102 部屋
イェライシャが案じてくれた程には疲れはなかったのだが、汗だけはしっかりとかいてしまっていたので取り敢えず浴室を使うことにした。
三か月以上空けていた部屋だけれど、見回しても塵一つ無くきちんと手入れされているのは、部屋の主人が長期に渡って留守をしていてもこの屋敷が弛んではいない事の証だろうと思う事にしている。
私室として与えられているとは言っても全くのプライベートという訳ではないのは承知の上だから、掃除の為などで誰が出入りしたとしてもとやかく言う義理ではないのだ。
汗を流してさっぱりとした気分で殆ど無意識の内にいつも通りの手際で親衛隊の制服を身にまとい、鏡に映った自分のその姿に少し……戸惑ってしまった。
何が、と、はっきりとは言えないこの違和感。
チャクラヴァルティンさまの親衛隊の中で、当然の事ながらただ一人にしか許されていない隊長の制服。
白を基調としたそれは袖飾りと肩章にティールブルーをあしらい、身頃と袖とに金糸の刺繍飾りを施したもので、王の親衛隊とは色違いの誂えとなっている。
王の親衛隊は紫苑のパープルを、そして世継ぎはこのティールブルーをそれぞれのシンボルカラーとするのがこの国の習慣となっている。これにも長い話があるのだがいずれイェライシャに話してあげる機会もあるだろうと思う。
ともあれ、いつもなら当然のようにそれを身に纏っていたのに、初めて感じてしまったこの違和感のせいだろうかどうにも居心地が悪い。そんな落ち着かない表情の自分を鏡で観察して、諦めの溜め息を一つ零してしまう。
公式の場であれ、そうでない場であれ、チャクラヴァルティンに従う自分としてはこの姿になんら違和感を感じはしないというのに。
イェライシャが居合わせる時、そんな自分に違和感を覚えてしまうのだ。
こんな事ははじめてだった。
多分イェライシャと出会ってから変わった自分というのは、今までの長い間の習慣、もしくは自分では当たり前だと思っていた事、それらに今一度目を向けて改めて見つめ直す事が出来るようになった、そんな部分の事なんじゃないかな、と取り敢えずそう思う事にしておいた。
そして違和感との妥協を求めて俺は改めて略式の隊服の袖に腕を通し直してみる。
略式のものは白地ではなく皆と同じティールブルーで襟と袖の折り返しが少しばかり派手なだけだ。
ラズィルは常にこちらを身に付けている事の方が多い。
その略式の隊服の襟を直しながら、窺った鏡の中の自分はお気に入りの玩具をまだ諦められていない子供のような表情をしている。たしかにあの制服が一番の気に入りだと言う事は認めるが、嫌でも明日はそれを身に纏う事になる。
王宮に伺候するからには世継ぎと言えども第一級の盛装を要求されるし、同行する共揃いも同様だ。
商人としての俺の出で立ちしか知らないイェライシャがそれにどんな反応を見せてくれるのかは、明日の楽しみにとっておけばいい。
勿体ぶっている訳じゃない。
今夜はあくまで主人の夕食に同席するだけなのだから堅苦しくする必要はないのだ。
どうにも言い訳と取れなくはない事を考えながら、約束通りイェライシャを迎えにいく為に部屋のドアを開けた所で、待ち構えていたらしいラズィルに捕まってしまった。
「丁度いいタイミングだったようですね。ヴァルさまから夕食の席へお誘いを頂いたので、留守中の隊の報告もある事ですし貴方に同行させて頂こうかと。……大丈夫ですよ、お客さまのお部屋に着く前に終らせますし、お邪魔はしませんから」
生真面目な口調とにっこり笑顔付きのその申し出に、瞬間俺が返事を戸惑ったのを奴は見逃してはくれなかった。
