107 抱擁
「やあ、久しぶりだねジェイル。元気そうで何よりだ」
「ヴァルさま、一体これは……」
詰問口調だったジェイルはしかし、のんびりとしたヴァルの言葉に戸惑うよりも何かを感じたのか……黙り込んで、彼を見つめた。
「無事に大仕事を成したアリシャを労おうと思ってね。ファドが友人として見舞うというから、それに便乗してみたのさ」
「そちらのお方は?地上からのお客人と伺いましたが」
まだ完全にはヴァルの言葉に納得しては居ないようだったが、いつまでもそれにばかり固執する男ではない。
ジェイルは次にはそう控えめな口調で訊ねて来た。
「イェライシャ・グレンフォード嬢だ。ユグドラセアの貴族令嬢でね、偶然バーラートとイクシールの国境で出会って、それ以来わたしたちに同行しているんだよ」
「初めまして、イェライシャとお呼び下さい」
名前を紹介され、当然のように立ち上がったイェライシャは身に付いた優雅な仕草でいつもの礼を執る。
ジェイルもそれを受けると、軽く上体を倒して応じた。
「初めまして、イェライシャ嬢。ヴァルさまの筆頭秘書を務めておりますジェイル・リソワです。本来であればヴァルさまのお屋敷でお目にかかる所ですが、この通りごたついてしまっていて申し訳ありません」
「いいえ、喜ばしい事ですものお気になさらないで下さい。むしろ私の方こそ初対面の方のお屋敷にご一緒させて頂いて……図々しい女だとお思いにならないで下さいね」
「まさか。地上からの客人は実に稀です。そのような方の来訪こそ誉れでしょう。貴女をお連れ下さったヴァルさまに感謝いたしますよ」
当たり障りのない挨拶の言葉を交わしながらもジェイルの視線はイェライシャとヴァルとの間を行き来していて、奴が自分の中での彼女の位置付けを考慮しているのだと察せてしまう。
それともご多分に漏れず、お膳立て通りに二人の仲を勘ぐっている……と言った方が良いのだろうか。
「そろそろ奥様も仕度が出来た頃でしょうから、どうぞ」
その後ろで、頃合いを見計らっていたのか執事がそう俺たちを促す。改めてもう少し奥まった一角迄案内され、ジェイルが目当ての部屋の扉を叩いた。
「アリシャ、お客様だよ」
その言葉に彼女はまだ客が誰かを知らされていないという事を知った。
確かに俺たちの希望通りなのだろうが、意外に茶目っ気のある男だったんだな、ジェイル。
「まぁ、チャクラヴァルティンさま!それにファドラーンまで。ずっと地上に行かれたきりだって聞いていたのに、わざわざおいで下さったんですの?」
案の定、ベッドから上半身を起こしたままのアリシャは心底驚いているという表情で。
隣りに付き添っていた侍女も同様で、寛いでいた姿勢から慌てて姿勢を正している。
「丁度ユグドラセアのお客人をこの国にお連れした所だったのだよ。君が無事に大仕事を成したと聞いてね、立ち寄らせて貰ったのだ」
ヴァルはかいつまんでそう説明すると、俺の隣りに立つイェライシャに身振りをしてみせる。そのイェライシャは少し緊張しているのか、ぎこちないユグドラセア風の礼でその身振りに応えた。
「まぁ、ユグドラセアですって?ファド、貴方達そんな遠くまで行っていたの?」
「まさか。イェライシャがバーラートとイクシールの国境まで旅をして来ていたのと偶然出会ってね」
「……イェライシャ?」
怪訝そうに聞き返されて、つい、いつも通り彼女を親しげに呼んでいた事に今頃気づいた。
「初めまして、セシリア・イェライシャ・グレンフォードと申します。イクシールからルクアディナルファまでの間の旅をご一緒させて頂いたので、皆さんイェライシャと呼んで下さっているのですわ」
「私はアリシャ・リソワです。ようこそフィルダウスへ」
狼狽えた俺をまるでフォローするかのようにイェライシャは口を開き、少しおどけたような微笑みを浮かべる。それをどう受け取ったのかアリシャも簡潔に名乗ると、同様の笑みを返した。
「まぁ……色々あったのですけれど、バーラートの滞在先を出奔した私をヴァルさまがお招き下さったので、念願だったこの国をお訪ねする事がかないました。今日は、生まれたばかりのお子様に会わせて頂けるのを楽しみに参ったのですわ」
