100 緊張と油断の微笑4
ラズィルの言う通りにする訳ではないけれど、それからの私はなるべく微笑みを浮かべてにこやかな表情を心掛けるようにした。
確かに、他の皆にも同じように微笑んでおけば、セグリエスだけに特別の笑顔を向けたのではないという言い分は通るわ。
ただ、なしくずしに自分が八方美人的な笑顔を振りまいているような気がして、自己嫌悪に陥ってしまうのは止められなかったけれど。
例えこの国のモラルの規範が私の故国程に厳しくはないと聞かされていても、やはり自分の中にある規律を覆す事は容易ではないの。
それにしても先程の閲兵は本当に略式のものだったみたい。今は適当に間を取った若者が思い思いの相手と剣の練習を始めている。
彼等のその様子を見ながら少しそわそわし始めているファドラーンに気付き、彼がこの場に居合わせるのも久しぶりなのだと思い当たる。
「私はここに居るから、隊の皆さんとご一緒してくればいいのに」
「……お客人の事なら私が付いていますから、大丈夫ですよ。隊長不在の隊であっても腕は落ちていませんからね、遠慮なくどうぞ」
私の申し出に少し躊躇していたファドラーンだったけれど、ラズィルの言葉を聞いてしまえば出ない訳にはいかない。少しばかり棘のある言葉には、隊長としての責任と言う有無を言わさぬ響きがあったのだもの。
ましてや丸腰でこの場にいた彼に、ラズィルが黙って剣帯ごと自分の剣を差し出せば、受け取らないわけには行かないわね。
「それじゃ、行ってくるよ」
「お気を付けて」
軽く肩をすくめたファドラーンが剣帯を片手に私の方を見れば、そう言葉を繋いだのはラズィル。
険悪になっても不思議はない状況なのに、あっさりとラズィルの剣を受け取ってファドラーンは鍛錬場へと足を踏み入れていった。
「すみませんね、一応これも彼の仕事なので」
背筋を伸ばした彼の後ろ姿を見送っていたら、隣からそうラズィルの声がした。
ちら、と目をやると何処と無く申し訳無さそうな表情を浮かべている。
「いいえ、憎まれ役をして下さって申し訳ないくらいです。私だけだったら喧嘩腰にならなくちゃならない所だったわ」
「……でしょうね。あれで結構心配性なんですよ」
ファドラーンを仕事に送り出す事で私が機嫌を損ねる、とラズィルは思っていたのかしら。
たしかに、寂しいと思う心がない訳ではないけれど、何の為に今ここに居るのかを考えれば我侭は回りの皆を困らせるだけよね。
少し緊張を解いて続けられた彼の言葉に微笑みを返して、私はファドラーンの動きを目で追った。
ティールブルーに統一された制服の中で唯一私服のままの彼は嫌でも目に飛び込んでくる。
だけれど、のんびり見物に専念させては貰えなかった。
「ラズィル副隊長、少しお話しさせていただいても宜しいですか?」
控えめに掛けられた声を伺えば、さっきまで近くで剣を交えていた若者たちが立っていた。副隊長と話をしたいと言うのは建前だとお互い承知だが、特に表情も変えずにそれに応じたラズィルに彼等は幾分ほっとしたような表情を見せる。
名前の交換と差し障りのない話題。
それに笑顔で応じながら、礼節を弁えた彼等のその振る舞いに感心せざるを得なかった。
お互いの事情に立ち入り過ぎない会話は彼等の規律が行き届いている証かしら。
そしてそれを皮切りに、常に誰彼かが私とラズィルの傍にやって来るようになった。
入れ替わり立ち代わりと数人づつのグループでやって来ては名前を名乗っていく彼等。
常に何人かの若者が居るのだけれども長居する訳でもないタイミングの取り方が絶妙だわ。
以前、故国ユグドラセアでの田舎の夜会では、数人の娘だけで会話していた廻りを貴族の青年にぐるりと取り巻かれてしまい、その傲慢さにとても嫌な思いをした事があった。
そんな事を思い出し、隣に立つラズィルを見上げて。
「礼儀を弁えた方たちですね。ヴァル殿の護衛と言うからには、皆、格式のあるお家の方なのですか?ガティノワさんのように」
「そうですね、隊の半分はそういった家柄の者ですが、残りは市井からの者なんですよ。一応王族の護衛ですから、賛否両論なんですがね」
「……あの方らしいわね」
確かに彼のやりそうな事だと、私はラズィルに同意の微笑みを返す。チャクラヴァルティンの、柔軟な思考の持ち主のようにも見えるその姿の奥には自分の考えを押し通す頑固な一面があるらしいのは薄々気が付いているの。
勿論彼は自分ではそれを決して認めまいが。
「……驚かれないんですね。ちなみに私も市井からの出身なんですよ。ヴァルさまの領内からの志願者がこの隊の四分の一を占めているので」
「地元の方の協力は欠かせませんものね」
