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暁の銀嶺と黄昏の蒼  作者: 天野原 唯
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043 護衛


 久しぶりの本格的な入浴だったわ。たっぷりのお湯と泡立ちのよい石鹸、そしていい香りのする香油に身体の芯迄解されるみたい。随分と長い間こんな贅沢とは無縁の旅をしていたのだと改めて実感してしまったわ。

 だからと言って今の旅が嫌なのかと問われると、即座に是とは言えないわね。

 旅をしている間は、現実の、嫌な事を考えなくても良いからなのかも知れないけれど。


 宿の女給達ははじめのうちは静かで……多少習慣の違いに拠る差異はあったものの行き届いた奉仕にバーラートのシュヴァーゼでの日々を思い出す。そして同時にかの地のあるじだった藩王の醜く弛んだ姿も脳裏に蘇り、迂闊にも暖まったはずの身体が一瞬粟立ってしまった。


「どうか……なさいましたか?もう少し湯を温めましょうか?」

 その素肌の変化と微かな身震いに目敏く気付いた女給の1人がそう訊ねてくれる。

「ええ、お願いね。夕べはとても冷えてしまったの……峠越えがあんなに大変だとは思わなかったわ」

 まだ温め足りないのだと解釈してくれた彼女の勘違いにさりげなく便乗して、少しばかり我侭な貴族娘を演じる。

 内情は兎も角……世間の人が誤解している程度に頭が軽くておしゃべりで我侭……な娘だ。

 何気ないおしゃべりを装ってそう話を振ると、もう1人が話に乗ってきた。

「でも良うございましたね、大した支障もない峠越えのようで。バーラートから来た者でも高山病で肺までやられて……生きて戻れなかった者も多いあの峠を、この通りご無事で越えていらしたのだもの」


「まぁ、では私は随分と幸運なのね」

 驚いたように言葉を返しながら私自身を嘲笑ってしまいそうになる。

 本当はちっとも無事でなんて無かったのに。

 私の事を何より気に掛けてくれるファドラーンと、癒し手としての力を持つラウドラチャクリンが居なければ多分私はここには居なかっただろう。

「……アルマ家の隊商とご一緒だったのが幸いしたのかも知れませんね。あの方達はとてもしっかりした商売をなさると評判ですもの。ここまでの行程などで……貴女の身体が高度に順応出来るよう調整したのかも」

「あぁ、そうかもね。慌てた日程を組むと身体が慣れなくて大変だって……聞いた事あるわ」

 更にもう1人が同調してそう相づちをうつ。

「でも、あのアルマンスールのご子息と一緒に旅が出来るなんて羨ましいですわ」

「……そうかしら」

 少し慎重に返事を返したが、最初に話に乗ってきた女給が力の入った声で続けた。

「貴族様や身分の高い方から見れば……なんて事の無い男性かも知れませんが、この宿を定宿にしている方達の中では一番人気の方達なんですよ」

「ご子息たちも、隊商に加わっている他の男性もね。……ここの女将さんもいつも誰かには色目を使っているのに、ちっとも靡かないってこぼしていたわ」

「今日は弟さんの方にアタックしていたわよ、あっさり躱されたみたいだけど。かなり前にはあの兄のほうに迫ってかなりいいとこまで持ち込んだのに……途中で逃げられたって言ってたけどね」


 いつもの事だという感じで、特に咎める風もなく女給達が言葉のやり取りをしている。

 ……兄って……ファドラーン?少し……さざ波のように何かが胸の中に広がり……動揺してしまった。

 小さく溜め息を漏らし、諦めにも似た気持ちでその感情を認める。

 嫉妬と言う名の、その負の感情。そして、この宿の女将の姿を思い出してみる。

 歳の頃は30代前半かしら、すらりとしていると言うよりは心持ちふくよかで背の高さは私とあまり違わなかったわ。黒い髪と、同じく黒い瞳が色白の肌に良く映える、いわゆる……美人の部類に入る女性。

