10 . 回想は因縁を物語ること
庭園の片隅で幼いルナリアが花冠を作っていると、急に影が差した。
見上げると、知らない中年の男が立っている。
「…ウィルブライト家の小娘か」
男の酒臭い息が鼻をつく。
その瞳には濁った欲望が宿っていた。
男は卑猥な笑みを浮かべながらしゃがみ込んだ。
「お前の母親は、男好きで有名だったな。よくも堂々と貴族面ができるものだ」
意味は半分もわからない。
だけれど、男の悪意はルナリアに伝わる。
全身が粟立つが、固まったように身体が動かない。
我に返り、立ち上がろうとしたルナリアの肩を男の手が掴み、強引に引き寄せようとする。
「やめて!」
ルナリアの抵抗は空しく、男の拳が頬を捉える。
衝撃で彼女は花壇に倒れ込み、口の中に血の味が広がった。
「おとなしくしろ!」
冷たい土の感触と共に、ルナリアの目に涙が溢れた。
花弁が散乱する土の上で、彼女は必死に起き上がろうとする。
しかし男の手が再び伸び、今度は喉元を鷲掴みにし、
「大人しくしてればすぐ終わるんだよ」
息ができない。
指が皮膚に食い込む感触。
視界がかすむ。
声にならない懇願が喉の奥で消える。
(誰か…)
だけれど、ルナリアは誰に助けを求めていいか分からなかった。
生みの母は自分を産んだために死に、父は母の不貞を疑っている。
継母は血の繋がらない子を憎悪し、使用人もルナリアの境遇を哀れむどころか、蔑む者たちばかり。
そんな状況だから友人すら存在しない。
ルナリアには誰もいない。
「離れろ!!」
首に絡んでいた指がわずかに緩み、ルナリアはぼんやりと目を開ける。
怒りに燃えているような赤髪が真っ先に視界に飛び込み、死にかけた衝撃からか、心臓がいつになく早く鼓動を打つ。
(…天使?)
咳き込みながらも、目を逸らせない。
まるで、炎を纏った戦いの天使のよう。
宗教画の一幕のように、ルナリアにはその天使がきらめいて見えた。
「ガキが!すっこんでろ!!」
「てめえが失せろ!」
少年の小さな拳が、男の太った腹筋に深く沈み込む。
不意を突かれた男は「ぐぅっ!」と苦悶の声を漏らし、後ずさりしたが、倍近い体格差がある相手だ。
一発では到底怯ませることはできなかった。
「このガキ…!」
逆上した男の顔が歪む。
振り上げられた拳が少年の頬を直撃し、幼い体が軽く吹き飛ばされた。
しかし、少年は即座に起き上がり、再び掴みかかる。
二人が揉み合っているうち、騒ぎを聞きつけた庭の警備兵たちが駆けつけ、事態はようやく収拾に向かった。
数人の大人たちが暴漢を取り押さえ、地面にねじ伏せる。
男はなおも抵抗していたが、多勢に無勢。
引きずられていく姿は、威嚇していた時とは別人のようにみすぼらしく見えた。
ルナリアは咳き込み、座り込んだまま、ぼんやりと少年を見上げていた。
少年は殴られた頬を押さえ、荒い呼吸を整えようと膝に手をついている。
「…大丈夫か?」
こちらを向いた少年の視線がルナリアと交錯する。
燃えるような赤髪に縁取られた顔には、泥と砂がこびりついていた。
だが、その澄んだ瞳だけは、炎のように輝いている。
ルナリアの胸が締め付けられるように苦しくなる。
セオドア・ブラックウェル。
対立関係にあるため、遠目でしか見たことがなく、会話すらしたことがない。
それなのに、ルナリアを守るために立ち向かってくれた。
