031 再び旅路へ
出発の朝はとても良い天気だった。
雲もなく澄み渡った空に、登りはじめた太陽の輝きがまぶしくてつい目を眇めてしまう。
乾期だと言う季節柄、ここまでの旅の間には殆ど雨に降られた事が無かったわ。
唯一の例外と言えばバーラートを出て、少ししてから遭遇したスコールくらいのもの。
前の晩に一方的に約束された通り、朝食に迎えに来てくれたラウドラチャクリンにエスコートされて、一緒に食堂へと降りて行った。
荷物は荷造りが済んでいるのを確認したラウドラチャクリンが、後で他の者が運んでくれるからと言うので部屋の扉の前に出したままにしてある。
途中で少し遅れて食堂に入って来たファドラーンは、私がラウドラチャクリンと一緒に居るのを見てちょっぴり変な顔をしたけれど、気にしない事にして普通に挨拶の言葉を掛けてみた。
彼もそれには普通に返事をくれたので、我ながら情けないくらいにほっとしてしまったのは秘密。
ラウドラチャクリンに気取られたら、またあのいつもの微笑みでからかわれてしまうわ。
昨夜の食事時のようにぎこちない沈黙を作って廻りに心配をかけないように、気をつけながら当たり障りの無い会話をファドラーンとも交わすよう心掛ける。
そんな気を使う食事を済ませ、促されて中庭へと出ると、早くに食事を済ませた者達から順次馬を出していて……少し慌ててしまった。
どうしようかと見回していると、さっきから姿が見えなかったファドラーンが私の荷物を持って屋敷から出て来たのに気が付く。
そのままそれを空いていた馬の両脇に括り着けてくれ、それから私の方をじっと見つめて来た。
勿論黙っている訳にもいかなくて、彼の方へと歩み寄ると声が小さくならないように気をつけながら礼を口にした。
「荷物をありがとう、ファド。……どうかした?」
彼がじっと顔を見つめてくるので流石に気恥ずかしい。
「いいや、大した事じゃないんだが……今までに高い山とかに登山した事はある?あと、何か……身体を動かす事やスポーツは嗜んでいた?」
そして突然そう訊ねられて、脈絡の無いその問いに、なんと答えたものか迷ってしまった。
「どちらもない……わね。私の国では……女性には特に……そう言う趣味を持つ事に寛容ではなかったから」
「……判った。ここから暫くは大丈夫だとは思うが……もしも気分が悪くなったり頭痛がするようなら隠さずに教えてくれ。たまに高地にあがると具合の悪くなる者が居るんでね」
「……わかったわ」
かなり真剣にそう念を押されたので、つられて神妙な表情でうなづいて返した。
すると久しぶりににっこりと微笑むファドラーンの笑顔を正面から見つめてしまい、どうしようと我ながら慌ててしまう程に赤くなってしまった。
隣でこのやり取りを見ていたのだろう、ラウドラチャクリンがにやにやしているのが何とも小憎らしい。
けれど何か言い返そうかと、彼に向き直った所でアルマンスールの主人が中庭へと姿を現した。
その後ろには何か……小振りな荷物を抱えた奥方の姿も見える。
「準備も整ったようだな。油断する事の無いよう……無事の旅を祈るぞ」
大げさな物言いではなく、相変わらず簡潔で嫌みの無い彼の表現にはいつもながら感心する。
隊商の皆もそうなのだが、このアルマンスールの人たちからはさもしい程の商魂と言うものが感じられなくて、あまりに清廉すぎるその雰囲気に困惑してしまう。
故国でも、シュヴァーゼの地でも、私や父の廻りに居た商人は儲け至上主義とでも言うのだかしら、その気配が如実に感じられる者達ばかりだったから。
ファドラーン以下隊商の皆が頭を下げて、主人の言葉に応えるのを見ながら私も挨拶をするために2人の前へと進み出た。
そして、いつもの仕草で軽く頭を下げる。
「短い間でしたが、手厚いもてなしを有り難うございました。お二人のお心づかいにはとても感謝しています」
「この先の峠越えは慣れぬ者には厳しい道行きですから……気をつけてお行きなされ」
「はい、そう致します」
相変わらず柔らかな物言いのアルマンスールの主人とそう言葉を交わすと、次には隣に控えていたその奥方ルツィエラと視線を合わせる。
応じて進み出た彼女は相変わらず余裕の微笑みで、手にしていた包みを私の前で開いてみせた。
その中から出て来たのは、色は地味であまり目立たない物だけれど、上質の素材で作られたろうと思われる外套だった。
暖かそうなのにかさばる風もない、しなやかな手触り。
私の予定としては、もっと寒くなると言われている国境の手前の街、クム・ウタールで調達しようと思っていた物の類いだわ。
「私が昔……とある方から頂いた物なのですが、宜しければ貴方に使って頂きたいの。お持ち下さいな」
「……お気持ちは有り難いのですが、頂く訳には……」
「貰っておくと良い。どのみち峠越えには必需品だし、それは良い品だからきっと君の役に立つよ」
申し訳なくてそう断りの言葉を続けようとしたが、続いて隣から口を開いたラウドラチャクリンの珍しく強いすすめの言葉に断るきっかけを失ってしまった。
隣に居たファドラーンも何やら神妙な顔つきになり、母親を見つめている。
「……良いんですか?母さん」
確認のようなその言葉にルツィエラはにっこりと微笑む。
「あら、大丈夫よ。ラウだって……良いって言ってるでしょ?それに今度はイスナードに私好みの物を買って戴くから良いのよ。だから受け取って頂きたいの」
ちゃっかりとした彼女の言い分に、幾分か困惑した表情のアルマ家の主人にチラと視線を走らせると、やはり彼はラウドラチャクリンと……目線を交わしている。
2人の間の視線のやり取りにはいつも不思議な雰囲気があるわ。
でもこれ以上固辞して相手にも気まずい思いをさせたくないし、と観念してようやく彼女からの外套を受け取ると、ファドラーンは初めて笑顔を母親に向け、明るい声でその礼を言った。
「ありがとう……母さん」
何かとても嬉しそうなその声色はいつも以上に元気で、本当に嬉しいのは誰なのか判らなくなってしまうわ。
「……ありがとうございます。大切にしますね」
「きっとそれが貴女の役に立つ時が来るわ、あと……ファドとラウを信用してね」
手渡されたその外套を抱きしめて、そうルツィエラに頭を下げると、肩を抱くように身を寄せて来た彼女がそう耳元で囁いた。
視線を合わせてもその言葉への説明は無く、にっこりといつもの微笑みに促されるようにして馬へと跨がる。
馬に乗る為にいつものようにファドラーンが腕を貸して補助をしてくれ、それに礼を言いつつも、でも心の中ではルツィエラの言葉が引っかかっていた。
いつもと同じ明るい表情、仕草のファドラーンだけれど彼の本心が判らなくなっていた私には素直に彼との言葉のやり取りすら出来なくなっている。
ぎこちない私の対応にすら、ファドラーンはなんとか笑顔で接していると言うのに。
「行ってきます。お二人ともお元気で」
「……気を付けて」
先頭に立ってファドラーンが両親にそう改まった言葉をかけるのを少し不思議に思ったが、考えてみれば両親はここイクシールの店を、そして二人の息子はルクアディナルファの店を担当していると聞いていた。
こんな商用の旅でもなければ親子が顔を会わせる事は殆ど無いのだ。
年に何回ぐらいなのだろう……会えるのは。
妙にしんみりしてしまった私とは違い、イスナードは軽く片手を挙げて息子に応じる。
隣ではルツィエラが流石に母親の表情で皆を見送ってくれていた。