淀みなく更に続けられる言葉にまじまじと相手を見つめれば、俺と同じように略式の副隊長の制服をきっちりと着込んだ奴は明らかに俺をからかう時の微笑みを浮かべている。
「どうして俺が客人の部屋へ行くと?」
「隊長が彼女の護りだと聞き及びましたので。心配性の貴方の事だから、勿論お迎えに行かれるおつもりなのだろうと思ったんですが」
「心配性って……」
「違うんですか?」
本心ではもう少し突っ込みたいのを我慢しているらしいラズィルの様子に、俺も少し肩の力を抜く事にした。
「判った、報告を頼む。後、ガティノワはどうしている?」
そう言って歩き出すと、一歩遅れて続く足音が間髪を入れず応えてくれるのが心強い。
「先程外出から戻ったようですね。明日の王宮への伺候には同行させますか?」
時に堅苦しい程礼儀を気にするラズィルらしい問いかけに、関心が同じ所にあると知る。「この部隊の規律を遵守しているとは言い難い態度だが、一応あれでもエブランデティオス家の跡取りだ。王の晩餐会に出られんとくれば現当主のあの爺ぃさんが五月蝿くねじ込んでくるだろうな。お前がそれに対応してくれるのなら、奴を留守番にするのは構わんが……目を離すのも却って心配だから連れて行った方が無難なんだろうな」
「やはりそうなるでしょうね」
そしてどうやら同じ意見だったらしい奴の小さな溜め息。けれどすぐに気を取り直したのか報告の続きを始めてくれた。
隊の人員の動きや身内の出来事、この屋敷内の出来事など要点を纏めての報告なので不在の多い身としてはいつも助かっている。
少しゆっくりと歩きながら一通りの報告に耳を傾け、客室へ向かう廊下の角を回り込んだ辺りでそれらを聞き終わった。
「ほら、言った通りだったでしょう」
当然のような顔で自分の見積もりの正確さを主張するラズィルに、俺は振り向くと降参の意も込めて苦笑いしてみせる。満足げに微笑んでそれに応じた奴の顔を確認して俺は客室へと向き直った。
扉の前の廊下には侍女が一人立っていて、俺達を認めると客室の中へと案内してくれる。
「じきにお支度が整いますので今暫くお待ち下さいな」
客室に入ってすぐそう言葉を向けてきたのはティセルで、午後のお茶の時間を共有していた親しげな態度は今は改められている。彼女達を統括しているミュゼナが必要以上の馴れ合いを嫌うので、これは仕方がないだろうとソファに腰を下ろして待つ事にした。
「既にお聞き及びでしょうが、ジェイル様に二人めのお子さまがお生まれになったとのことで。ヴァルさまはどうなさるおつもりでしょうね」
「まだ確認していないから何とも言えないな」
ラズィルの疑問に当たり障りのない返事を返しながら、既にその情報を得ているだろう主人の行動を推測してみようとして、やめた。もともと気まぐれな彼の言動が、ここ暫く更に輪を掛けたものになっているのを実感させられているからだ。
一応の決まり事としては臣下に慶事のあった場合、主人筋への報告に応じてその使いの者に祝いの言葉を授けるのが一般的だ。
そして、その臣下が日を改めて礼を申し述べる為に主人への目通りをした際に、改めてその慶事に応じた祝いの品を下賜される事になる。
今回は産祝いだからミュゼナが主人の委託を請けてそれを選ぶ事になるのだろうか。
それは本来ならば主人の奥方の仕事なのだが、ヴァルが独り身である以上仕方がないだろうな。
色々な要素があり過ぎて段取りをまとめきれずにいた所へ奥まった隣室からのドアが開く。
現れたのはよく見知った顔ぶれだった。
「お手間を取らせて申し訳ありませんでしたわね。明晩のご衣装の試着をお願い致していたので少しばかり遅くなってしまいましたの。ヴァルさまにもそうお伝え下さいませ」
