話すことの出来ない彼女
***話すことの出来ない彼女***
地味で大人しく、誰の中にも入ること無く窓際の席でいつも一人、窓から外を眺める子がいた。
彼女は冨喜摩 美野里
クラスの女子から話しかけられても、彼女はただ頷くだけ。彼女の返事は頷くこと。
そう、彼女は話すことが出来ない。
どうしても、相手に伝えなければいけない事は、彼女がいつも持ち歩くノートに書いて相手に伝える。
それは、伝えられる方にも、伝える方にとっても労力のいる事だった。
だから周りの子は、だれも話しかけようとはしなかった。
「大変だから」
そして彼女もそれを痛いほど感じていた。
今日の授業終了のチャイムが鳴る。
「起立、礼」
にわかに教室が束縛されていた空気から解き放たれる。
部活に勤しむ者、帰宅部として学校からいち早く出て行こうとする者。それぞれ赴く方向へ動いていく。
ふと窓際の席を見ると、一つの席が既に空になっていた。いつもそうだ、チャイムが鳴ると同時にそこの席の主は、目を盗むように居なくなる。誰もそれを不思議と思わない。
彼女だから……
でも僕は、彼女の行先を知っている。
それは……
僕は小説を書いている。僕が小説を書き始めておよそ1年になる。
書く小説は、始めはフェンタジー系と言われるジャンルを書いていたが、続かなかった。
異世界だの、人が他の生物に変異したりするのに、僕の思考はことごとく追いついていなかった。
そもそも、異世界の世界となるステージは霊界であったり、人が変異すればそれは化け物で、ステージに合わせると幽霊になってしまう。挙句の果てはファンタジー小説を書いたつもりが、ホラー小説に早変わりしている有様だった。
そんな短編、中編小説が数点。自分でもあまり読み返す気にもなれなかった。
それもそのはず、今まで僕が読んでいた小説やアニメなんかは異世界が舞台となるストーリーばかりだったからだ。
それでも、ネタ探しはいつもしていた。
無論、図書館の常連であることは言うまでもない。そこに彼女は、いつもいた。
学校が終わり、いつも電車を途中下車して行く、学校から少し離れた図書館。
僕のいる市は大きく東と西に区別されている。いつも利用するのは西区図書館。
帰る途中の駅にあるのと、東区図書館より本が充実しているからだ。
小説を書き始めた頃から通い始めた図書館。実はその時から美野里が図書館にいつもいるのを知っていた。
僕が美野里に話しかけたのは、それから一年と少しを過ぎた頃だった。
いつもの様に図書館の自動ドアをくぐり、すぐに本棚に目をやり本を検索する。
適当に見繕って机に座ると、低い本棚の向こうに美野里の姿が目に入った。いつもなら、何も気にせず本に視線を注ぐのだが、今日の美野里はちょっといつもと違っていた。
違っていたと言っても、外見はいつもの地味な感じの美野里、でも何か雰囲気が違っていた。特に彼女の手元。
しかし、間を挟むようにしてある低い本棚が邪魔で、肝心の彼女の手元が見えない。
何か気になる。
そうしているうちに彼女はすっと立ち上がり席を立った。机の上をそのままにして。
どうしても、気になった。良くないことは知っている。でも自然と彼女のいなくなった机に足が動いていた。
そこには一冊の本と、ピンク色の小型のノートパソコン(いわゆるモバイルノートパソコンと言われるやつだ)が置かれてあった。
そして、縦書きで文章が綴ってあった。
ここまでする事自体良くないことは解っている。
そしてその綴られた文章を読む事は、もっと悪いことだと言う事も……
その画面の文字を読んだ。その文章を読んだ。読むごとに惹き込まれていく。スクロールして続きを読む。止まらない。どうしても続きが読みたくなる。
ゴン。思いっきり背中を叩かれた。
振り返ると、そこには物凄い凝そうの目をした美野里が立っていた。肩を震わせながら拳を握りしめていた。
「ご、ごめん。勝手に見て」
「あ、があうくあが……」
声にならない、言葉にならないされど、怒りの声が僕を貫く。
彼女は僕を押しのけ席に座る。そしてものすごい速さでタイプする。
「もう、どこかに消えて」
