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暁の銀嶺と黄昏の蒼  作者: 天野原 唯
106/110

106 朝の風景 2



「お早うございます、ヴァルさま。お待たせしてしまいましたね」

「いや、するべき事は沢山あるようだから構わないよ」

 食事の為のお馴染みになった部屋で先にテーブルについていたヴァルは、そう涼しい顔を見せる。

 実際、彼の脇に寄せられたワゴンの上にはある程度重要な書類を入れる為の文箱が置かれていて、既に姿の見えないラハティの置き土産だろうと推測できる。


「こんな朝早くからよくそんなに頭が働くのね」

 隣りのイェライシャは少し呆れたといった口調でその文箱を見つめている。

「慣れたからだろうね。こんな生活を長い事続けてきたから」

「その長い間ずっと一人だったの?」

「……まあね」

 すっぱりと切り込んだイェライシャにはらはらしていたのだが、ヴァルさまは苦笑してそう答えただけだった。けれど次には彼のその瞳が俺へと向けられる。

「今日はプライベートのつもりだろう。お前のそれは……少しばかり堅苦しすぎやしないか?」

「それでも、俺は貴方の護衛なんですよ」

 俺の制服を揶揄してくる上司に、話にならないと言ったニュアンスで返事をして見つめ返すと彼は少しばかり肩を竦める。

「わたしが何て呼ばれているのか、知っているだろうに」

「勿論、承知しておりますとも。……護衛要らずの君」

「それ、どういう事なの?」

「ヴァル……チャクラヴァルティンさまは、護衛の必要がないくらいお強いという意味だよ」

 訳が判らないというイェライシャの言葉にそう答え、今一度ヴァルに視線を戻すと、少し不満そうなヴァルの表情に会う。

「護衛の人達と一緒に身体を動かす事もあるって聞いたから、そう……なのかなって思ってはいたけれど、やっぱり強いのね」

「必要があるから身に付けた迄の事だよ」

「じゃあ、他には好きで身に付けた事もあるわけよね?」

「それは秘密だね」

「……けち」

 つまらなさそうに……飽くまでポーズだけだが……答えたイェライシャに、柔らかな微笑みで応えたヴァルは手元にあった文箱にようやく蓋をする。

 それを仕事が終わった合図だと看做している俺は彼の隣りの椅子を引き、イェライシャをエスコートした。

 更にその隣りへと腰を下ろすと、室内で控えていた侍女が朝食の支度を始めてくれる。

 その様子を興味津々と言った顔で見つめているイェライシャが面白いのだが、口には出さず黙って支度が終わるのを待った。


 今朝の食卓は温野菜と温かいスープ、それに穀物をまとめて揚げた物に好みのコンフィや蜂蜜を掛けるもの、そして更に保存が利くようにと塩にしたり薫製にした何種類かの肉類。

 質としては格が違うがこの地では割と一般的な朝食だ。そして同じテーブルには季節の果物も添えてある。

「どちらかというとルクア風のテーブルなのかしら?」

「むしろ君の故国、ユグドラセア風なのだろうと思っていたのだが……どうだろうね」

 呟くようなイェライシャに答えるヴァルは、特別気負う物も無い淡々とした口調だ。その様子をちらりと見遣った彼女は、視線をテーブルに戻してじっと考える。

「そう言われればそうなのかしら。ルクアディナルファの習慣はまだ殆ど知らないから比較できないけれど、この国は……随分故国の影響を受けているのね。もしかして、貴方も行った事があるの?」

「残念ながらこの大陸から出た事は無いな。もともとこの国を興した民はルクアよりもバーラート寄りのイクシール辺境の出なのだというからね。基本はイクシール風なのだと思うが……かなり強くユグドラセアの影響を受けているのは否めないな」

「……そうなの?」

 ヴァルの説明に、イェライシャはこちらへも話題を振ってくる。

「ああ、俺もそうだと思うよ」

 うなづくと彼女はようやく納得したようで、食事を始める事にした。

 水の注がれたグラスへと手を伸ばすヴァルとは対照的に、両手を組んで食前の祈りを忘れないのが彼女らしいのだが。


 

「時間があればのんびりと馬で出掛けたいところだが、今日は余裕が無いしそんな気分でもないから仕方が無いね」 

 朝食を済ませると、そう言ったヴァルを先頭に移動の為の部屋へといつもの長い廊下を進み、特徴のある紋を刻んだ扉を潜る。

 扉にはその屋敷の主人の紋が刻まれるのが通常だ。

 ヴァルはフィルダウス王家の直系の王族なので、彼の紋は龍紋とされている。

 一見単純なように見せていながら、近くで見ると意外と複雑に絡み合った地紋で描かれているその紋様に初めて気が付いたらしいイェライシャは、それを物珍しそうにまじまじと見つめている。