もしも遅れた事で主人が機嫌を悪くしていたのなら、という含みを持たせた言葉と共に頭を下げたのはお針子頭の侍女アイラだ。その彼女に伴われて部屋から現れたイェライシャは少し疲れているように見える。
それでも、俺を見た時のその表情が少しだけ明るく見えたのは……俺の都合のいい見間違いかな。
「アイラは完璧主義者だし、王の宴ともなれぱ手抜かりは許されませんからね」
俺と同様に立ち上がってイェライシャを迎えたラズィルは、軽く頭を下げてそう言葉を繋ぐ。
彼の言葉に判っていると微笑みだけの返事を返したイェライシャは、昼間の若草色のドレスから淡い紫色の衣装へと着替えていた。
まだあまり選択の余地はないのだろうが、無駄な飾りを極力省いた簡素な衣装は彼女らしいと思えて、俺は微笑んで腕を差し出していた。
「……では行こうか」
イェライシャがすんなりと俺の腕に手を預けてくれたので、そのまま俺達は扉へと向かう。
ティセルが開けてくれた扉を潜り少し薄暗くなっている廊下へと踏み出すと、慣れた道行きを辿って主人の待つ部屋へと向かった。あともう少し闇が濃くなれば照明が灯されるのだが、それにはもう少し時間がありそうだ。
俺の腕に手を預け、背後をラズィルに守られる形で歩いていたイェライシャが小さな溜め息を零したのはその道中だった。こっそりと薄暗がりに紛らわせてしまうつもりだったのかもしれないが耳に入ってしまった以上知らない振りもできなくて、俺は彼女を覗き込むように身体を捻る。
俺の腕に触れているのでそれだけの身体の動きで自分が覗き込まれている事に気が付くはずだ、と思ったから特に声をかける事はしなかった。
「明日の晩の私は、完璧な見せ物だわね」
イェライシャもそれを承知しているのだろう、低く呟かれた彼女の言葉を聞き逃すまいとしながらも、その内容に何とも表現の仕様のない無力感を噛み締める。
「……済まないな」
「貴女にその自覚があれば何とかなりますよ」
神妙な俺の言葉と、それとは反対にむしろ楽観的な口調のラズィル。つい鋭い視線を注いでしまった俺に奴はにやりとして見せる。
「何といってもヴァル様がらみですからね、必要以上の注意を集めてしまうのも仕方が無い事でしょう?誰がどのように推測しようとも、貴女はあくまでヴァル様の個人的なお客人としての振る舞いをなさればいいんです」
「正論ね」
「どっちかっていうと建前ですがね」
ようやく肩の力を抜いたような返事をしたイェライシャの返事に応えたのは、薄暗がりの中でも肩をすくめたと判るラズィルの気配と少しトーンの落ちた声だった。
「それでも俺やこのラズィル、そしてヴァル様のフォローは期待してくれて構わないから」
「判っているわ、ありがとう」
俺がさらに言葉を付け足すと、イェライシャは少しだけ明るい声で応えてくれた。
けれど重くなってしまった雰囲気を払拭する事は出来ず、言葉も途切れたまま。目的の部屋への扉がすぐそこにあったおかげでかろうじて間が持った……そんな危うい沈黙だった。
軽くノックをするとすぐに応じる声があり、部屋の扉が開けられる。
開けてくれた侍女に礼を言いつつ室内を見回すと既にチャクラヴァルティンさま……ヴァルはテーブルに就いていた。もっともその隣に立っている男、ラハティの存在から推測すれば食事のためではなくここまで追いかけてきた仕事のためだろう。
ジェイルの補佐をしているラハティは視線で俺たちを認め、それでももう少しヴァルと言葉を交わす。
そしてようやく最後の書類にヴァルがペンを走らせるのを確認するとその書類を受け取り、既にずいぶんな量の書類が重ねられていた盆の上に重ねると丁寧に布の覆いを掛けた。
それを手にしたラハティがテーブルを離れるタイミングを見計らって、俺はイェライシャをそのテーブルへとエスコートすることにした。