今まで訊いた事のない彼女の声。普通に彼女が放つ声に訊こえた。
自分の部屋のベッドで、焦点が合わないまま、ボーと天井を見ていた。
「あれは小説だ。どう考えても小説だ。でも凄かった。惹き込まれた。ものすごく、物凄く」
美野里のモバイルパソコンにあった小説。黙って読んだことは、決してやってはいけない事だった。でも、それよりも彼女美野里が描いた世界に僕は惹き込まれていった。
彼女も小説を書いていたんだ。そんな親しい気持ちなんか一瞬で吹っ飛んでしまった。
だれとも馴染まず、誰とも関わらないように生きている美野里。彼女は話す事が出来ない、だからそうしている。
いや、違う。美野里は関わっていた。クラスのみんなと、それよりも多くの人達と、話していたんだ。
そうでなければ描けない。
彼女の心のなかで……彼女の想いを
僕は彼女の心の中を覗いてしまった。
何も包んでいない、純真な彼女の心の中を
「あやまろう。どんなことをしても謝ろう」
もしかしたら、美野里は許してくれないかもしれない。多分、許さないだろう。同じ事をされれば僕も同じだから。
でも謝る。どんなに時間が掛かろうとも、僕の意地をかけて……
美野里は次の日学校を休んだ。次の日も、そしてその次の日も。図書館にも来ていなかった。
「はぁ、冨喜摩の住所だと」
「はい、どうしても知りたいんです」
「どうしてもと言われても個人情報だからな」
「そこを何とか、お願いします」
担任は腕を組み困り果てていた。
3日も学校を休んで、図書館にも来ていない。クラスの子達には親しい友達はいなかった。
美野里の事を訊こうにも、誰も美野里の事は知らない。後は最後の手段、担任に訊くしか方法が思いつかなかった。
「そこを何とかと言われてもなぁ。お前、冨喜摩にどんな用事があるんだ」
どんな用事。彼女の小説を盗み見したから謝りたい。
そんなことは口が裂けても言えない。
とっさに出た言い訳は
「冨喜摩に借りたものを返さなきゃいけないんです。早急に……」
「借りたものだと。お前、冨喜摩とそんなに中が良かったのか」
担任は、じろっと僕を仰ぎ見て
「駄目だ、駄目だ。問題が起きてからじゃ遅い。それに俺の責任問題になりかねん」
「そんなぁ」
僕の申し出は担任に蹴り飛ばされてしまった。
項垂れる僕に後ろから
「亜咲君、お話しは終わった?」
声を掛けて来たのは養護教諭の町田先生だった。
町田先生は、まだ二十代のこの学校では、一番若くて美人と男子の間でも人気の高い先生だった。
「ちょっと手伝ってほしいの。これを一緒に保健室まで持ってくれたら嬉しいなって」
手渡されたのは、いずれ生徒に配布されるであろうと思われる印刷物だった。
保健室に入ると、町田先生は扉を閉めベッドの方に目を向け生徒がいないか確かめてから
「ありがとう亜咲君。それそこに置いておいていいわ」
「あ、はい」
束になる印刷物を机に置き、そのまま保健室を出ようとすると、町田先生はふう、と吐息をついて
「ごめん、亜咲君。もう一つお願い訊いてもらえるかな」
「え、なんですか」
僕が答えると町田先生は白衣のポケットから可愛いデザインのレター封筒を指し出した。一瞬、ラブレターかと思いドキッとしたのは、御多訊に洩れず一塊の男子生徒であるからだ。
「実話ねこの手紙冨喜摩さんに届けてもらえればなぁって。彼女3日も学校休んでいるでしょ。ちょっと心配になってお手紙書いたの。帰りに寄って来ようと思ってたんだけど、ちょっと用事が出来ちゃってね。亜咲君が代わりに届けてくれたら助かるんだけどなぁ」
その封筒を受け取ると、裏に住所が書いてあった。
僕は、白衣が良く似合う町田先生を見て
「先生」とだけ一言言葉にした
「うふふ、これは私の友達に個人的に出す手紙。だから個人情報満載の手紙よ、亜咲君あなたを信頼して頼むんだから、責任もって届けてくださいね」
笑顔で僕は「はい」と答え、制服のブレザーにしっかりとしまい込んだ。
「先生ありがとうございます」と会釈をして保健室を出た。
「んんん、青春青春。若いっていいねぇ亜咲君頑張れぇ」そういって町田先生はにこやかに僕を保健室から見送ってくれた。
