046 吐息
046 吐息
軽くついばむだけのつもりだったイェライシャの唇はあまりにも無防備で、俺はそれだけでは済ませられなくなってしまった。
きちんと整った歯並びをなぞり、そして……多分……初めてのこの行為にどう応えていいのか判らないでいるその柔らかな舌を絡めとって吸い上げる。
彼女の味わいに没頭しそうになる俺と拒もうとしない彼女。
それが俺を受け入れているからではなく、この感覚に戸惑っているからなのだとは潤んで少し焦点の合わない瞳から容易に推測出来た。
「……マナー違反なのはやっぱ俺だな、すまない」
ようやく唇を離してそう言葉にしてみるが、イェライシャの反応が無くて、どうしようかと思った。
刺激が強過ぎたのかとそのまま見守る。
彼女はまだ焦点の合わない瞳をしばたたいて、それからぎこちなく腕を持ち上げると前髪を掻き上げる。
小さな溜め息が漏れ、その無意識の艶かしさにこの目の前のごちそうを何とか諦めようとしていた俺の感覚が戻ってしまう。
身体の中心に血液が集まり、それ以外の場所の感覚がなくなってしまう。
頭ですらもはや満足に思考する事が出来なくなる。
欲しくて仕方の無い相手を目の前に、いや、今はこの腕に抱きしめていて、そんな状態にならない奴の方がおかしいだろう。
只の言い訳かな、これは?
まだ返事をくれていない彼女にこれ以上手を出す事は俺の中ではルール違反どころか犯罪だろうと、思っては居るのだが。
「イェライシャ……?」
余りに反応がないので流石に心配になって呼び掛けてみると、ようやく彼女の瞳が俺を捉える。
ゆっくりと瞬きした彼女を見つめていると恥ずかしそうに身じろぎして、ようやく俺の腕から身を離した。
俺は引き止めたくても自分の理性に自信が無くて、その姿を目で追うだけ。
今身体を動かしたら、駄目だと判っていても俺は彼女を追ってしまうだろうから。
そうなったらもうきっと俺は自分の欲望を抑えられなくなる。
だから俺はソファに深く腰掛けたまま、立ち上がって乱れたドレスを繕うイェライシャを見上げるだけに留めようとかなりの自制心を働かせる事になった。
「もう……お休み。明日の朝は来客がある筈だから、君も疲れた顔で人には会いたくはないだろう?」
「……ええ、おやすみなさい」
あまり感情の無い声でそう返事をすると頬を赤く染めたままの彼女は一瞬だけ俺に視線を注ぎ、寝室へと姿を消した。
俺はそれを黙って見送る。
その後はかなり夜が更けてしまうまで仮眠すらとれなかった。
ようやくまどろんだのは明け方近くで、それも僅かな時間だった。
峠越えで疲れているはずの身体なのに気持ちが昂り過ぎていて、理性だけでは御しきれない。
朝……東の空が白み、微かに人々の起き出す気配がこの部屋へも伝わってくる。
この宿の従業員だろうか、早朝からの厨房の仕込みなど、宿はとにかく朝が早い。
ソファに身を預けたままそれらのざわめきに耳を貸していたが、俺もそろそろこの部屋から出た方がいいかなと随分ガチガチになっていた筋肉をほぐしつつ立ち上がった。
テーブルの上に放り出していた剣帯を腰に巻きなおし、ソファに立てかけていた剣を差しなおす。
寝室のイェライシャに声を掛けてから部屋を出ようかどうしようか、と考えた所へ廊下に面したドアへと微かなノックがあった。
そのドアの前まで静かに歩み寄り、様子を伺う。
「……わたしだよ」
ラウドラチャクリンの辺りを憚っているのだろう押さえた声に、彼が俺の忍耐を何処まで理解しているのかと疑問すら覚える。
静かに扉を開けると、彼はするりと音もなく部屋へと入り込んできた。
「もう、馬を見てきたんですか?」
「……ああ、元気だったよ」
早朝の外気の気配をまとう彼にそう訊ねると、にっこりと返事が返ってきた。
でもまだ彼の捜し物は見つかってはいないらしい。
以前は時と場所も構わず意識を解放して知覚を拡大させる事もあった。
度々だったので、そのあまりの無防備さに見兼ねた俺が文句を言った事もある。
護りきれなかったらどうするんですかと詰め寄った俺に、彼は今とちっとも変わらない涼しい顔で。
「大丈夫。お前には全幅の信頼を置いているのだからね……わたしは」
その頃何があったのか、彼は少しばかり憔悴していたとは後で誰かから聞いた。
求める何かを何とか早く探し当てたいと躍起になっていたのかもしれないが、それでも俺が苦情を呈してからはそう言った事は控えるようになった。
その代わりだろうか早朝や深夜に彼が捜し物をするようになったのは。
今のように商人を装って隊商を組むようになってからは、旅の間それを欠かした事はまず無い。
「その様子だと……夕べは何事もなかったようだな。ご苦労」
「何の目的があってこんな風に仕組んだのかは知りませんが、満足のいく説明をしてもらいたいですね」
正直我慢の限界かもしれない。いろんな事に。
……かなり不機嫌な俺の声に、ラウドラチャクリンはおや?とばかりに見上げてくる。
「今日のこの後の展開次第ではお前とイェライシャとが喧嘩する事になりかねないからね、それを回避させられればと思っただけだが」
「……どういうことです」
「判らないのならいいよ」
あっさりとそう言い切った彼は俺の背後、寝室のドアを伺っていた。
「そろそろお姫さまもお目覚めのようだな、邪魔者は消えるが……朝食の後の来客を忘れるなよ」
「わかっていますよ」
相変わらず不機嫌な俺の表情を鼻で笑った彼は、来た時と同様にするりと部屋から出て行く。
一人取り残された俺はそのまま立ち去る訳にもいかなくて、イェライシャが身支度を終えて寝室から出てくるのを待った。
「……おはよう」
「おはよう、ファド……さっき誰かの話し声がしていたわ?」
ぎこちない返事のイェライシャが室内を見回すのを微笑みを浮かべて見守る。
……いや、にやけた顔つきだと言われてしまえばそれまでなのだが。
「ああ、ラウが様子を見にきていたんだ。君の荷物は?」
「まとめてあるわ、いつでも出られるように」
「じゃあ、朝食に行こうか。じきにお客も来るだろうし」
そう促すと、イェライシャとともに部屋を出た。