「まぁ、勿論喜んで披露させて頂くわ」
何時になく嬉しそうな声でアリシャはそうイェライシャの言葉に応じると、傍らの侍女に軽くうなづく。
侍女は心得た様子で、女主人のベッドの隣りに設えられた一廻り小さなベッドから小さな包みにも見えるものを恭しげな手つきで抱き上げ、アリシャへと手渡した。
「まだ名前を決めていないのですが、男の子ですわ」
「小さくて、かわいいものですね」
「でもね、泣き出すとものすごく大きな声なのよ」
覗き込んでそんな感想を口にしたイェライシャに、アリシャは困ったような顔を見せる。
「君も子供も元気そうで良かったよ。随分大変なお産だったと聞いていたから、もっと疲れ果てた顔をしているかと思っていた」
「とーっても疲れたわよ?大変だったのは確かだけれど、誰のどのお産でも大変で命懸けなんですからね」
少しばかりムキになって言い募ってくるアリシャは二人の子供の母親というよりも、まだまだ幼く見える。俺の父方の従妹にあたる彼女は、実際、まだ若いのだが。
たしか、イェライシャよりも少し年上なだけの筈だ。
「地上でもこの地でも、同様に厳しい事をよく成してくれたね、アリシャ。賑やかになってラシャも喜ぶだろうな」
「ありがとうございます、ヴァルさま。ラシャは早くこの子と遊びたいらしくて……一日に何度もこの部屋を覗きにくるのですよ」
ヴァルにそう言葉をかけられてアリシャは少し頬を赤らめ、俺に対するのとは打って変わったようにしおらしい態度を見せる。彼女のその表情を見ていても正直何とも思わないのに、イェライシャが同様の反応を見せるとき、俺は妙に平静では居られないのだ。
「抱っこ……してみますか?」
「私、まだ赤ちゃんの抱っこをした事がないんですけれど」
「大丈夫よ。首がまだ据わっていないから少しコツがいるけれど、なんて事ないわ」
物思いにふける俺なぞおかまいなしで、アリシャはそう提案する。自信なさげなイェライシャに微笑むと、抱えていた幼い息子をさっさとその腕へと委ねてしまった。
確かに初めてだと判るぎこちない手つきでイェライシャは手渡された赤子を抱きしめ、それでも懸命にあやそうとしている姿が微笑ましい。廻りで見ている誰もが穏やかな表情を見せていて、こんなのも悪くないなと、素直に思える。
「俺も抱っこしても良いかな?」
ついでにそう言うと、アリシャは少し意地の悪い微笑みを見せた。
「あら、残念ね。申し出は嬉しいのだけれど、どういう訳かこの子ったら殿方はお嫌いらしいの。ジェイルですら泣かれてしまっているのだもの、ファドだったら号泣ものね」
「なんだそりゃ」
意味が分からなくてアリシャの夫に視線を向けると、ジェイルは苦笑している。
「本当に僕が抱くと泣くんですよ。侍女でも何でも女性ならご機嫌なんですけど」
「……なかなか将来が楽しみな子だね」
和やかなこの場で、穏やかな微笑みでそう言うヴァルの、その表情をじっと観察してしまう。
ここしばらく彼がよく見せるようになっているその笑顔に、正直安堵している自分を意識しながら。
「私はもう少しお客様とゆっくりお話がしたいわ、殿方は別室でお茶でもなさると良いんじゃないかしら」
「そうだね。僕もヴァルさまのお土産話を聞きたい事だし、こちらへどうぞ」
アリシャが何を考えてそんな事を言ったのか判らなかったが、妻の提案にジェイルはあっさりとうなづく。
もちろん彼の場合、何を考えているかなんて推測するまでも無い。
「今夜は王宮へ伺候しなきゃならないから、あんまり長居は出来ないんだけどな」
「大丈夫ですよ、今回の旅の事をざっと話して下されば良いんですから」
予定が詰まっているから、と彼の追及を躱そうとしてみたがジェイルはにべもない。
扱い慣れた様子で俺とヴァルを部屋から別室へと連れ出そうとするジェイルの肩越しに振り返ると、ひらひらと手を振って俺たちを見送っているアリシャと、不慣れな手つきで赤ん坊を抱いたままのイェライシャとが見えた。