捨てる神あれば拾う神あり。それはまさにこの事だ。思いがけず町田先生から美野里の住所を知ることが出来た。
だが、問題はこれからだ。
どうやって美野里に許してもらおう。そのことで頭が一杯だった。
美野里の家は僕らが通う図書館がある町だった。
住所を頼りに美野里の家を探す。
「確かこの辺りなんだけどなぁ」
迷いながらも探し当てたのは、駅から少し離れた3階建てのマンションだった。
3ー2冨喜摩の住所。階段を昇り目当てのドアの前で一瞬立ち竦む。その厚いドアが今の僕にとっては何重もの分厚いドアのように感じる。
震える指でインターフォンのボタンを押す。何も返事がない。もう一度押す……しばらく待つが返事はない。これが最後と思いボタンを押す。だが返事はなかった。すでに手も顔も汗が滴っていた。
留守の様だった。
「日を改めよう」仕方なく元来た道を戻る事にした。太陽の日差しが次第に弱さを感じさせ、オレンジ色の光へとその姿を変えていった。
ふと、前に目をやると来る時には気が付かなかった公園の入り口が目に入る。引かれる様にその公園に入ると、目の前に広がる芝生に少し先にある人工的な丘。その手前に噴水があり、それを囲むように伸びる遊歩道が伸びていた。
そして、噴水の横にオレンジ色の光に照らされながらベンチに座る人影を見た。
美野里だ。
僕は遊歩道を歩き美野里に近づく。
美野里は人の気配を感じその方に顔を向ける。
それが僕だと解った瞬間立ち上がった。
「冨喜摩、」
僕が彼女を呼ぶか呼ばないかの隙に逃げる様に立ち去ろうとした。
それを僕は大声で
「富喜摩」
彼女は足を止めた。そして振り返り
「あがうがうが」何かを話した。
それは言葉にならなくても、彼女の僕に対する怪訝な怒りの言葉だと解った。
「ごめん、冨喜摩。あの時僕はやってはいけない事をしてしまった。君の書いた小説を無断で読んでしまった。言い訳になるけど、何かをしようと思って見たんじゃない。僕も小説を書いているから、あれに映った文章が気になって思わず読んでしまった」
頭を深く下げ、目をつむり、言葉を放つ。その時の美野里の表情は見る事は出来ない。ただ何も発せず無言で僕の言葉を訊いていた。
「冨喜摩の気持ちは解る。僕だって黙って自分の書いた小説を読まれると嫌だ。僕はそれをやってしまった。僕は君を傷付けてしまった。済まない冨喜摩。許してくれ……」
更に頭を下げ両手をきつく握りしめ、その手を震わせていた。
ザー、ザー、噴水から訊こえる水音だけが二人の耳に訊こえていた。
僕は黙って頭を下げていた。
不意に彼女の手が僕の肩に乗る
ゆっくりと頭を上げる。
そこには、少しはにかんだ美野里の顔があった。
彼女は手で僕にベンチに座るように動かす。
鞄からあのモバイルパソコンを取り出し、日の様子を見てからイヤホンを僕に渡した。
美野里はイヤホンを耳に付けるように促す。すると
「もう、いいよ」
イヤホンから声が訊こえる。(読み上げソフトというものらしい)
少したどたどしい所があるが十分に言葉として訊く事が出来た。
僕は彼女の顔を見て
「本当に」と訊く
美野里は小さく頷いた。
続いてまたタイプして
「初めは怒ってたけど今は怒ってない、恥ずかしかっただけ。それに、私も同罪だから」
「同罪」
「うん、亜咲君小説書いてたノート落としてたから読んじゃった。ごめん。亜咲君も小説書いているなんてびっくりしたよ」
笑うしかない。ある日、そのノートを失くした事は覚えている。自分の部屋で必死に探したけれど見つからず、次の日学校の机の中で見つけた。てっきり置き忘れたんだと思っていたが、美野里がこっそり戻していたなんて
「だから、同罪。ごめんなさい」
彼女は立って僕に頭を下げた。
「でも、嬉しかった、なんか同じ人が近くにいて……」
美野里はモバイルノートに向かいタイプする。それが僕の耳に音声として訊こえてくる。
時折間があるが、二人で声を出して話しているようだった。
「いやぁ、僕の方こそいいよそんな事」
少し照れながら頭を掻いた。
そして美野里の方を向いて
