055 王城
手を挙げて挨拶してくれたファドへと笑顔で返事をしてから、こじんまりした食堂を出て浴室と厨房など建物の内側を見て廻った。
大体の屋敷の間取りは、サヤさんに案内してもらううちに何とか頭に入っただろうと思う。
こうして見ると建物の一階部分は殆どが「アルマンスール商会」というありきたりな屋号を掲げた商家の為に使われている事がよく分かる。
裏庭に面しての玄関はあくまで家族と内々の客の為のもので、最初に私が待たされた上等の調度品があつらえられた応接室は接客用のものだという。
更に奥に続く通路の両脇には倉庫を兼ねた事務室、更にその奥の突き当たりには何人かが寝泊まり出来る大部屋があるのだと教えられた。
今夜のように隊商の帰還などで人が多い時に使われるもので、此所に留まる予定の者は今夜は夜半まで飲み明かすつもりでしょうね、と諦めの溜め息をついて肩をすくめたサヤさんについ微笑みがこぼれる。
彼女のそれは、迷惑がると言うよりも寛大さの滲むものだったからかも知れないが。
再び案内された浴室はシャワールームのような所で、浴槽はあるのだけれどあまり使われていないらしいのは、この街の水事情の悪さ故だと説明される。
それでも身体を浄めたい時に好きに湯が使えるのが結構贅沢な事だと言うのは、言われるまでもなく理解出来るわ。
この街に着く以前からこの地の特徴が乾燥した気候なのには気付いていたし、浴室と言うものの設備が無いかなりお粗末な宿にも流石に慣れっこになっていた。
この乾燥した気候に馴染んでしまえば、頻繁な入浴と言うものもあまり必要ないのかもしれないと考えていたのだ。
そして客人の身の回りの世話も自分がするからと言ってくれたサヤさんに感謝しながらも、出来る事は自分でするからと日常の事について教えてもらう事にした。
更にはこの国の習慣や、明日会う事になっている祭祀王の侍従長と言う身分の方に失礼の無いようにと、自分よりも身分の高い相手に対する敬意の払い方なども教えてもらう事にする。
「今日の所はお体を休めて下さいませ、明日の朝……お使いの方を待つ間に教えて差し上げますから。明日に差し支えてしまっては意味がありませんでしょう?」
早速教えてもらおうと思ったのだが、せっかちに頼もうとした私はやんわりとサヤ……呼び捨てで呼んでくれと譲らない彼女……にたしなめられてしまった。
「でも……早く覚えておきたいの」
「大丈夫ですわ、すぐに覚えられますから。それにまず初めにお会いになる時はご自分の御国の流儀でなさいませ。未だお会いになった事の無い国の方がどんなご挨拶をなさるのか、あちらの方もご興味がおありだと思いますわ」
「……そうかしら」
不安げな私をそう諭すように言葉を繋いだ彼女に優しい微笑みを貰って、無理強い出来る程押しの強くない私はそれに丸め込まれてしまった。
そんな自分が少しばかり不本意で、浴室で身ぎれいにした後も何となく気が晴れない。
何となくまだ賑やかさの余韻が残る食堂を遠めに見ながら、そっと自分に宛てがわれた客室へと戻るとベッドへと潜り込んだ。
翌朝、朝食を終えた私は前の晩の約束通り、サヤにこの国の礼儀作法を教えてもらっていた。
既に着替えも済ませており、迎えが来ればすぐに出掛けられるよう支度は整っているわ。
「もう少しだけ頭を下げれば相手が祭祀王様でも失礼には当たりませんわ。最敬礼ならば叩頭するのが習いですが……今の祭祀王様はそれをお好みにならぬと聞いておりますので。他の方へのご挨拶ならばもう少し頭の下げ方を浅くなさいませ?」
「……こうかしら」
ルクアディナルファ風とは言うものの、バーラートに居る間に教わり身に着けた貴人への挨拶とたいして変わらないその仕草を、習慣としてようやく身に付ける気になった私にサヤは穏やかな笑みでうなずいてくれる。
「そうですわね、あと、貴族のご婦人方には御国のご挨拶のままでも宜しいのですよ。とても優雅なご挨拶ですから……お目に掛けるのも良いのではないかしら」
「物珍しいうちだけだと思うのだけれど、私の見てくれと一緒よ?」
