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暁の銀嶺と黄昏の蒼  作者: 天野原 唯
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045 翳り


「未経験の振りをしていたって事は、本当は……経験豊富な訳?」


 腕を引かれバランスを崩した私は、気が付けばファドラーンの腕の中に抱きしめられたまま、ソファに沈み込んでしまっていた。

 怒りは湧いてはこなかったけれど、恐る恐る彼にそう問い掛けたのは何故かしら。


 見上げたファドラーンは優しい笑みで、もう力はこもっていないけれどそれでも私を離す気はないらしいその腕の中から彼の表情を伺う。

「……かなりマナー違反な質問だ。自覚しているの?」

「貴方のこれは……この振る舞いはどうなの?それに、だって気になる……じゃない、私は……」


 諭すように優しい声に、緊張して赤い顔のまま口ごもった。

 そう、私は殆ど経験なんて無いの。

 恋愛もそしてそれ以上の事も。


 故国に居た頃は地元の社交界へは顔を出す事もあったが、何分田舎の集まりとあって、ささやかなものでしかなかった。

 そこで会う事の出来る貴族の子弟なぞ限られた数で、しかも御世辞にも魅力的とは言えない人々だったもの。

 目下の者しかいない領内で威張り散らすのに慣れた、高慢で高飛車な態度には度々うんざりさせられたわ。

 たまに都の社交界へ行った貴族の女友達から、その華やかさや催し事の仰々しさ、そしてそこで出会った若者との少しばかり艶っぽい出来事などを聞きかじる程度の生活。

 そんな風に恋をする(誰と?)……なんて夢の又夢で……いつかは親の決めた縁談で嫁いで行く程度だと、諦めにも似た目でそれらを見つめていた。


 その日常の生活からの脱出を計って、父の商用の旅に同行して異国へと渡ったのに。

 確かに異国での暮らしは目新しい事がいっぱいで、旅行者として……通り過ぎる者として……そこでの生活を楽しんでもみた。

 

 けれどそのバーラートで突然王妃に担ぎ上げられる事になって、一月程の間、王妃としての心得と花嫁としての教育を嫌々受けさせられたのだったわ。


 私が処女(当たり前じゃない!)である事を前提にした、新妻としての心得も。

 半分はユグドラセアに居た頃に聞きかじった知識とも合致するものだったが、半分はまったく知らない世界だった。

 いわゆる……バーラート風の妻のたしなみ……閨で妻が夫の為にしてあげなければならない様々な事柄だとかしきたり、その為の知識など。

 今になって考えればそれは、妻としてではなく、後宮と言う閉ざされた世界で暮らす為だけの知識だったような気がするけれど。


 そして……日に日に出来上がってゆく鮮やかな婚礼用の民族衣装を空ろな瞳で見つめながら、嘆きの内にこのままの日々を送るのか、父や姉と決別してでも出奔すべきかを思い悩んでいた頃までを思い出してしまう。


 そしてふと、気付いてしまった。

 国に居てもバーラートに居ても結局私には自由は無かったのだと。   

 伝統や習慣と言う名の衣に包まれた束縛に、それに本気で逆らおうとした事すらなかった。

 ファドラーンが重いと言った「自由」を私は初めから手に入れようともしないで、諦めていたのではないのかしら。


「怒っているの?……イェライシャ」

 黙り込んでしまった私の沈黙をそう解釈したのか、少しばかり心配そうなファドラーンの声が伺う。

 視線を合わせた彼の瞳は室内のランプの明かりでも判る程に翳りを漂わせていた。

 その翳りが不安や心配と言った類いのものでは無い事は、流石に今の私には理解出来る。


 彼の身の内に宿った、欲望の翳り。

 このひとが私を望んでくれているというしるし。


 他に自分が何を望んでいたと言うの?

 自由にはほど遠かった私が自由に相手を選んだ、それだけの事だ。

 両手を伸ばし不安げに見下ろしてくる男の首へと廻すと、自分の方へと引き寄せた。

「私は……私にとっては貴方が……初めて好きになったひとになるかも知れないのに?」

 自分が口にしている言葉の意味に頬が染まり、かろうじて小さな声でそれを言い終える。

 じっと見つめていたファドの瞳が、私の言葉を理解したのか一瞬見開かれる。

 ドキドキしつつ、どう反応が返ってくるのかと思って見つめていた私に、ようやく彼は優しい声色で言葉をくれた。


「いまのは……君からの返事だと思ってもいいの?」

「……かもって言ったわよ?」


 でもまだ素直にはなれないみたい。ごめんね。


「意地悪……」

 気を持たせていると流石に自分でも自覚のある仕草に、彼は怒る訳でもなく、がっくりとうなだれた。  

 ……彼の、肩の辺りまであるその明るい茶色の髪が私の首筋に触れて少しくすぐったい。 その毛先の幾らかを指先に絡めとって意外と柔らかい毛質なのに驚いた。

 癖の無い真っすぐな髪だったから、もっと剛いのかなと思っていたのに。

「……柔らかい毛質だったのね、意外」

「お陰で雨の日は大変だよ。雨期になったら外出したくない」

 大分気の抜けた声で返事が降ってくる。

 その言葉に私がくすくす笑っていると、次にはファドラーンの吐息を首筋に感じた。

 彼の唇を感じるだけのキスとそれをなぞるように舌先が這う。


 寝間着代わりに愛用しているこのドレスは、淡い緑の色で胴回りが緩やかなうえに襟ぐりも大きめに開いていて、彼の唇が首筋に微かな刺激を与えつつその襟ぐりぎりぎりの胸元に移って行く。

 その刺激に背筋どころか全身がぞくりとして、つい大きな吐息を次いでしまった。

 

「……気持ちいい?」

「……馬鹿、っ……」

 楽しそうなファドラーンの口調に言い返そうとしたのに、今度は唇を塞がれてしまった。

 拒もうとするよりも先に彼の侵入を許してしまい、どうして良いのか判らずに身体を強張らせる。

 とてもじゃないけれど、いつか読んだ恋物語のように恋人からのキスを瞳を閉じて待つなんていう余裕な状況ではないわ。


 驚きで見開いたままの視界に、ファドの閉じた瞳と少しばかり歪められた眉とが真近に映る。

 触れあったままの唇と、私の中を探るような彼の動きに息も出来ない。

 それでも……ここで拒まなかったらどうなるのだろう……なんて考えてしまったのは初めて経験した口付けの、この不思議な感覚のせい?


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