた。
この辺りは商店街のようなところで王城に近いせいか高級そうな店が目立つ。
特に気に留めずに通り過ぎて来たが、もう少し先の人通りが少なく目立たない場所にアルマンスール商会は位置している。
王城に遠くはなく、けれど取り立ててにぎわう場所でもなく、あくまで目立たぬようにとの意図が手に取るようだわ。
「少し戻って……市場の辺りを見て行くかい?」
ファドラーンは観光を優先に考えてくれているようだが、さっきのラウドラチャクリンとナムリ殿の後ろ姿が何時迄も心に残ってしまっていて、正直それどころではない。
「……欲しいものがある訳じゃないし、今は人混みにまぎれる気分でもないわね。まだ昨日見たものを忘れてしまう訳にも行かなくて……気が休まらないってのもあるけれど」
控えめに見回してもやはり町中の至る所で見かけるのだ、クァーナ人を。
とは言え全てのクァーナ人が危惧しているような人種ではないのは判っているわ。
それでも彼等の姿が視界を掠めるのはいい気分では無かった。
「むかし……今のクァーナが国として確立する前身の国とも、このルクアディナルファは領土の帰属をめぐる問題を抱えていた。当時のクァーナは封建制度の王国で……お互いがお互いを従えようと争っていたんだ。でも、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。少なくとも君は侍従長の後ろ楯を持った身分だ、彼等と言えども簡単に手出しはできない。それに……俺たちにしても、簡単に彼等に尻尾を掴まれたりはしないよ?」
優しいけれど言い聞かせるようなファドラーンの口調に、彼は私が自分の身の安全を危ぶんでいるのではと思っているらしいのに気が付いた。
私が案じているのは自分自身ではなく、目の前の男性の安全なんだけれど。
それをどう表現すれば判ってくれるのかしら。
……イクシールにいた時もそうだったわ、自分達の事よりも私の安全ばかり。
確かに私はなんにも取り柄の無い娘かもしれないけれど、それでも目の前のひとを心配させて欲しいと、そう思うのは思い上がりなのだろうか。