「冨喜摩、君の小説が読みたい」
彼女は顔を上げ僕を見た
「初めてだったよ、あれだけ惹き込まれた小説は。僕は始まりから君の書く小説を読んでみたい」
真剣に彼女に訴えた。
またイヤホンから声がする。
「そんなぁ、ダメだよ。褒めたって駄目。第一亜咲君も小説書いてるんだもん、恥ずかしいよ」
「褒めてる訳じゃないんだ、僕の素直な気持ちなんだ 。それに僕の書く小説より冨喜摩の書く小説の方が断然いい」
「またそう言って褒めてるじゃない……」
押し問答の末、美野里はようやく降りた。
「んもう、まだ途中なんだよこれ、本当にいいの」
「うん、ほんとに読みたい」
「じゃ、図書館でね」
「うん、ありがとう」
そして町田先生から預かった手紙を思い出し、彼女に手渡した。
美野里はその封筒の裏面に住所が書かれているのを見て、ふっと微笑んだ。
町田先生が、僕に助け船を出した事を彼女は解っている様だった。
美野里は次の週には小説を読ませてくれた。
「はいどうぞ、ちゃちゃって読んで」
今日はノートに殴り書きの様に書いて僕に話す。
「それでは読ませていただきます」
一言言って美野里の描く世界へと入っていた。
あの時と同じだ。読むごとに惹き込まれていく、次へ、次へ、スクロールするのがもどがしいくらいだ。
物語の中で主人公は山あり谷ありの人生を送る。その場面ごとに笑ったり泣いたり、はたまた意味も分からずぶち切れたり喜怒哀楽が面白い。
後半になるにつれ物語は急展開を見せ始める。その切り替えも絶妙で、気が付いたら既にシリアスモードに突入していた。
そしてこの物語が実は恋愛ストーリーである事が明らかになる。
「人は生きるために人を愛し、愛は人を生かす為に存在する」
この言葉が物凄く胸に響いた。
物語はちょうどいいところで途切れていた。
「ね、どうだった」
美野里は殴り書きしたノートを僕の顔に押し付ける。
「ちょっと、それじゃ見えない答えられない」
「んもう」と言う表情をしてノートを離す。
僕は美野里の目を見て
「とっても面白かった。特に主人公の表情がとっても豊かで読んでて空きがこない。それにこれ恋愛小説だったんだ物凄く良かった。この主人公まるで冨喜摩の様に思えたよ」
美野里は、ノートを見開き大きく開いて殴り書いた。
「ばか」
彼女の顔は真っ赤だったけど、その顔はとても素敵だった。僕は恋をしてしまったようだ。
冨喜摩美野里が描く世界と、彼女本人に……
それから僕らはメアドを交換した。
僕はそれからも図書館に通い詰めていた。それも彼女も同じだった。そしていつの間にか一緒に本を探し、席を同じくして周りに迷惑にならない様に話をした。もっとも彼女の方は筆談である事は言うまでもない。
そして僕らは、ある事がきっかけで急速にお互いを意識し合うようになった。それはクラスの奴が僕にちょっかいをかけた事から始まった。
「おい、亜咲ぃ。昨日俺見てはいけないも見てしまったんだよ」
話しかけてきた奴はニタニタとしながら僕の後ろから話しかけてきた。
「なんだようそれは」
「いやぁ、何ね。昨日ちょっと用事があって図書館の前を通ったんだよ。そしたらお前ら二人仲睦まじそうに図書館から出てくるじゃないか。冨喜摩とよう。俺、目ぇ疑ったぜぇ。あんな声無地味ツンが好きだなんてな」
声無地味ツン。僕は一気に血が頭に上がるのを感じた。
ガダン。もう、その瞬間にそいつをぶん殴っていた。
そいつは僕の胸ぐらをつかみ
「な、何だてめぇやろうってんのか」
そいつの拳が飛んできた。
体が床に倒れ込んだ。
立ち上がりながら
「冨喜摩を好きになって何で悪い。冨喜摩は声無なんかじゃない。俺は彼女の声をいつも訊いている。そんな彼女が俺は好きだ。お前に冨喜摩の気持ちが分かるか」
もう一発ぶん殴ろうとした時、教室のドアが開いた。
「何騒いでいるんだ。早く席に着きなさい」
担任がホームルームの為教室へやってきた。
そして僕ら二人を見て
「お前ら何やってんだ。早く座れ」
担任は激を飛ばし僕らを座らせた。
まだ顔が熱い、体は小刻みに震えている。殴られた頬はズキンと痛みを増していた。