「……そうですわね。こちらに長くおいでになるおつもりならば、早いうちにこちらの習慣に馴染んでおかれた方が良いのでしょうね」
肩をすくめた私の仕草に、笑いをかみ殺したサヤの返事。
少しばかり投げやりともとれるのを承知の上で、根眉を寄せたままもう一度上体を屈め教わったばかりの挨拶をおさらいする。不機嫌そうな表情でおじぎをする自分を鏡の中に観察しながら。
そちらに気を取られていたので、そっと開いた扉からファドラーンが私達を伺っていたのには気が付けなかった。
「大分慣れたみたいだけど、俺はいつもの仕草の方が好きだな」
「いやね、覗き見なんてお行儀が悪いわ」
そう掛けられた言葉に、微笑みを浮かべているであろう彼の表情を見もしないで少しばかり高飛車に返事を返した。
ようやくこの地に馴染もうと努力し始めたのを見られた事が、なんとなく、決まり悪かっただけなのだけれど。
「王城からのお使いが着いたから、知らせに来たんだよ。……照れる事は無いじゃないか」
「照れてません。それなら初めにそう言ってくれればいいじゃない」
挑発的なファドラーンの言葉にいつものようにもう少し言い返そうと思ったものの、何となく隣のサヤが驚いたような顔をしていたので思いとどまる。
「ありがとう、サヤ。じゃあ行ってくるわね」
何か驚かせるような事をしたかしら、といぶかしみながらも彼女に礼を言う。
ラウドラチャクリンと使いの者が待っているから、とファドラーンに先導されて一階の玄関へと向かう途中でその疑問を抱えたまま彼を見上げた。
「……どうかしたの?」
「え?……っと……私、もしかして言葉遣いとか……はしたないかしら。何だかサヤが驚いたような顔をしていたのが気になるのよ」
「ああ、違うよ。俺と君とがあんな風にやり取りするのを知らなかっただけだよ。サヤは……俺が女性にあんな風に話すのを見た事が無いだけさ」
大した事じゃないとばかり、ファドラーンは気にも止めていなかったらしい。
「いつもはどんな風に接しているの?」
「……それはもう、紳士的に。ラウはほとんど店に顔は出さないし、まだ君は会っていないんだけれど、ここの店を俺と一緒に切り盛りしている奴は俺やラウが特定の女性と仲良くなるのをあんまり歓迎しないんで……なるべく相手にも隙を与えないようにしているんだ。特に、誘われても一緒に外へ出掛けたりなんてしなかったよ」
自分に何か非があったのかと心配になっていたのに、そうあっさりと答えられてしまっては拍子抜けしてしまう。それにしても。
「じゃあ私も歓迎されないかもしれないわね……その人に」
明るい口調で言葉にしてみたものの、なんとなく声のトーンが下がってしまう。
「シャーンドル・ハルヴァイ……って名前なんだけれどね、彼は一応親父からここの店の事と俺たちを任されているって気負いが強くて……心配性なんだよ。……ほら、彼がそう。今朝方まで別の用事で出掛けていたんだ」
指差されたほうへと恐る恐る目をやると、玄関に面したホールの片隅にラウドラチャクリンとともに立っている男性が目に入った。
イスナードさんと同じくらいの年齢だろうか、髪には随分白いものが混じりはじめているのにとてもしっかりとした体格。
そして私を見つめていたその視線は予想通りに厳しいものだった。
正直に言うならば初めて会った時のイスナードさんのそれよりも鋭く、そして心持ち拒絶の意も汲み取れるその視線の厳しさは予想以上で、うろたえてしまうよりは畏縮したと言った方がいい。
どうしてそれほどに厳しい視線を注がれてしまうのか、その理由がさっきファドラーンが説明してくれた事だけではないのを十分に理解出来てはいるのだけれど、でもやっぱり誰かにそんな視線を向けられてしまうという事はつらくて、心が萎えてしまいそうになる。
「ああ、来たね。ハルヴァイ、昨日からこちらに滞在する事になったイェライシャ嬢だ。……そんな風に怖い顔をしなくてもいいよ、わたしは彼女を信用しているしファドラーンも同様だ。ファドはこないだ彼女をめぐってケサルに宣戦布告したくらいだから……お前も気をお付け?」
