12 . 初恋の殉職
柔らかな羽毛布団の感触と、甘い香油の香りが鼻腔をくすぐる。
目を開けると、重厚なビロードの天蓋が視界を覆っていた。
薄闇の中で、壁には見慣れない絹織物が施され、窓辺には花瓶に瑞々しい白百合が飾られている。
(ここは…)
「ルナリア!」
傍らの椅子から飛び上がる気配。
焦点が定まってくると、目の前にセオドアの顔があった。
燃えるような赤毛の下で、疲労で隈が浮いた目元。
椅子から立ち上がった拍子に倒れたコップが床に転がるのも気にせず、セオドアはベッドサイドに駆け寄った。
「なぜ、無茶をした!」
青ざめた顔でセオドアは縋り付くように、ルナリアを見た。
「お前が、お前が死んでしまうかと…」
震えるセオドアに、ルナリアは自身に何があったか、理解した。
寂しさと同時に安堵が湧いた。
「…ドラゴンは?」
ルナリアは喉の痛みに顔をしかめた。
「倒した」
セオドアがベッド脇のテーブルに置かれた、もう一つのコップを差し出した。
「お前が放った最後の魔法でな」
胸の奥から込み上げる痛みと共に記憶が甦る。
禁忌の魔法。
生命力そのものを魔力に変換し放出する最終手段。
代償は明らかだった。
セオドアが歯を食いしばる。
「お前が発動させたあの虹色の矢は、ドラゴンを貫いた。だが同時に」
「私の命も削り取った」
ルナリアの声は静かだった。
「だけど、生き残った」
ルナリアは震える手で胸元を探った。
服の下にずっとぶら下げていた小さな金属板はなく、チェーンだけが持ち主をなくし、揺れている。
だが、代わりにルナリアの胸にはうっすらと淡い紋様が残されていた。
セオドアはゆっくりと立ち上がった。
疲労で歪んだ表情の奥に抑えきれない感情が渦巻いている。
「お前の魔法が発動した瞬間、この護符が砕け散った。破片が胸に沈んで紋様を刻んだ。それが、お前の生命力を繋ぎ止めた」
怒りとも悲しみともつかない震える声に、ルナリアは目を閉じた。
瞼の裏に広がるのはドラゴンの咆哮ではなく、セオドアに護符を渡された日の光景。
セオドアはポケットから古い封筒を取り出した。
開くと中から黄ばんだ羊皮紙が出てくる。
「二十五年前の王立研究所の報告書だ。
この護符を開発した研究者はお前の母親だ」
ルナリアの目が見開かれた。
確かに知っている名前。
産褥熱で若くして亡くなった母の名。
「報告書を渡してきたのはお前の祖母だった」
「おばあ様が…なぜ?」
「あの人はウィルブライト家とブラックウェル家の和解を願っていた。お前の母が命をかけて創った魔法防具を、未来の争いを終わらせるために使いたいと」
だけど、それは叶わなかった。
ルナリアの父が、ルナリアの祖母を追いやり、二度と敷地に足を踏み入れることを許さなかったからだ。
そして、その後母の不貞を疑い、死後貶しめるような噂を流した。
愛人との再婚を急ぐ、己の欲望のために。
実際継母との間に、ルナリアと半年も違わない赤ん坊が生まれる…はずだった。
ルナリアに弟妹はいない。
そしてこれからも生まれてこない。
「生前お前の母と俺の母は仲が良かったんだ」
ルナリアには、御伽噺のように聞こえた。
ルナリアの母も祖母も、歴史書の中の人物のような遠い存在。
絵すら残されていないから、どういう顔だったのか、どういう性格だったのか又聞きで、その像は常に語る人物によって変わった。
だから、その人たちが、ルナリアを想っていたと聞いても、戸惑いが勝つのであった。
「お前の祖母は、家のために結ばれた政略結婚を止めることができなかったのを悔いていた。お前の母親を助けることができなかった、と。
だから、今度こそお前のことだけは助けたいと頭を下げた。縁も遠くなった俺の母に報告書を託した。
親友を貶しめた男と血の繋がってる子どもで、親友の忘れ形見。
その狭間で俺の母親も悩み、報告書は処分はされなかったが、誰にも見つからないように隠された」
セオドア以外には。
魔術の才は遺伝が大きく関与する。
だから、ブラックウェル家に、魔術の才に恵まれた子どもが生まれるとは想像もされていなかったのだ。
だから、セオドアの母は、小さな子どもの目を気にせず、受け取った報告書を隠した。
好奇心に燃えた子どもが自室に持ち帰り、机の中に入れたことも知らずに。
それから、ルナリアに事件が起こり、セオドアはルナリアを守れる物を探し、机の中に眠っていた報告書を思い出した。
一昼夜使い完成した護符は、お世辞にも良い出来とはいえなかった。
だけど、その護符の本質は違う。
「『最も強い防護は愛によって紡がれる』」
御伽噺のような文言が報告書の一番最初の一文だった。
「『魔法は魂の投影である』。わたくしの母はどこまでもロマンチストだったみたいね」
なのにあんな男と結婚し、こんな娘が生まれてしまった。
「この護符は単なる物理障壁じゃないってことね」
「金属板は、思念体の核だ。
お前の命を喰らい尽くそうとした《極彩色の天弓》のエネルギーを吸収し、逆流させた。
お前の母の遺志と、祖母の祈りと、俺の馬鹿みたいな執着が合わさった結果だ」
そして、ルナリアの想いも。
ルナリアの心には、長らく持ち続けたセオドアへの想いが消えていた。
いや、護符の効果ではなかったかもしれない。
ルナリアは最初からやり直そうと思っていた。
セオドアに対する執着が、ルナリアが助けられたあの日から続いているのなら、ルナリアが命をかけてセオドアを守ることができたら、やりなおせるのではないかと。
あの時のルナリアを殺し、セオドアへの義理を返す。
そうすれば、この不毛で厄介で歪で愚かな想いを抱く前に戻れるのではないか。
ルナリアはやり遂げた。
セオドアへの一方的な関係性を変えることができた。
長年待ち望んでいた結末に、あるのは喜びではない。
今のルナリアにあるのは、亡くしたものへの感傷だけだった。
「ルナリア」
物思いにふけるルナリアに、セオドアが意を決したように身を乗り出した。
「俺と結婚してくれ」
セオドアの声は掠れていたが確かな意志があった。
「今すぐは無理だ。両家の問題もある。でも一年後、お前が待ってくれるなら」
ルナリアは嬉しかった。
初恋の人がこんなにも責任感が強く、優しい素敵な人だと改めて知り得たから。
恋したことは間違いではなかった。
死に行くだけの恋の、全てが悪いだけではなかったから。
「すごく嬉しい」
「ルナリア!」
「でもできない」
一瞬喜びかけたセオドアの表情が硬くなる。
「あなたにはアリア様がいる」
セオドアの息が止まった。
彼女の言葉はナイフのように正確に彼の核心を貫いていた。