普段なら決してかけられることのない優しい声色に、胸が熱くなる。
「…あ、ありがと…」
か細い声で答えるのが精一杯だった。
震える唇から零れた感謝の言葉に、セオドアは少し驚いたように眉を動かした。
いつもなら決して向けられることのない、誠実な眼差しがそこにあった。
「お前、いつもこんなところにいるのか?」
「う、うん…わたくし、花が好きで…」
ルナリアは夢心地であった。
先ほどの暴行からの現実逃避の側面もあった。
天使のような清廉さを持つ男の子に、心臓が痛くなるほど高鳴っている。
首の痛みを忘れるほど、ルナリアはセオドアに見惚れていた。
そして、次の瞬間、自分の格好がボロボロで土まみれなことに気付く。
作っていた花冠も花弁が汚らしく踏みにじられ、それがルナリア自身のように思えて、恥ずかしくなった。
「ないよりはましだろ」
肩にふわりとした重みが加わった。
セオドアは自分の上着を脱ぎ、迷いなくルナリアの肩に掛けた。
暖かい布地が肌を包み込む。
驚いて顔を上げると、セオドアのシャツはところどころ破れ、砂埃にまみれていることに気付く。
腕や膝には擦り傷が見え、頬には血痕が残っている。
「砂まみれで悪いな」
静かで穏やかな声音。
その声を聞いて、ルナリアはセオドアともっと一緒にいたい気持ちと、自分のような存在が側にいるなんて耐えきれないという気持ちで揺れた。
(わたくしのせいで、セオドア様が傷を負ったのに、嬉しいと思ってしまう…なんて醜い)
そんな二人の背後から、騒がしい足音が響いた。
「恥さらしが!」
厳しい声の主は、ウィルブライト家の後妻でルナリアの義母にあたるユリアナだった。
そして、警備兵からある程度話を聞いただろう義母から、ルナリアは容赦ない平手打ちをうける。
「ブラックウェル家の者に助けられるなんてみっともない!」
後ろから駆けつけた父親も顔を紅潮させて怒鳴る。
「ウィルブライト家の誇りを捨てたか!」
ルナリアは俯いたまま唇を噛んだ。
「止めろ!」
ルナリアを守るように立ち塞がったのはセオドアだった。
いつの間にか来ていたのか、セオドアの両親の姿も見える。
国家創立の際からの、因縁あるブラックウェルとウィルブライトが揃ってしまう。
「ブラックウェル!貴様の息子がウチの娘に触れたのか!?」
ウィルブライト公爵が詰め寄った。
「それは誤解です」
ブラックウェル侯爵夫人が前に出た。
「我が息子はこの少女が危険に晒されているのを見て」
「危険?」
公爵夫人が嘲笑う。
「まるで他人事のようですわね。知ってるのよ。ルナリアに暴行しようとしていた男が、あなたがたの野蛮な一族から出た害虫だということを」
侯爵は険しい表情で黙り込んだ。
妻が咳払いを一つして言う。
「いずれにせよ、今重要なのはルナリア嬢の容態です。我が息子が咄嗟に行動したことで命拾いしたのですから」
「恩義せがましい言い方ですこと」
「お義母様!」
ルナリアが突然声を上げる。
「セオドア様は命の恩人で」
「黙りなさい!」
義母が再び手を上げようとし、それをブラックウェル侯爵が制止した。
「我が家の醜聞は確かに償うべきですが、まずは彼女の治療が先決でしょう」
「離しなさい!」
ユリアナの甲高い叫びが響く。
セオドアがルナリアを庇うように立ちはだかった。
「もう十分だろう。彼女を休ませるべきだ」
「お前こそ立ち去れ!この娘の教育は我々の領分だ!」