ラウドラチャクリンがいつもと変わらない口調で、イクシールでの出来事をほのめかす。
今になって、あの時のファドラーンの私を保護すると言ってくれた、その対応が既に破格の待遇だったのだと、そう判ってしまってこんな状況だと言うのに妙に嬉しい。
「イェライシャ……これはシャーンドル・ハルヴァイ、ここの店の……まぁ監督役のようなものだ。石頭だから融通の利かない時もあるが、たいていは頼りになるよ。……そんなに恐がらなくても大丈夫、彼が君に何か失礼な態度をとった時にはきちんとわたし達に言ってくれ。勿論そんな事は無いと……わたしは信じているけれどね」
私があまりにも緊張した表情をしていたからかしら、ラウドラチャクリンはそう、あからさまな牽制を込めた言葉で隣に立つ男を見つめた。
にっこり笑顔付きなわりにはラウドラチャクリンの目は笑っていない。
そんな時、本来ならば明るい空の色のように見える筈の彼の瞳が湖の底の霞んだような光を湛える。
こういう時のラウドラチャクリンは、正直いつも以上に怖いと思うのだけれど。
主人の息子のその態度に、うろたえるかと思った高齢の彼はしかし意外にも微笑みで応じた。
それでもどことなく驚いているような印象は隠せないが、余裕のその微笑みがけして引かないぞと語っているようにも感じられた。
表向きは丁寧な対応のハルヴァイと、にこやかなラトーとに見送られて私達はアルマンスールの屋敷を出発した。
庭で待ち受けていた王城からのお使いは、何処と無く無愛想で物静かな感じの若い男だった。
僧籍に在る者は剃髪するのが習いとかで、綺麗に剃りあげられた頭に鮮やかな指甲草染めのフード付きの僧衣を纏っている。
わりと新しいその布地の鮮やかさは乾燥して少しすすけたような街の壁に異様に映えた。
「凄く……鮮やかな衣なのね」
先導するように先を行くその後ろ姿を見ながら呟くと、ファドラーンの視線をちらりと感じた。
「基本的にこの国には二つの勢力がある。政治を司る摂政と宗教を司る僧侶達。それらを纏めているのが祭祀王……と呼ばれる者だ。それは以前にも話したよね」
確認するようなファドの言葉に頷くと、再び言葉が続けられた。
石畳を行く規則的な馬の蹄の音を意識しながらも彼の言葉へと心を集中させる。
「あの指甲草染めの衣のみが僧侶に許された色なんだ。僧籍にある者は皆あの色をまとう。その中でフードのある衣をまとう事が出来るのはかなり上位の僧侶なんだよ。今のこの国の体制も元々は僧侶が支配権を握っていたらしいが……その中で細分化されて今の体制に落ち着いたみたいだな。祭祀王の侍従長は、僧侶の中では王に次ぐ地位でね、僧侶側の摂政のようなものだな。……本来の摂政を僧侶が兼ねる事もあったけれど、両者による権力争いがよく起きた。以来適任者が居ない場合を除いて……摂政は文官から選ぶ事になったと聞いている」
「誰がその高官を決めるの?」
「祭祀王自身の指名だとか」
「でも……王様が僧侶だったら跡継ぎはどうするの?僧侶は……結婚できるの?」
確か以前妻帯は出来ないと、そう聞いたわ。
意味ありげなファドラーンの微笑みが気になったものの、彼の答えは私の記憶通りだった。
「できない。だから次の王を決めるのは、祭祀王の守護をするとされる水王に任される。……水を司るというこの国の守護神が選び出した者を次の祭祀王として教育し、即位させるんだ。王が不在の間は摂政と侍従長が協力して国を治める」
「どうやって次の王を捜すのかしら。神様が選ぶって言っても……本当じゃないわよね?」
信じていない訳じゃないけれど、信仰心と神と言う存在を直結出来ない私の所謂不躾な言葉にファドラーンは曖昧な微笑みを見せる。
……どう説明すべきか言葉を選ぶような感じね。
「いろんな手がかりを集めて……王が亡くなった年に産まれた子供達の中から、水王の試験を通った者が選ばれると聞いているよ。侍従長と摂政以外は立ち会わないから……一般庶民の俺達は本当の所は知らないな」