ホームルームが終わってから、クラスの奴らにわんやわんや言われたが、もう一人の相手、冨喜摩の姿はもうなかった。
すぐに図書館にも行った。でも、美野里の姿はなかった。
携帯を取り出し美野里にメールを送信した。
***亜咲達哉
さっきはあんな事なってごめん。図書館にもいないけど今何処
***
美野里から返信が来た。
***冨喜摩美野里
公園。あんな事言われたら、亜咲君の顔見れないよ
***
すぐさま公園に向かった
そこには、あの時と同じベンチに座る美野里の姿があった。
「冨喜摩」静かに声を掛けた。
彼女はゆっくり顔を上げる。その顔はつい今しがたまで泣いていたことが解る赤い目をしていた。
「冨喜摩ごめん。また傷つけてしまった」
彼女は下を俯き黙っている。
「でも、あの時言った事は本当の事。あんな形で冨喜摩に伝えるつもりはなかったんだ」
彼女は鞄からノートを取り出し
「嘘つき」
見開きに大きく書いた。
「う、嘘なもんか」
僕が否定すると、彼女はさらに
「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき……」
ノートいっぱいに書き始めた。
「嘘つき、嘘つき……」
美野里の手が止まる。
次の瞬間、自分に何が起きたか解らないままに目を見開いた。
自分の目の前に僕の顔があり、自分の唇に僕の唇が触れている事を
そおうと、彼女の唇から僕は離れた。
始め何が起こったか信じられないようにぼーとしていたが、ようやく理解出来たんだろう。美野里は顔を真っかにして「あうがうがう」と慌てふためいた。
そんな彼女を僕は抱きしめた。そして
「嘘なんかじゃない。僕は君が……好きだ」
彼女の耳元で囁いた。
彼女の強張った体が次第に柔らかくなっていった。そして、僕の背中に手をやり
「私も」と書いてくれた。僕は美野里を強く抱きしめた。
噴水から出る水しぶきが、空の青さを映し出している。
もうじき、夏がやってくる。
あれから僕らは、クラス公認の仲になっていた。
何せクラス全員の前で僕は告白してしまったんだから。
だと言って特別べたべたする様な事はしなかった。そして、彼女も少しづつ変わって行った。
後ろで編んでいた三つ編みを解き髪を流した。
その髪は背中まであって、彼女の雰囲気が一新した。掛けていたメガネをコンタクトにしたのも大きな要因だろう。
つまり、見違えるほどの美人になったと言う事だ。
クラスの男子どものみならず、校内に居る男子の注目の的になったていた。
美野里の友達でもある養護教諭の町田先生は、美野里を微笑ましく見守っている。
「よかったね美野里ちゃん。彼氏できて」何て言ってくれたことを、僕は彼女から訊いていた。
でも、僕らの向かうところは図書館、そしてあの公園が一番の場所だった。
そして共に小説を書くと言う事に力を注いでいた。
それでも僕らは幸せに暮らしていた。
ある日僕らはいつもの公園であのベンチに座って各々の小説を読み返していた。
突如に雲行きが怪しくなり、辺り一面真っ暗になった。次の瞬間、大粒の雨が滝のように落ち始めた。
「うわ、雨だ」
二人共慌てて走り出した。美野里のマンションは公園からすぐそこ、目と鼻の先だ。ひとまずマンションに行くことにした。
マンションにたどり着いたころには、既に二人共プールにでも洋服ごと入った様にずぶ濡れになっていた。
「あががう」美野里が指を指し家に来るように言った。でもこんなずぶ濡れで彼女の家に上がるのは気が引けた。
「あがうがう」でも彼女は僕の手を握り、半ば強引に僕を家へ押し入れた。
すぐさまバスタをルを持ってきて、体を拭くように手を動かす。そして拭いたら中に入れと。
今度は小さめのホワイトボードを持ってきて
「服乾かすからシャワー浴びて」
「ええ、そんなぁ」
「いいから早く」
押し切られるようにシャワールームに入る。
ばたんと戸を閉められ、僕が脱ぐのを待っている。
シャワーの音を確認するように美野里は汚れた服を乾燥機に入れた。
出るとそこには着替えが用意されていた。
