038 峠越え
何度目かの呼びかけにようやく顔を上げ、答えようとでもしたのか口を開く。
けれど、ぐらりと身体は傾いて……イェライシャは鞍からずり落ちる。
その身体を受け止めながら、俺は表現のしようの無い苛立ちのようなものを覚えていた。
誰にって?
決まっている、自分にだ。
更に何かを言おうと彼女の唇が動いたが声になる事はなく、かすれた息が痛んだ気管を抜ける音……が聞こえただけだった。
「熱は?」
「殆ど上がっていません」
むしろ抱きしめていても体温を感じられないくらい冷えている。
自分達にしてみれば見慣れた高山病の症状だが、初めて経験したイェライシャには不安な症状のはずだ。感情の無い声でラウドラチャクリンに短く訊ねられたが、声が硬くなってしまうのは止められなかった。
「……わたしに怒るのならお門違いだぞ?」
「判ってます」
そう答える声までもが硬くてそれをどう判断したのか、ミシェイルが慌てたように話に割り込んで来た。
「それよりも、簡易テントの準備がもうじき出来るから……休ませてやらないと。熱が上がってないのなら下がり過ぎてしまわないよう、暖めないと回復が遅れるぞ」
「……あぁ、判っている」
そう答えて、支えていたイェライシャの身体を横抱きに抱き直すと、形の出来上がりつつあるテントへと向かった。
あの時はどうなるかと皆ハラハラしていたんだぞ?と後でミシェイルは結構真面目な顔でそう言った。
ファドラーン……お前の気配が尋常じゃない上に、ヴァル様まで火に油を注ぐような妙な事を言うし……帯剣していたお前がもしも剣に手を掛けるような事があれば、お前は反逆罪でその場で処分だぞ?
仮にも親衛隊の長が自分の主に剣を向けたとあっては、主たるヴァル様の恥、そしてお前の一族も……事に拠っては只では済まないだろうに。
私はイスナード様の困った顔は見たくないんだからな。と、心底ほっとしたような表情で言われてしまってはこちらとしては申し訳の無い気分になる。
けれどあの時の俺は何よりも自分に腹が立っていた。
何が、自分がなにげに口にしたどんな言葉がイェライシャを苛立たせたのか、謝りも確認もしないで放っておいたのは俺だ。
そのせいで気まずいままの俺たちがぎこちないのを見兼ねてラウドラチャクリンとミシェイルが彼女の傍に居てくれた。
彼女がそれで俺を見限っても、俺は本当なら文句も言えない立場のはずだ。
それなのに、今度はイェライシャの傍に居てくれた2人にお門違いの嫉妬を覚えていたとは……情けなくて自分が嫌になる。
その挙げ句に彼女から距離を取って、彼女の体調の変化に気付いてやれなかった。
隊列の後ろから異常に気付いたラウドラチャクリンが知らせてくれなければ、俺はくずおれるイェライシャが他の男に抱きとめられる現場を遠くから目撃する事になっただろう。
もしもそうなっていたら俺は自分がどんな行動を取っただろうかと、少しばかり背筋が寒くなった。
実際は幸いにも傍に居て、その力の無い身体を受け止めながらも、恐怖に戦いていたのだが。
ラウドラチャクリンがイェライシャの変化に気付いた時、既に隊商はラワルの頂を目前にしていた。
高山病になった時の一番の対処法は早急に高度を下げる事だが、ここから引き返していても元の町クム・ウタールは遠い上に、我々の行程も遅れてしまう。
馬の上でイェライシャは既に半分意識がなかったので、それ以上の苦痛を感じる事も無いと判断して俺達は峠越えを優先させることにした。
彼女の様子を看る為に俺とラウドラチャクリンが彼女を挟んで脇に付き、ミシェイルが隊の先頭に立つと峠を越える。
そして、後は馬には悪いが一気に高度を下げる為に馬速を早めた。
……それに自分の為に隊を戻したと知ったらイェライシャはきっとひどく怒るだろうことも……想像に難くない。
そう考えながらイェライシャの馬の手綱を取り、暗くなるギリギリの所まで距離を稼いで野営出来る場所へと辿り着いたのだ。
いつも通りの慣れた手順で簡易テントが張られ、中にイェライシャの為のスペースを確保すると彼女の身体をそっと横たえる。
こぼれる浅い呼吸が如何にも苦しそうで、それを只見ているだけと言うのはもどかしくて、つらい。
「悪いが、もう一度身体を起こして背中を見せてくれ」
そう隣で付き添っていたラウドラチャクリンに指示されて、無言のままその指示に従う。 ラウドラチャクリンが摩るような仕草でイェライシャの背を撫で、所々で手を止めた。
「少し肺をやられているようだが……これくらいなら癒せるな」
そう独り言のように口にすると、再び彼女を上向きに寝かせるようにと仕草で指示して、更に俺の表情を伺うような仕草を見せた。
「胸を触るが……いいな?」
「治療の為でしょう……仕方無いじゃないですか。それに俺の許可ならいらんでしょう」
ふて腐れたような俺の返事に、いつものようににやりと口の端を上げる。
「……後で彼女に謝っておいてくれ」
「なんで俺が……」
「仲直りするんだろう?口実がなくても出来る奴になら……こんな事は言わないよ」
そう言うと、初めから俺の返事なぞ期待してはいないとばかりにイェライシャの身に付けたままの外套の胸元をはだけさせ、素早く衣服の胸元を開いてゆく。
そして肌着の上から、妙齢の女性らしく形の崩れていない両胸に両手をかざした。
触る……とは言ったものの、触れるか触れないかのぎりぎりの位置にいるその手が遠慮しているのは明らかで、その遠慮が彼女に向けたものなのか俺へのものなのかははっきりとはしない。
本当は直に触れていた方が効果も有るし、癒し手にとっても負担が少ないのだと言う事を俺も知っていたが。
それでも。
触れていい……とは言えなかった。
身体の内側を癒すので見た目の変化は余り無いものの、浅く、間隔の狭かったぜいぜいとした呼吸が次第に整った間隔に変化してゆき、かすれる呼吸音もやわらいできた。
肌の色が明るくなってくるのが判ると、心配で詰めていた息をようやく俺も吐き出す事が出来た。
最後に大きな呼吸をしてイェライシャの胸が大きく波打ち、彼女がようやく眠りに入ったのを確認するとラウドラチャクリンも両手を引っ込める。
彼女に見とれたままの俺に再びにやりとしてみせるが、流石に疲れた影は隠せないようだ。
「後は任せるが……体温が戻らないようならばお前が暖め役だからな」
瞬間……俺の顔が真っ赤になったので、如何にも楽しそうに奴は声を上げて笑った。
外で夕食の支度や馬の世話をしている者がほとんどで、テントの中に居たのは数人だけだったが、皆がラウドラチャクリンの笑い声にびっくりしているのが手に取るように判る。
それくらいラウドラチャクリンが声を出して笑うのは珍しかった。
「食事は届けさせよう。看護は任せたよ」
そう言い残して彼が居なくなると、俺はイェライシャの衣服の乱れを直してやり、眠っている表情をずっと見つめていた。