当たり障りのない言葉ではそう言うのが精一杯だった。
お世辞でも何でもなく、領主や統治する者にとって領民が好意的か否かは仕事の成否を左右するのだから。
「国は違えど、貴族の子女としての教育を受けた貴女がそんな風に考えて下さるとは思いませんでした。……こんな事を言って気分を害されたのなら謝罪しますが」
「気になさらないで下さい。私は随分考え方が変わったんだな、と自分でも思うんです。故国を出てからのこの半年の間に、随分いろんな事を経験しましたから」
ラズィルは慎重に私との心理的な距離を測ろうとしていたのかしら、私の返事に目に見えて彼の態度は寛いだものになった。表情は前のままの微笑みだったけれど。
「いずれ機会があれば、ゆっくり貴女の体験談を聞きたいですね。とても興味をそそられるもののようですから」
「そうですね、機会があったら」
そんな返事を返しながら見上げたラズィルは優しい瞳をしていて、先にファドラーンに見せていた鋭いものは微塵も残っていないように見えたのがとても意外だったわ。
「私の家族もヴァルさまが長期間滞在なされる地上にとても興味があるらしくてね。妻にも何度か訊ねられるんですが、私は行った事がないので答えようがないんですよ」
「奥様……?」
自分の立場も微妙だし、この国にいつまで滞在していられるのかも判らない。いつそんな機会が巡って来るのかもはっきりしていないからと思って、はぐらかす訳ではなかったけれど曖昧な返事をしていた私はその言葉に興味を隠しきれなくなってしまった。
「この土地の方で奥方の話を聞かせて下さったのは貴方で二人目ですわ。ええ、そう、機会があれば是非」
本心からそう答えると、ラズィルもそれに笑顔で応じてくれる。
「もう一人と言えば、ミシェイルでしょう?奴の話も結構おもしろいんですよ、大変ですけれどね。今度詳しく馴れ初めでも聞いて御覧なさい」
本気とも冗談とも付かないラズィルの台詞に苦笑いしながら、巡らせた視線にこちらへと戻ってくるファドラーンの姿が映った。
擦れ違う数人に声を掛けながら、それでもその視線はしっかりとこちらを見つめている。
「疲れただろう、そろそろ切り上げるかい?」
戻るなり彼はそう言って、私の手を取ると鍛錬場を出る素振りを見せた。
廻りのひと達はそんなファドラーンに別段変な顔をする訳でもなくて、軽く頭を下げるだけの礼を執って私達を送り出してくれる。
一応ラズィルや廻りの若者達に同じような礼を返すと、私もファドラーンに続いてその場を後にした。
「ファドラーンこそ久しぶりに身体を動かしたのだもの、疲れたのではない?」
つい先程まで幾人かの若者の剣の相手をしていた彼は、息はあがっていないもののかなりの汗をかいているみたい。
私をエスコートしてくれる指先すら暖かくしっとりしている。
ファドラーンの代わりに私の隣にいてくれたラズィルと、入れ替わり挨拶にやってくる若者とが作る人垣の間から、私はずっと見つめていたわ。どんな風にファドラーンが剣を扱うのか、手合わせしている相手の力量にあわせて剣を交える彼の活き活きした表情を。
それは今までの旅の間に見ていた彼とは全く違う表情を持つ人物で……どちらがより彼らしいかと問われれば、今の彼の方が、と答えざるを得ないわね。
今までの商人の息子を装っていた彼に馴染んでいた私としては少し不本意なのだけれど。
虚像の人物としての彼と今目の前をゆく本当の彼。さっきの暖かくしっとりとした手が、生身の彼を妙にはっきりと意識させる。
だから少しからかうような口調でそう尋ねてみた。ファドラーンがどんな反応を返すだろうかと思って。
「とんでもない、ちょっと乗って来たかなって程度だよ」
少し伺うような視線で見上げると、返って来たのはいつも通りの微笑みだった。
いつもの軽口とともにのんびりした足取りのファドラーンに、来た道を戻ろうとしているのだと咄嗟に見当を付ける。
「そんなに急がないのなら、きちんとした道順で屋敷に戻らない?どうせならそっちの道も見ておきたいし、夕食までに貴方が着替える時間の余裕もまだあるでしょう?」
だから我侭を承知でそう私は提案していた。
「わかった」
ファドラーンは素っ気ない口調でそれに応じたのだけれど、ちらりと見上げたその口元にはいつもの微笑みがある。
「それは構わないけれど、通用口と正面のエントランスのどっちがいいかな?」
「通用門に決まっているでしょ」
しれっと続けられた言葉に、さっきのファドラーンに倣うように殊更素っ気ない口調で応じてみた。
けれど微かに私を伺っているようなファドラーンの視線を感じて、じゃれ合っているのか互いに相手を探り合っているのか、判らなくなってしまった。