男もんのトランクスにジャージにシャツ。多分父親のものだろう。かなり気が引けたが、この後にお病んで引くことは出来なかった。
そして美野里は指で指す方の部屋に入る様に動かす。大方自分もシャワーを浴びるからだろう。
示された部屋に入ると、一目で解る女の子の部屋模様。美野里の部屋だった。
初めて入る美野里の部屋。一歩踏み入れた時から鼻を霞める優しい香り。緊張しながら美野里が来るのを待っていた。
しばらくして、ドアが開いた。
そこには、トレーにジュースとお菓子を乗せ、短パンにティシャツ首にはタオルをかけ部屋に入る美野里がいた。髪はまだ濡れていた。
手元にあったホワイトボードに「どーぞ」と書き、手を添えて飲み物を勧めてくれた。
「あ、ありがとう」とグラスを取るが、正直目のやり場がない。当の美野里は片足を立て、首に掛けていたタオルでまだ乾ききらない髪を拭いている。
その姿は、健全な高校男子にとってかなりの毒である事は確かな事だ。しかも後ろ髪を拭きながら腕を上げるしぐさをすると着ているティシャツが張り、彼女の胸に現れる突起が、何も付けていないことを証明していた。
ふっと彼女が僕を見て、また何かを書きだした。
「服乾くまで時間あるからここで執筆しましょ」
この状況で執筆するのは酷と言うものだが、選択の余地はなかった。自分の理性が持つことを願うばかりだ。
しかし意外にも、小説を書いていると気がまぎれるものだと感じた。
言い回しの語句に詰まり、見上げた先の本棚の上に辞典があるのを見つけ
「あの辞典借りてもいいかな」と指さし美野里に訊いた。彼女は頷いて返事をしたので立ち上がり本棚の一番上にある辞典を取ろうとした。それと同時に美野里も立ち上がり、僕とぶつかった。そしてバランスを崩し倒れそうになる美野里を抱き抱えた。
僕の体を彼女の柔らかい香りが包み込む。僕の心臓の鼓動が早くなる。それを彼女も感じていた。彼女はスッと体の力を抜き静かに目を閉じた。
柔らかい唇が重なり合う。
静かにそして段々と激しく。
お互いの息遣いが激しさを増す。
段々と頭のなかが真っ白になる。彼女の香りがその肌から香る。
柔らかい、柔らかい。彼女に触れる。とても柔らかくとても暖かい。
彼女の声が漏れる。片言の。
そして激しく一つの光を見つめ合う。
微睡みの中、彼女を優しく引き寄せた。
外はまだ、雨が激しく降っていた。
夏が過ぎ、その余韻を惜しむように秋が深まる。心を刺すような風とは裏腹に、暖かい感情が宿う冬の季節が来た。
もう、この頃にはお互いの家を当たり前の様に行き来する仲になっていた。当然、お互いの親も僕らのことを知っている。僕の姉も、「疎いあんたがねぇ」と言いながらも美野里とは大の仲良しだ。彼女の母親も僕の事をいつも歓迎してくれた。最も、共働きで忙しい彼女の親と合うのはあまり無かったのだが……
美野里はクリスマスのプレゼントにある本を僕にくれた。綺麗にラッピングをしてリボンまで付けてあった。
そして、一枚のメモが添えてある。
「達哉の作家人生に」と一言だけ書き添えてあった。
それは一つの切なく悲しいラブストーリーだった。
後で訊いたが、この本を描く作家は、美野里が崇拝するほど好きな作家だった。だからだろう。彼女の描く小説に似ていた。いやそれを言うならば、美野里が真似ていたのだろう。好きな言葉や言い回しなどを。
ある日この本を読んだ僕に美野里は
「達哉、恋愛小説書いてみない」と言ってきた。
「ええ、恋愛小説。む、無理だよ」
「いいから、短編でいいから出来たら読ませてね」
美野里は断る僕を押し切り、半ば強制的に恋愛小説を書かせた。
それからと言うもの、編集担当にダメ出しを食らう作家の様に「んん、まだまだね」「没」と一言で返されたり「ホント、相手の気持ち解ってないねぇ」などとダメ出しばかり食らっていた。
そんな美野里も、自分が崇拝するあの作家から脱っせようと苦しんでいた。
「ああ、やっぱ今まで真似ていたのが行けなかったわ。どうしても抜け切れない」
「そんなことないよ。だいぶ感じが変わってきたよ」
そんな僕に美野里は
「だいぶじゃダメなの。私が私じゃなきゃ行けないの」
