010 動揺
目の前に差し出される……鮮やかな血糊が痛々しかった傷口が、かざされたラウドラチャクリンの手のひらの下でゆっくりとだが目立たぬ様になり、血が止まり切らぬ様に見えたその場所はついには、うっすらと赤みが残るだけになった。
自分の故国ユグドラセアの古い伝承や作り話(だと思われているもの)や、それらの話に残る呪い〈まじない〉の老婆、魔女として迫害された者達、或いは闇の神々を奉じると言う古の神官達……。
そんな日の下では口にするのを憚られるような事ばかりが頭の中で渦巻き、当然の様にその業を施すラウドラチャクリンと、同様に当然と言う顔でそれを受ける男達が信じられなかった。
それとも……にわかに遠い存在の様に感じられた、というのが正しいのだろうか。
あまりに迷信や言い伝えなどには無頓着な様に見える彼等に、そんな事にこだわっている自分の方が小さな存在だと卑屈になってしまいそうになる。
「イェライシャ?」
黙って彼等を見下ろしていた私は、不意にラウドラチャクリンに問われ、その声で我を取り戻した。
「自分の見たものが信じられぬ……という顔だね。ユグドラセアの人々はこう言う力を持つ者を遠い昔に拒否したのだよ。今となっては昔語りに残るだけだろう?忌むべき者、……汚らわしい者としてね。けれど、まだ……」
そこで言葉を切り私を見上げたラウドラチャクリンと目が合って、私はその青い瞳に今更ながらに驚いていた。
彼の顔立ちはこの辺りの人々とさして変わらぬだろうと思われるのに(勿論かなり整った…美貌と言っても良い程の顔立ちなのだが)瞳の色は深い深い空の青だ。
昼間の明るくさわやかな青ではなく、雲一つない夕暮れの、宵闇に混じる直前の蒼。
底知れぬ淵の中を覗き込んでしまったような……とても深く底の見えぬその瞳に、瞬間、鳥肌の立つような恐怖を覚えてしまった。
「……この辺りではまだ残っているのだよ、こう言う力を持つ者がね」
「そういう話は……噂には聞いていましたわ。伝説の王国の事も」
恐怖の余韻を引きずり何故かそう口にしてしまった。
……しまったと思ったけれど、もう遅いわね。
「……フィルダウス?」
先程覚えたばかりの肌が粟立つような恐怖を表には出すまいとしたものの、ラウドラチャクリンがその名を口にした瞬間、少し怖じ気づいた様に私は周りを見回していた。
誰も聞いていないと確かめる様に。
「……かの王国の者は不思議の力を持ち、不老不死を得たるという……古くからこの辺りの諸国に囁かれるウワサだな。新興の大国クァーナなどはその所在を得んとして年に幾人もの偵察者、探索者を送り出しているとか。もっともその多くがこの険しい山々に呑まれ、生きては還らぬと聞くが」
私の態度には構わぬふうに、いつもの声の調子でラウドラチャクリンはそう続ける。
それとも言外にほのめかしたのだろうか、普通の人々には決して見つけられはせぬ、と。
大国の命を請けた剛の者にすら見つけられぬものが、お前如き娘に見つけられる訳が無い、と取れなくもないその口調にハッとした。
知っていると言うのだろうか、彼は。
私の望みを?
何故?
それとも私の……思い過ごしだろうか。
「そうだね、そんな伝説のような国があれば平穏に暮らせるかもしれないな。……だがこの力は人々、何の力も持たぬ者達とは相容れぬものだ。脅威ですら有るらしいから……いずれはこの辺りからもわたしのような力を持つ者は居なくなるだろうね。そして昔語りの中にその姿を留めるのみとなるのかな……君のユグドラセアの様に」
自分の事情をあまり探られたくはなくて気がそぞろになりかけていた私に、そうラウドラチャクリンは言葉をつなぐ。
少しばかり……寂しげな声だとその時思った。
いつもフードを目深く被り、口数も私の知る限りではあまり多くない男性の筈なのに、今は随分と饒舌だわ。
何かを伝えたいの?……私に?
そう思い付き見つめ返したが、私の問うような眼差しに彼は答えず腰掛けていた倒木から立ち上がり歩み去ろうとする。
けれど、ふと思い付いたと言う様に振り返り、その瞳が私を見つめた。
「……何処か怪我でもしたら遠慮なくわたしの所へ来れば良い」
「ありがとう、そうするわ」
拒絶ではない私の口調に安堵したかの様に彼は去り、見ている間に軽やかな身のこなしで馬上の人となった。
他の者達も順次馬に跨がりはじめる。
ようやく私も遅れては大変だとばかり借り物の馬に近付くと、待っていたかのように馬に乗るのを助けてくれながら……ファドラーンが何かを訊ねて来た。
「何……?」
良く聞き取れなくて問い返した私にファドラーンは、言いにくそうにしかも小さな声で繰り返す。
「……ラウが気になるの?」
はじめは彼が何のことを言っているのか判らなかった。
馬に跨がると目線も高くなるから、いつもは見上げてばかりのファドラーンを見下ろすような形になる。
初めて見る少し上気した少年のような頬とその瞳。
意外な表情だったけれど、何か……彼の気持ちの動きが何となく理解できた私はそれに応じて妙に赤らんでしまった自分の頬を見られたくなくて、少し顔を彼から逸らした。
私の中では浮ついたところのない真面目な青年というイメージが定着しつつあった彼が、なぜ今このタイミングでこんな表情を見せるの。
「—あるわ。けれど……誤解しないでね?あんな力を持つ人を見たのは初めてだったからよ。それに時々、私は彼が怖いの。ご免なさい、貴男の弟さんなのに……」
申し訳ない気持ちでそう付け足して、ようやくファドラーンの方を見返す。頬は少し赤いけれど、誤解の余地がないように言葉は選んだつもりだった。
「い、いやいいんだ。奴は時々……ぶっきらぼうになるからかな?」
妙に上ずった声でファドラーンは答え、それでもいつも通りの身のこなしで自分の馬へと跨がった。自分では気付いていないのだろうが、まるで私の国で昔一度だけ見た事のある……王室の近衛の若い将校のようだわ。
背筋をピンと伸ばした……惚れ惚れするような男ぶり。
もはや彼等がただの商人だなどとは、私は信じていなかった。
しかし人目を避ける必要からの、或いは偽る為の茶番なのなら、それらに気付いた事は態度に表すまいと、私は当分の間彼等の偽装に騙されたままにしておく事に決めたの。
それに彼等が何者で何の為にこんな偽装をしているのかは、依然として私には判っていないのだし。
何より私自身が最初から彼等を騙し続けているのだから。
自分達の偽装を守る為なら、私のような厄介者には関わらずに居た方が安全で、且つ確実なのに。
それでも彼等は私を助けてくれた。
……だから、もう少し一緒に行動しようと思っただけだわ。
それにラウドラチャクリンやファドラーンの素性も……何となく気になるじゃない。