ウィルブライト公爵の声が轟く。
ブラックウェル侯爵が一歩踏み出す。
「失礼ながら公爵殿。これは単なる事故ではなく、明らかな犯罪行為です。我が国の法律において」
「法だと?」
公爵が鼻で笑う。
「田舎者の家系が都合良く持ち出す道具か」
侯爵の顔が歪む。
長年秘めてきた屈辱が蘇る瞬間だった。
「お願いします…」
ルナリアは青ざめ、震えながらも、かすれた声で訴えた。
「セオドア様はわたくしを助けてくれただけなのです…」
醜い大人たちの争いに苛立ちながら、セオドアがふらつくルナリアの腰に手を回し、体を支える。
このままルナリアを医務室に連れて行ってしまおう、とセオドアが決意した時だった。
廊下の向こうから重い足音が近づいてくる。
「何の騒ぎでしょうか」
両者ともに硬直する。
現れたのは国王付きの老執事だった。
「陛下がお呼びです。両家のご当主はすぐに御前会議に出席せよとのこと」
公爵は舌打ちし、侯爵を睨みつけると歩き出した。
「覚えておくがいい。この件は終わりではない」
残されたルナリアの額には冷や汗が滲んでいた。
「…医務室へ連れて行く」
本当のところ、両家の大人たちはルナリアに興味などなかったのだろう。
セオドアは弱りきったルナリアを口実にして、相手を揺さぶろうとする大人たちのやり方の醜さに失望と苛立ちを感じていた。
答える気力もなくなり、ほとんど抱えらえた状態で、ルナリアはセオドアと共に医務室へと向かう。
医務室の扉を開くと、薬草の匂いが漂う薄暗い部屋が広がっている。
ベッドに横たわるルナリアの顔を、ランプの光が照らす。
「誰か呼んでくる」
踵を返そうとしたセオドアを、小さな手が掴んだ。
「待って、ください」
驚くセオドアの袖を握りしめたまま、ルナリアが掠れた声で呟く。
「あ、改めて言わせてください。助けてくれて、ありがとうございます」
沈黙が二人を包む。
震えながらも、健気に感謝を告げるルナリアに、セオドアの中で何かがコトリと音を立てて転がった。
熱で朦朧とする意識の中で、ルナリアは炎のように揺らめく影を見ていた。
燃えるような赤い髪、鋭い瞳。
何度もそんな幻影を見た。
四日間続いた高熱がようやく下がり始めた夜、義母は「そのまま死ねばよかったのに」と呟いた。
父は「死んだらウィルブライトを叩き潰せたかもしれないな」と笑っていた。
誰もルナリアの回復を喜んでくれなかった。
十日目の朝、窓辺で微かな鳥のさえずりを聴きながら、ルナリアは窓から庭の花壇を眺めていた。
摘まれずに枯れた花が寂しそうに揺れている。
あの日の恐怖が蘇りそうで、思わず目を閉じた。
(…セオドア様の上着)
セオドアから掛けられた上着は、その日に取り上げられ、おそらく処分されたのであろう。
ルナリアはそれを止める事も出来ず、ただただ無力な己が憎かった。
物思いにふけるルナリアを遮るような大きい音を立てて、ノックもせずに侍女が部屋の中に入ってくる。
いつものことに驚きもしないが、その手には珍しくくしゃくしゃの紙切れが握られていた。
「男からの手紙ですよ。子どものくせによくやりますね。さすが、淫売の子は淫売」
そう言い残すと侍女は舌打ちして去っていった。
ルナリアは震える指で封筒を破り、便箋を取り出した。
そこには短く、簡素な文章が並んでいた。
『大丈夫か?怪我は治ったか?