軽く肩をすくめて彼はそう纏める。とても興味深そうな話題ではあったけれど今の状況からすれば非常識と取られかねないと思い付き、私も口を閉じる事にした。
黙ったままのラウドラチャクリンとお使いの僧侶と、そして私達。王城はもう目の前だ。
そう思って見渡すと、途切れた建物の向こうに大きな池が広がっているのに目を奪われてしまった。
乾燥した都市の真ん中に、大きな清水をたたえた湖のように広がるそれに言葉もなく見入る。
風もなく鏡のように静まり返ったその水面には、抜けるような青空を背後にした壮麗な王城が写り込んでいた。
その高地の山脈の中とも思えぬ風景。
つい、とその視界へとファドラーンの腕が伸びた。
「この池の向こう側に……この街の中心を流れる川がある。そこから常に水を取り入れているんだ。一応聖別された湖として儀式の時の舞台になるが……本当の神聖湖はこの都市から離れた山の中にある。……その周囲は聖別された土地として隔離されていて、集落もなく……寺院すらない」
「聖地として認められた場所に寺院があるほうが……当然のような気がするのに?」
「その地はこの国の導主たる水王に奉じられたので、静寂を好むとされるかの神の為に……人の立ち入り自体を制限してあるんだ」
故国で歴史に名を残す聖地と言えば、巡礼の対象として多くの人々を集める華々しく壮麗な建物がお約束だった。
王侯貴族から多くの喜捨を集めて栄えるそれに清らかなイメージはなく、作り物のような「聖地」と呼ばれるそれ自体が私は好きになれなかった。
「本当に私の国とは違うものが一杯よね……」
呟きのような言葉に振り返ってこちらを見ていたラウドラチャクリンが微かに微笑み、大分慣れていたものの、それでも私の頬は微かに赤くなってしまった。
「暫くこちらでお待ち下さい」
丁寧な挨拶をして去って行ったお使いの僧侶の後ろ姿を見送り、暫くと言われた時間を案内された部屋を観察する事で費やす事にした。
ラウドラチャクリンやファドラーンは慣れた様子で、それぞれに書架の前と上質なソファへと場を占める。
どうしようかと暫くきょろきょろと見回していると、促されてファドラーンの隣りへ座ることになった。
更にその隣に何か目的のものを見つけたらしいラウドラチャクリンが腰を下ろす。
覗き込むと何やらびっしりと細かい文字が書き込まれた、日記のようにもとれるものだ。 これを書いた人はかなり几帳面な性格だったのだろう、字体の変わらないそのページを黙って読みはじめたラウドラチャクリンにファドラーンが苦笑している。
「まさかとは思うが……ナムリ殿の日記とかじゃあるまいね。勝手に手を触れても良いのか?」
「……これは彼の執務日誌、一応わたしが見ても良いとの許可は貰ってあるんだよ」
声を掛けたファドを見上げもしないで、口の端を上げるいつもの微笑みを見せて答えたラウドラチャクリンはそのままその日誌に没頭する事にしたようで黙り込んでしまった。
時々ページをめくる音が聞こえるだけ。
そのラウドラチャクリンの様子に少しばかり肩をすくめ、ファドはソファへと深く身を沈めるとやはり黙り込んでしまった。
二人の一様にらしくない、強いて言えば無理に落ち着こうとしているような気がするその態度に、今日の用件はそんなに困難で深刻なものだったかと改めて不安になった。
「ごめん、君の用件は大丈夫だよ。ただ……ラウの不安がうつっちまったみたいだ、器が小さくて悪いね」
ふいにそう言ってくれたファドラーンに驚かされたけれど、少しばかり嬉しくなった。
そして彼等が何とか落ち着こうとしている、と感じた自分の感覚があながち間違いではなかった事に、何とも言えない感慨すら抱いていた。
随分とこの人たちの心の動きが判るようになっていたのだわ、と。
なるべく落ち着いてファドラーンへと頷いてみせると、再び彼は黙り込んでしまう。
そしてやはり手持ち無沙汰な私は、一人きょろきょろと室内を見回す事でこの緊張から逃れようとしていた。




