029 心の距離
ファドラーンはいつもと変わらない調子で軽口を叩きつつ、先に立って馬を進めて行く。
けれど私は今までの彼との間に育んで来たはずの、愛情とか言うものとは違う次元での……信頼関係とでも言うのだろうか、それが全て引っくり返されてしまったような気がしていた。
自惚れていた訳でもなく、それでも自分は外の世界を目指すのだと思っていたのに。
だのに彼等は、ファドラーンは、私がいつかは故国に戻るのだと思っていたなんて。
拒絶しては居ない……と彼は言うが、信じてくれていないのは、拒絶と同意なのではないかしら。
あくまで彼等にとって私は通りすがりの旅人であり、それ以上の存在には成り得ないのでは、とさえ思えてくる。
そんな風に考えてしまうと、いくら彼が親しげに接してくれてもよそよそしく応じてしまう自分の態度を改める事が出来なかった。
それでも用事を済ませて屋敷に帰るまで、いいえ、帰ってからも彼の態度は変わらなかった。如何にも普通に接してくれる。
でも私が彼に返す態度は、あくまで只の客と商人、それに相応しい態度。
用事を済ませて戻ったアルマンスールの屋敷の人たちや隊商の他のメンバーとは、その夜もいつものような態度で接する事が出来た。
ただ、私とファドラーンとの間に流れているぎこちない空気には気が付いているらしく、それでも敢えて誰もその事を話題にするものは居なかった。
……大人だなぁ……と感心してしまう自分は、彼等からすれば子供のように精神的に幼く見えているのだろうなと考えて、正直かなり悲しくなったが。
明日は隊商がルクアディナルファへと向けて出発すると言う事もあり、厨房もかなり慌ただしい。
戻った時間が少し遅かったので料理の仕込みには間に合わなかったものの、私も料理の盛り付けや配膳は手伝わせてもらった。
厨房ではこれまでに馴染みになった料理に加えて、かなり手の込んだ下ごしらえのされた大鍋の料理が取り分けられるのを待っている。
それらを大皿に盛り付けて食堂に運び込み、樽から出したばかりの酒をカラフェに移してテーブルの各所に配置する。
イクシール風にカトラリーを並べるのも昨日より手早く出来るようになり、些細な進歩だけれど嬉しくなって、つい笑顔になっていた。
「もうお座りなさいな、皆もじきに揃うわ」
笑顔でルツィエラにそう声を掛けられて、困ったように室内を見回してしまった。
瞬間何処に座ろうか迷ったのだ。
当然のように、いつも私を挟む形でラウドラチャクリンとファドが座っていた椅子が三つ、そのまま空けられている。
皆そこに私が座るのを当然と考えてくれているらしい。
如何にも自然に残るその席に、渋々ながら腰を下ろして待っているとファドラーンとラウドラチャクリン、そしてその父親が揃って入って来た。
今まで何か話し合いでもしていたのだろうか、父親のイスナードは僅かながら眉間に不機嫌の跡を残している。
その彼が上座に就き、2人の息子が何食わぬ顔で私の両脇に座ると、ルツィエラがカラフェを手に取り夫のグラスを満たした。
そのグラスを手に取り立ち上がったイスナードは先程までの不機嫌な顔を引っ込めると、夕食の挨拶を口にする。
「明日からはまた隊商の旅故、今宵は皆心行くまで楽しんでくれ。心づくしの料理と酒だ……明日に響かぬ程度に堪能しようではないか」
商家の主らしく釘を刺すのも忘れないイスナードの挨拶に、笑いがさざ波のようにテーブルを渡る。
私の右隣に座を占めたファドラーンがラウドラチャクリンと自分のグラスにも酒を注ぎ、私のグラスをも満たそうとするのを何とか押し止めて、彼を見上げた。
「私はいいわ、結構よ。明日からの旅の初日に二日酔いだなんて締まらないし」
「でも折角だし、少しは飲まない?」
明日からはこの酒は飲めないんだけど、というファドラーンのニュアンスにもにっこり微笑んで、それでも私は首を縦には振らなかった。
少しがっかりしたような表情で彼は自分のグラスへと手を伸ばすと、こちらの様子を窺っていたらしいラウドラチャクリンに杯を掲げてみせる。
……乾杯の意を込めたものだろうか、後は一気にそのグラスを空にしてしまった。
ファドラーンもかなりお酒には強いらしいのは知ってはいたが、食前酒としては量を過ごしているのではないかと流石に心配になる。
じっとファドラーンを見つめていて、頬に気配を感じて振り返ると、ラウドラチャクリンが面白そうに私達を見つめているのと目が合ってしまった。
何か言うかな、と身構えたが至って涼しい顔のラウドラチャクリンは、にっこりと微笑んだだけで、相変わらず整った顔立ちのその微笑みについ頬を赤らめてしまった。
その後も彼は時々私に話しかけてくれる。
反対側のファドラーンとは殆ど会話らしいものもなく口をつぐんだままなので、私が一人で黙っているのが目立たないようにという配慮なのは明らかね。
当たり障りの無い会話を交わしながら食事を終えると、部屋へ戻る前にラウドラチャクリンの気遣いに礼を言おうと口を開きかけたのに、逆に口を開いた彼の言葉で言いたかった事を封じられてしまった。
しかも彼は他の者には聞き取れないように小さな声で、耳元に言葉を送り込んでくる。
「明日は朝食のすぐ後に出発だから、荷物を纏めてから朝食においで。……迎えに行くよ」
明日の朝ばかりは厨房の手伝いまで気を使わなくて良いよ……と囁かれて、内容には関係なく又しても頬が赤くなるのを押さえられなかった。
ファドラーンはそれを黙ったまま見つめていたのだけれど、流石にその視線を見つめ返す事は今の私には出来なかった。
そのまま部屋へと戻り今日の買い物を荷の中へとまとめ、明日の朝の出発の準備を済ませる。
グスルハネでの簡単な湯あみで気分もさっぱりとさせると、明日からの旅に備えて早々にベッドへと潜り込んだ。




