021 目覚め
実に久しぶりの、本当に良く眠れた、という充足感で目を覚ましたのはどれだけ振りの事だろう。
閉められている鎧戸からの微かな明かりが夜明けである事を告げている。
その微かな光がうっすらと照らし出す見慣れない室内の天井を焦点の合わぬ瞳で見つめながら、追われる罪人のように父や姉の元を離れてから二か月近くになるのだと、改めて計算して気付いた。
思い返してみれば、出会った当初からシュヴァーゼの藩王は何とも言えない舐めるような目付きで私たち姉妹を見ていたのだわ。
あの国に在ってはユグドラセアの民は明らかな異国者で、衆目を集めてしまうのは仕方の無い事だと思ってはいたのだけれど……。
脂ぎった藩王の視線は時に悪寒を催すもので、姉と私は何時も一緒に居るように心掛けていたわ。
残して来た父と姉のことが気掛かりで、そしてこれからの自分がどうなるのかも判らなくて、心細さからだろうか……涙が溢れていたのに気付いたのは寝返りを打った枕の冷たさでだった。
何時に無く気弱な自分に驚くよりも何だか腹が立ってしまい、勢い良く上掛けを撥ね除けるとベッドから降り、肌触りの良かった寝間着を脱いだ。
いつもの服に着替え、顔を、というよりは涙の跡を洗うと部屋の窓を開け放つ。
肌を刺すように冷たい朝の空気を胸一杯に吸い込み、代わりに夕べ何処からか私の中に入り込んでしまった弱気を無理矢理吐き出すように深呼吸を幾度か繰り返した。
そしてバーラートでの纏わり付くような熱気のこもった、何処か湿った空気とは大違いなこの国の空気の方が私としては好きだな、と感じてしまった。
けしてあの土地にいやな思い出があるからじゃないわ。
……この時ようやくこの窓が街路に面している事に気付いた。
まだ活気づく前の町並みはしんとしていて、人通りも殆ど無い。
人目があまり無いとは言え、ここに居る事をあまり人に見られない方が良いのではと考え付いて、慌てているようには見えないようにそっと鎧戸を閉めると、今度は廊下に面した部屋の扉の前に立った。
今日の予定は何も聞いていないので何をしていいのか判らなかったけれど、部屋でじっとして居るのも何となく私の性格ではないし、と少し迷いながらも深呼吸をしてドアのノブに手をかける。
「……え?」
「……おはよう……」
手前に開いた扉の向こう側に立って居たのは、驚いたような顔のファドラーンだった。
それでも次の瞬間にははにかんだような微かな笑みで朝の挨拶を口にする彼に、束の間状況が飲み込めなかった私は、かなりぎょっとした表情を見せてしまったらしい。
「丁度ドアをノックしようとしたら君が……出て来たんだ。中を伺っていた訳じゃないよ」
面白そうに笑顔でそう言い訳をするファドラーンに、無防備な表情を見られてしまったのだと悟る。次の瞬間頬がかぁッと上気するのが自分でも判って……。
「あ、あのっ……今日の予定を聞いていなかったから、それで……貴方かラウを捜そうと思って」
何だか私の方こそ言い訳をしているみたいだと思ったが、上擦った声になるのを止められないまま下を向いてそう口にしてしまった。
「ラウドラチャクリンならもう……随分前に出掛けたよ。俺も今日の午前中はここでの用事があって、外には出られそうも無いんだ。この街を案内するって約束していたのは午後からになりそうなんだけれど、それとも……早くから出掛けたいのなら誰か頼んでおこうか?」
申し訳無さそうなファドラーンの口調にちょっと言葉に詰まって、困ったような表情で彼を見上げてしまう。
しまった、逆効果だと思ったのも束の間で、その表情を不満の意思表示だと受け取ったのか「じゃあミシェイルに頼んでこようか」と私に背を向けかけた彼の背中に慌てて縋り付いてしまった。
「ま、待って。違うのよ!」
「……何が?」
訝し気な声が上から降って来る。
駄目よ、今顔を上げたら至近距離だわ。まだ赤いはずの表情を見られたく無くて俯いたまま言葉を続ける。
「早くから出掛けたいなんて言ってないわ……私は貴方の用事が済んでからでも構わないのよ?」
「……本当に?」
それでも心配そうに覗き込んで来たファドに、こくこくとうなづいてしまった。
「貴方達のお仕事の邪魔をするつもりは無いって、ずっと言ってるでしょ。それに……」
「それに?」
「……何でもないわ」
私は貴方にこの街を案内して欲しいの。
その言葉をかろうじて飲み込んだのに、ファドラーンにはそのニュアンスは伝わってしまったみたい。
途端に明るい笑顔で聞き返されて、ついそっぽを向いてしまう。
「そう?じゃあ……取り敢えず食事に行こう。お腹空いてるだろ?」
心なしかほっとしたような明るい声でそう言うと、ファドラーンはまだ彼の背中を捕まえていたままの私の右手を如何にも自然に……当然とでも言うような仕草で握りしめて階段へと向かう。
私の手を握りしめるその温かくて大きめの手に、何故だか喉元まで出かかった抗議の言葉を飲み込んでしまった。
それが自分でも判らないの、どうして?。
黙ったままでエスコートされるように階段を下りた所で、ようやくファドラーンは手を離してくれた。
手のひらが離れたその場所から温もりが逃げ、余計に彼の手の温かさが惜しまれてしまう。
その手をもう片方の手で包み込みながら、ファドラーンに続いて食堂(といっても昨夜の広間だったが)へと扉をくぐる。
既に食事を済ませたのか、隊商で一緒になっている顔見知りの男達が幾人か私やファドラーンに挨拶をして部屋を出ていく所だった。さらに彼等はそれぞれ少しだけ、ファドと言葉を交わしていく。
途切れ途切れに耳に入るその聞き慣れない単語から推測すれば、地名のようだから今日の予定なのかしら。
その隙間から室内を見回すと、他にも数人が食事をしており、昨夜と同じ席にファドラーンの父親が座っていた。
彼は既に朝食を済ませたようでお茶のカップを片手に、そして何かの書類をもう片手に持ったまま、関心はその書類の上に在るらしかった。
「おはようございます。父さん」
「ああ、おはよう」
元気なファドラーンの声にちょっとだけ顔を上げて息子を見遣り、彼はその後ろに立つ私に気付いたようだ。
「おはようございます」
先手必勝とばかりに、にっこりと微笑みで彼の鋭い視線を受け止め、ユグドラセア風の淑女の挨拶を、ファドラーン曰く優雅に腰を落とす仕草が印象的なのだそうだが……披露する。