「それがこの屋敷の目印のような物なんだ。これから尋ねる先にも同様にその屋敷の象徴となる紋がある。覚えておくと何かの役に立つ事もあるかもしれないよ」

「判ったわ」

 少し緊張しているイェライシャの声と、彼女の腕が俺を頼ってくれるのがかなり嬉しい。

 移動する、という事で前回のように気分が悪くなるのは仕方が無いとしても、それでよろけたりしない為の予防だと判っていても、だ。

 とは言え、今日の移動は短距離で、イェライシャへの負担がかなり少ない事を俺と当然ヴァルも承知していた。

 ルクアディナルファからこの地へと入る為には、長い距離とこの王国を護る結界のような障壁を抜けなければならないので、不慣れな者は概して不調を訴えるのが常だったから、あの時のイェライシャの状態は予想の範囲内だった。

 今回も調子が悪くなるのを警戒しているのだと判る彼女の態度に、薄く微笑みを浮かべただけでヴァルは部屋の中央へと進む。

「………」

 例によって低い声で彼が呟く。

 それに応じるように目の前の扉の紋がゆっくりと姿を変えてゆく。俺の腕に手を添えていたイェライシャの指の感触に彼女の緊張も伝わってくる。


 そして。


「……着いたよ」

「もう?」

 そう告げるとイェライシャは意外そうに聞き返してくる。

 彼女が今まで経験した中で一番短距離の移動だったから、覚悟していた分むしろ拍子抜けしたようだった。

「今日は短距離だったし、結界を越えなくても良いものだったからね。その分君への負担も少なかったんだよ」

「教えておいてくれても良かったじゃない。それにしたって移動したっていう実感が無いくらいだわ」

「でもほら、その扉を見てご覧。紋が変わっているだろう?」

「……まぁ、本当ね」

 姿を変えた扉の紋を見つめてもまだ幾分か納得出来ていない風情のイェライシャに微笑むと、俺はその扉へと向かう。

「これが移動出来たという証拠なんだよ」

 そう言いながらその扉を押し開くと、開けた視線の先は明らかに先程とは違う雰囲気の屋敷だった。造り自体は似たようなものなのだが、醸し出す雰囲気はヴァルの屋敷よりも家庭的な感じがする。

「これは、ファドラーン様!お久しぶりにございます。先触れもなしとは一体どのようなご用向きでございますか?」

 怪訝そうな様子で出迎えたのはこの屋敷の執事で、来客の気配に慌てて此処迄やって来たようだ。俺が扉のすぐ近くに居るので、俺のすぐ後ろにいるヴァルの姿は彼の視界には入っていないらしい。そして、何となく主人の意図が読める。

「いや、大した用事じゃないんだが。久しぶりに地上から戻ったついでにジェイルとアリシャにお祝いを言おうと思ってね、友人と一緒に出掛けて来たんだよ」

 そう……何でもない事のように言って、一歩、更に屋敷の方へと踏み出す。

 同様に俺の背後の人物も一歩踏み出し……執事の表情の変化を俺としては随分楽しむ事が出来た。

「チャクラヴァルティンさま⁈ 一体どういう事でございますか、これは」

 狼狽えてひれ伏さんばかりに身を屈めた彼を、ヴァルはいつも通りの穏やかな笑みで見つめる。

「ファドラーンが申した通り今日は友人として来たのだから、堅苦しい扱いは止しておくれ」

「そのような勿体無い事を……」

「良いから、主人の所へ案内しておくれ」

 重ねてそう促されては執事もそれ以上狼狽えているわけにはいかなかった。

「判りました。取り次いで参りますので、それ迄別室にてお待ち頂けますか?」

 そう言って案内する素振りを見せた彼にヴァルが続き、俺もイェライシャへとエスコートする為に腕を伸ばした。

「彼女はわたしの客人として地上から招いた者だ。今はこの地の事をよく知る為にわたし達と行動を同じくしてもらっているのだよ」

「左様でございますか」

 執事の視線がイェライシャに留り、不思議そうな表情を見せたのを察したのかそうヴァルが補う。例によっていくらでも解釈のしようのあるヴァルの言葉に恭しげな態度でそう応じると、執事は先に立って歩き出した。

 程なくして応接室へと案内される。

「すぐに主人も参りますので、暫くこちらでお寛ぎください」

 そう言って扉の向こうへと消えた執事の背中を見送り、俺たちはそれぞれ思い思いの場所を占める。

 この状況に俺はルクアディナルファの王城での事を思い出していた。

 あれから随分いろんな事があって……もっと日にちが経ったような気すらするのに、実際には四日しか過ぎてはいない。あの時と同じようにソファへと腰を下ろして少し落ち着かなさげなイェライシャに、彼女は今何を考え込んでいるのだろう……とつい考えてしまう。

 取り留めもなくそんな事を考えていたら扉へとノックがあり、先程の執事を従えたジェイルが入って来た。

 よほど慌ててこちらへ来たのだろう、少し息が荒いその様子についにやりとしてしまった。


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