途中ですれ違ったラハティはかすかな微笑みとともに軽く会釈をしてよこしたのでイェライシャもそれに応じて腰を落として挨拶を交わす。
特に紹介されてはいない初対面同士だが最低限の礼儀といったところだろう。
「彼はラハティ・フォール。ジェイルの補佐役でね、彼がわたしを探している時にはわたしは居ないと言っておいておくれ」
のんびりとしたヴァルの言葉にラハティは苦笑して部屋を出てゆく。彼が主の言葉を特に気にする風もないのはいつも通りだ。
扉を潜ってゆく彼の背中を見つめていたイェライシャは、そこからゆっくりと室内を見回して最後に視線をヴァルへと固定する。
「お昼と同じ部屋なのね」
「格式にこだわる来客に、形式に沿った対応をするための部屋も当然あるのだけれどね。わたしとしてはこれ以上肩が凝るのはごめんなんだよ」
イェライシャの質問とも言えないような言葉にそう答えるとヴァルは肩をすくめる。
彼女が居ると幾分ヴァルが無防備になるのだという気がしてそれに胸が騒ぐ一方で、寛いだ風情の主人に幾分ほっとしている自分がいるのも否めない。
だからおどけたように肩をすくめたヴァルに俺やラズィルさえにやりとしてしまう。
「そういえばアイラに捕まっていたそうだね。宴の為だけなのに支度が大げさで済まないね」
「……いいえ、おろそかにできない事だと承知していますから、お気になさらないでください。それに飾りの品などもご用意いただけて助かりました、こちらにお邪魔させて戴いている間は有り難く使わせていただきますわ」
「自由にしてくれと申し付けた筈だが?」
「ええ、ですから」
だから借り物を返すのも自分の自由だとばかり、にっこりと微笑むイェライシャを見つめてヴァルは幾分不思議そうだ。
「女性はああいうものを喜んで受け取ってくれるものだとばかり思っていたのだけれどね」
「そういう方が多いのも確かですわね」
返事をしながら穏やかに変わらぬイェライシャの微笑みに、ドア近くに居たラズィルが笑いをこらえている。誰かが来たのかドアを開けようとしていたらしい。
「あなた様から下心たっぷりの贈り物を貰って喜ぶ女が、そんなに沢山は居ないという現実をそろそろお知りになった方がようございますわね」
「一応……そういうものは無いつもりなんだが?」
ラズィルにドアを開けさせたミュゼナの容赦のない言葉にすら、ヴァルは心外だという表情を崩さない。
彼女は料理の給仕をする為の侍女を数人引き連れて部屋へと入ってくる。
「そっちの方がもっと質が悪いんじゃないんですか?」
笑いを含んだラズィルの言葉にイェライシャはどう反応しようか迷っているらしい。
「今の……ヴァル様の客としての私にはある程度必要な品であっても、そうでない私には使い道の無い物だというそれだけの事です」
「判った。君の好きにすればいいと伝えたのはわたしだしね、君の意向も尊重するよ」
「ありがとうございます」
筋違いの援助はごめんだという……彼女なりのプライドがその言葉を口に出させたのだろう事は明らかだ。ある種潔癖性とも取れなくはないその性分がいっそ気持ちがいい。
そしてそれはヴァルとしても同様なのだと彼のその返事が語っている。話の腰を折る訳にはいかないのでそれまで隣で控えていたが、ようやくそこで俺はイェライシャを椅子に座らせる為にヴァルの正面の席の椅子を引いた。
「それでは食卓のお支度をさせて頂きますわ」
客が椅子に座ったのを見届け、落ち着き払ったミュゼナがそう言うが早いか付き従っていた侍女達が手慣れた仕草で食卓の上を整え始め、いつもながらの手際であっという間に四人の用意を済ませてしまった。