 私よりも世の中の事、更には男性の事も多くを知っているだろう彼女でもファドラーンやラウドラチャクリンを手に入れる事は出来なかったらしい。

「隊商を組んであちこちする間に、各地で相手を作る男の方が普通なのに……何だかつまんないわ」

「……やだ。あんたもアルマ家の誰かを狙ってる口?」

「いいじゃない。首都の商家だもの、ここよりはましな暮らしが出来るかもしれないし」


「さあ、噂話ならもう結構よ?お湯から上がるわ、支度は整っていて?」

 ここまで来ると仕事の合間のおしゃべりの域になる。笑い声に釣られて心持ち手も留守になってきたようなので、この話は打ち切る事にした。

 何だか聞かなくてもいい事まで聞いてしまったような気がするし。

 心持ち不機嫌そうなのは、彼女達のいわゆる男の品定めに私が退屈したとでも思わせておけばいい。


 身体を拭いてもらい、夜着として使っているドレスに袖を通すと、湯冷めしないようにと用意していたショールを羽織る。そしてさほど遠くない自分の部屋へと案内してもらう。

 二間続きのその部屋はこの宿では上等の部類になるらしく、綺麗に整えられた大きめのベッドのある寝室と、手前の部屋にはくつろげるソファと低いテーブルとが用意してある。 ここの女将は何度も部屋の狭さを申し訳無さそうに謝っていたが、今までの私は大きな部屋でも他に2人の同居人が居たのだから広すぎるくらいだわ。

 ……むしろ寂しいとすら感じてしまったのに。

 明日の朝の身支度を手伝いに参上すると言ってくれた女給達を断り、部屋の扉に鍵をかけた。

 運び込んである私の荷物は元々が大した量ではないし、それに何日も逗留する訳でもないので荷物をほどきもしないで纏めておいてある。

 寝室の一角に置かれたそれを軽く眺め渡すと、明日の朝身に付ける為の衣類を出し、そのままベッドへと向かおうとした。


 ……その足を止めたのは小さなノックの音が聞こえたから。



 遠慮がちに叩かれた扉をそっと開けると、見慣れた背の高い来訪者が立っていた。

「ファドラーン……どうしたの?」

「少しいいか?」

 伺うように素早く辺りを見回している彼に何故だか自分も慌ててしまい、深く考えもしないで彼を部屋へと招き入れる。

「何かあったの?」

 緊張していると感じ取れるその気配に重ねて訊ねるものの、彼は返事をくれる素振りもなくて、そのまま室内を改め窓の外まで確認しているその背中を見つめた。

 そして微かな金属音に彼が剣を帯びているのに気が付いた。

 確か……今までの宿ではこんな事はなかったわ。

「ねぇ!ファド」

 流石に不安になって、口調をきつくしても彼は振り向いてもくれない。

 こちらを振り向くのすら拒否しているような気配で、寝室を改め終わって居間の方へと戻ってきたファドラーンをその境の扉の前で待ち受ける事にした。

 話してくれる気がないのなら話すように仕向けるまでよ?

 丁度……二つの部屋を仕切る扉を挟んで向かい合うように立つ。ようやく捕らえた彼の表情にも何だか緊張が漲っていて、私も不安で居たたまれない。

「一応確認しておこうと思っただけだから、そんな顔しないで……もう寝る所だったんだろう?」

 緊張をほぐそうとするように、ようやくファドラーンが口を開いてくれた。それにうなづくと、彼は自分の身体を扉の脇に寄せて寝室へと促す。

「早く休んだ方がいいだろう。……お休み」

「貴方は……どうするつもりなの?」

 彼が帰るのなら見送らなくちゃ、とこの部屋の今の主としての義務を思い浮かべながら訊ねたのに、彼の返事は無くて。返事の代わりに腰に帯びていた剣帯を外しはじめたファドラーンの、その考えが判らなくて……慌ててしまった。


「こっちの部屋へ泊まる。ここでは油断しない方がいいだろうと、ラウが心配してね」

 室内に目を走らせてみれば、目に付いたのは大きめのソファ。そして彼もそのソファへと外したばかりの剣を立てかける。

「こ……ここで?それに……油断って何があったの?」

 不安げな声を出してしまった私にようやくファドラーンの顔が柔らかくほころぶ。微かな金属音を立ててテーブルの上に剣帯が置かれた。

「この宿の所有者が……あの女将を愛人として囲っているこの地の有力者なんだが……君に関心を見せているようなんだ。用心するのに越した事は無いし、君の容態も気になるしね。……という訳でラウに部屋を追い出されてきたんだ」


 だから今夜はここに泊めてくれ、とさっきまでの緊張感は何処へやらにこやかに言われてしまい、何だか気が抜けた。


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