そんな事を言いながら「まだまだ」と言って僕の原稿を突っ返す。
僕らも高校最後の年になり、大学受験というもう一つの目標に向かわなければ行けなかった。
「なぁ、美野里。お前どこの大学受けるんだ。いい加減白状しろよ」
夏休みも終わろうとしている頃、すでに進学メンバーは自分の志望校を決めていた。でも美野里に何度訊いても帰ってくる返事は
「まだ決めていない」こればかりだった。
出来ることなら、美野里と同じ大学に行ければ、もし違ったとしてもお互い近くであればいつでも会える。もしかしたら一緒に暮らせるかもしれない。そんな淡い想いを抱いていた。
僕は、美野里とこれからもずっと一緒に……
そんな想いは突如引き裂かれた。
夏休みもあと数日となったある日、美野里からメールが来た。
***冨喜摩美野里
達哉、風邪引いたみたい。体調悪いから今度は学校で会いましょ。
***
その時は、なぁんだと軽い気持ちで返信をした。
***亜咲達哉
腹出して寝てたんだろ。解ったしっかり治せ。
***
そうやって返信をした。
そして夏休みが終わる2日前。美野里からメールが来た。
***冨喜摩美野里
公園に来て
***
ただ「公園に来て」とだけの
急いで行くと美野里はいつものベンチに座っていた。
「美野里、外出て大丈夫なのか」
美野里は俯きながら小さく頷く。
「どうしたんだ」
美野里は鞄からモバイルノートを取り出し、イヤホンを僕に渡した。
イヤホンを耳に付けると
「達哉、ごめん。……別れよ」
一瞬耳を疑った。
「どうして、どうして美野里」
美野里はタイプをする。
「私、北海道に行くの。お父さんの転勤もあって……」
「北海道?どうして、どうして黙っていたの」
「い、言えなかった」
「でも僕ら高校を卒業すれば、大学生だ。そうすれば、そうすれば……」
「ううん、私も北海道の大学に行くの。もう行く大学も決めているの」
「そ、そんな勝手だよ」
「うん、私の勝手。ごめん達哉」
「ご、めん……な……さ……い」
美野里は僕に抱き付き大声で泣いた。声にならない声で、何度も込み上げる嗚咽が彼女を苦しめながら。
葉が擦れあう音がする。いつもの噴水は止まっていた。
彼女を呼ぶクラクションが鳴った。
美野里は僕に一枚のレター封筒を手渡し、彼女を呼ぶ車に向かう。
その時、美野里は一度も振り返らなかった。
美野里を乗せた車は静かに動き出す。成す術がなく、ただ立ち竦む僕を置いて……
亜咲達哉 様
ごめんなさい。今まで黙っていて。
ありがとう、いつも一人だった私と一緒にいてくれて
地味で誰とも関わらない様に生きていた私を、表の舞台に上げてくれた。
話す事の出来ない私を達哉は、こんなにも愛してくれた。
私にとって一生の思い出。
達哉、私もあなたの事を愛しています。達哉に負けないくらい。
私は達哉を愛しています。
でも、あなたはこれから今以上に明るい、輝ける舞台に立てる人です。
私はあなたの重荷にはなりたくない。
達哉、あなたが描く小説。あなたの言葉、あなたの想い、全てが今、そしてこれから生き様としている。
あなたは何も感じていないでしょ。だって達哉は恋愛にとても疎いもの。
あなたの描く恋愛小説。
私は好きです。
あなたの描く一文字一文字、そしてあなたが描く世界。
私は好きです。そして、多くの人があなたの描く世界を好きになるはずです。
私は、あなたの思い出を胸に、将来作家になることを目指します。
もし、私の小説が書籍化されたら読んでくださいね。貴方に負けないくらい成長した私の姿を……
達哉、ありがとう。私に夢と目標を与えてくれた人。
亜咲達哉へ。
冨喜摩美野里。
その後、彼女からの連絡はなかった。そして、僕も連絡はしなかった。
僕はこの時、誓った。
作家になると。
そして、反対を押し切り、志望大学を変えた。
文系の大学へ
彼女、冨喜摩 美野里の本が書店に並んだのは、僕が一年遅れて大学を卒業する頃だった。
「私に声をくれた人」第○○回○○○賞受賞 冨喜摩 美野里 「初めて出した彼女の声は 天使の囁きだった」
初めて美野里が自分の声を出した瞬間だった。