余計なことは言うなと言われてるから多くは書かない。
ただ一言。
お前は悪くない。
あいつの本性を見抜けなかったのは俺たち一族の恥だ』
最初の一文で、ルナリアの心臓が強く跳ねた。
セオドアの筆跡は硬く、迷いがなかった。
『お前は悪くない』という一行が、長い間押し潰されていた自尊心をゆっくりと解きほぐしていく。
窓から射す光がインクの滲みを照らし、文字が揺れるように見えた。
ルナリアは手紙を胸に抱きしめた。
生まれて初めて感じる、温かな安堵感だった。
何度も何度も繰り返し手紙を読んでいると再び侍女がやってくる。
今度は別の人間だったが、ルナリアに対する態度は変わらない。
「旦那様がお呼びです」
ルナリアの心臓が跳ねた。
父の書斎ではもう何度目かの家族会議が開かれている。
あの事件以来、家族の態度はさらに硬化していた。
「失礼いたします」
書斎に入るなり、ルナリアの目に飛び込んできたのは大量の資料だった。
すべてブラックウェル家の悪行を並べた書類ばかり。
「見ろ、ルナリア」
どこか自慢げに父は彼女の肩に手を置く。
骨ばった手が痛いほど力を込めてくる。
「お前は危ないところだったんだ。あの一族に関わるとろくなことはない」
「…はい」
「お前があの少年に感謝する必要なんてないのよ?ブラックウェル家との交易を停止させるには格好の材料を得たわ」
笑う義母とギラついている父に、熱で火照った体のはずの、ルナリアの心がどんどん冷えていく。
書斎を辞したあと、自室に戻り手紙をもう一度取り出した。
ルナリアは何度も何度も読み返した手紙を胸に抱きしめながら、その日も休息のための眠りについた。
熱がすっかり下がり、腫れの残る頬と紫に変色した首筋が目立たなくなる頃、ようやくルナリアは学院に戻ることになった。
一刻も早く、家を出たかったルナリアは学院に再び通えることを喜び、その日のうちに学院を訪れていた。
初等部に向かう最中、セオドアと廊下ですれ違う。
セオドアは視線も合わさずに通り過ぎた。
制服には一つの汚れもない。
(ああ…やっぱり)
数日前、噂好きの侍女が囁いていた。
『セオドア様はあの日の朝から徹底的に洗濯させられていましたよ。ウィルブライト家の娘に汚れなんてつけられないようにね』
ルナリアの胸が痛んだ。
表向きはわからなくても、見えないところで彼も苦しんでいる。
わたくしのせいで。
「セオドア様」
思わず声をかけてしまった。
セオドアは足を止め、肩越しに振り返った。
その表情はいつも通りの仏頂面だ。
「あ、あの、わたくし」
「ん」
戸惑うルナリアに、セオドアがポケットから何かを取り出し、ルナリアに押し付ける。
押しの強さに思わず受け取るルナリア。
「護符?」
ルナリアの胸が高鳴った。
護符を裏返すと細かい文字が刻まれている。
ところどころ、線がガタついているが、効果はしっかり付与されているように見えた。
「これ、どうなさったの?」
驚くルナリアにセオドアはただ一言。
「やる」
「えっ?なぜ?わたくしに?」
「牢にぶち込んだが、あのゴミは確かにブラックウェルの血が入っている。だから、謝罪もこめて」
「助けてくださったのは、セオドア様なのに」
「気に入らないなら捨てろ」
「捨てるわけないわ!」
ルナリアは反射的に叫んでしまった。
そんな自分の必死さに驚きながらも赤面し、
「ありがとう…すごく嬉しい」
赤く色付く微笑みにセオドアの顔が一瞬輝いたように見えた。
しかし次の瞬間、厳しい表情に戻る。
「じゃあな、ウィルブライト」
その切り替わりに切なく、胸を痛めながらもルナリアも2人の立場をわかっていた。
「…ええ、ブラックウェル」
去っていく背中を見送りながら、ルナリアは護符を握りしめた。
時間帯のせいか、セオドアがタイミングを見計らったのか、人気のない廊下だが、それでもやはり生徒たちは通り過ぎていく。
そして、ウィルブライトとブラックウェルのあることないことが、早ければ今日にも噂されるのであろう。
両者の関係は、どちらも権力を持つ故に、一挙一動注目され、些細なことですら、両家の耳に入ってしまう。
だから子どもとはいえ、見られて困る行動はできない。
まして、2人が仲良く話そうなどと論外である。
ただそれをルナリアは寂しく、悲しいことだと感じる。
二人はそのまま別れたが、その後も時折、互いの姿を目で追うようになった。
表面上は冷たい態度を取り続けながらも、セオドアはルナリアが危険な状況にあると必ず助けに現れた。
気づけばいつも彼の影がそばにあった。
ルナリアはそんな彼がずっと。
セオドアのことをずっと。
誰よりも何にも代え難いと。




