第6章 記録の戻る先
人は、自分が知らなかったことで守られているときがある。
見ていなかったから、判断しなくていい。知らされていなかったから、責任を持たなくていい。会社という組織は、その「知らなかった」をきれいに並べるのがうまい。誰がどこまで把握していたかを曖昧にし、全体としては残念な出来事だった、という形へ収めていく。
だが、藤倉直哉の私的業務日誌は、その並びに留まれない。
灰色の箱から日誌を確認したあと、黒崎たちは再び東西化成工業を訪れた。今度は滝口だけではなく、会社側顧問弁護士の御厨誠司も同席している。黒崎たちの側には城戸も入り、杉本も記録担当として席についた。
応接室に入ったとき、前回より空気が静かだったのは、誰もがすでに“単なる遺品確認ではない”と理解しているからだろう。
御厨は五十代前半、痩せた体つきで、紺のスーツの襟元まできっちり整えていた。顔立ちは穏やかだったが、その穏やかさは人を安心させるためのものではなく、自分の感情を相手に見せないための穏やかさに見えた。
「初めまして。顧問を務めております御厨です」
名刺交換のあと、全員が席につく。提携弁護士と会社側顧問弁護士が向かい合う形になったが、最初に口を開いたのは黒崎だった。
「先日確認された私的業務日誌について、扱いを整理するために伺いました」
御厨は頷いた。
「状況は滝口さんから聞いています。正直、会社としても予想していなかった性質の記録でした」
「まず確認させてください」
黒崎は言った。
「あの日誌は、未開封のレターパックに入った状態で、藤倉直哉さんの保管物から見つかりました。開封の過程は、御社同席のもとで記録しています。そのうえで、会社としては今回初めて存在と内容を把握した。そういう理解でよろしいですか」
御厨は一瞬だけ滝口へ視線を向けてから答えた。
「はい。少なくとも、私どもは今回初めて把握しました」
滝口も低く続ける。
「総務としても、保留保管物の中にああした記録があるとは認識していませんでした」
黒崎はその“少なくとも”をそのまま通した。会社としてどこまでが本当に未知だったかを、この場で証明し合うことに意味はない。重要なのは、今はもう知っているということだ。
「会社としては、この記録を今後も“未確認の保留物”として扱うつもりはありませんね」
城戸が静かな声で入る。
御厨は即答した。
「そのような扱いはできないと考えています」
「つまり、会社の認識は変わった」
「はい」
そこで初めて、滝口が視線を下げた。前回までの彼なら、“状況に応じて適切に判断する”のような言い方をしただろう。今はそれができない。自分でページを開き、中身を読んでしまったからだ。
「石塚さんにも共有していますか」
水瀬が尋ねると、滝口が答えた。
「概要は。全文はまだ見せていません」
「見せる予定はありますか」
黒崎が尋ねると、御厨が代わりに言った。
「必要な範囲で、です。現場側の受け止め方まで含めて、慎重に整理する必要がありますので」
その言い方に、城戸がわずかに目を細める。
「感情論として、ですか」
「現場に近い人間ほど、自分の記憶や罪悪感を混ぜてしまいます。今はまず、記録の位置づけを整理する段階です」
法的には正しい。だが、その正しさが、直哉の日誌に書かれていた“言い方が決まっていく”という感触にどこか似ていることも、黒崎は感じていた。
「位置づけ、ですか」
「ええ」
御厨は落ち着いた口調のまま答える。
「この記録は、故人が私的に作成したものではありますが、会社業務に関する情報を相当程度含んでいる。内容によっては係争中案件にも関わる。したがって単純な遺品とも、会社の正式文書とも扱い切れない」
御厨は、封筒に入れ直された日誌へ目を落とした。
「その点は、こちらも同じ認識です」
城戸が言った。
「私もそう考えています」
御厨はそれを意外とは受け取らなかった。対立するために座っているのではない。互いに、この記録が法的にきれいな置き場を持たないことを知っている。
「ただし」
御厨は続けた。
「その曖昧さは、会社としての情報管理責任を免除するものではありません。会社に不利な記録だからといって、不用意に外部へ出すべきものでもない」
「不用意に、というのは」
水瀬が聞く。
「訴訟遺族側へ直ちに渡す、報道へ出す、そのような動きです」
佐伯が思わず口を開いた。
「でも、訴訟に関係するなら、三原奈津子さん側は知るべきじゃないんですか」
御厨は佐伯を見る。
「その議論は、可能性だけで済むものではありません。証拠価値、文脈、作成目的、他資料との整合、提出義務の有無。整理が必要です」
「法的にはその通りでしょう」
城戸が言う。
「ですが、ここで一つ切り分けておくべきことがあります。会社が『今まで知らなかった』ことと、『知ったあと、どう扱うか』は別の話です」
応接室の空気が、少しだけ緊張した。それは争いの始まりというより、論点の逃げ場が一つ減った瞬間だった。
滝口が口を開く。
「我々としても、その点は理解しています」
「本当にそうでしょうか」
水瀬が言った。声は強くない。だから余計に、相手の言葉の重さだけを問う響きになった。
「はい」
滝口は答えた。
「少なくとも、今この記録を読んだ以上、会社として“そこまで把握できなかった”という従来の説明だけで足りるとは、私個人は思っていません」
その言葉に、御厨がほんのわずかに視線を動かした。顧問弁護士としては、会社の人間に“個人としてはそう思う”と言ってほしくない場面かもしれない。だが、もう遅い。滝口は読んでしまった側の人間になっている。
「私個人は、ですが」
滝口は、少し遅れて付け足した。
「会社としての見解は、これから整理が必要です」
「その整理は、何のための整理になるんでしょうか」
黒崎が聞いた。
滝口はすぐには答えられなかった。
「会社のためなのか、訴訟対応のためなのか、亡くなった藤倉さんに向き合うためなのか。それとも、何も起きなかった形へ戻すためなのか。そこは分けて考える必要があると思っています」
御厨が代わりに返す。
「その問いは、少し道徳的すぎます」
「そうかもしれません」
黒崎は言った。
「ですが、今回は道徳から切り離せないでしょう。会社は今、法的にどう守るかだけでなく、知ってしまったものをどう扱うかも問われている」
御厨は、それにはすぐ反論しなかった。法的な線引きに慣れた人間ほど、それだけでは片づかない場面があることも知っているのだろう。
「藤倉亜希さんは」
御厨が言う。
「どう考えておられるんですか」
黒崎は一度、水瀬と城戸に目をやってから答えた。
「お兄さんを正しい人だったことにしたいわけではない。だが、何も知らず、何も残さず死んだ人として会社の中で終わるのは違う、と考えておられます」
「なるほど」
「そして、故人自身も、そこでは迷っていたのだと思います」
御厨の視線が少し変わる。
「迷っていた」
「日誌には、会社に不利な事実だけでなく、自分が止めきれなかったこと、自分も書類の流れに入っていたことが書かれている」
「ええ」
「つまり、故人は真実を知っていた。ですが、それを自分で最後まで差し出す責任は負わなかった」
御厨はすぐには答えなかった。弁護士としてなら、言うべきことはいくつもあるはずだった。だが一度読んでしまった日誌の中身は、法律上の位置づけだけでは片づかない種類のものだった。
「おっしゃる通り、法的に整理することと、知った以上どう振る舞うかは、別です」
黒崎はその一言だけを受け取った。会社を守る側の弁護士が、今ここでそれを口にした意味は小さくない。
黒崎はそれ以上、言葉を重ねなかった。ここから先は、会社側が自分たちの言葉で引き受けるしかない。
滝口が低く返した。
「……重い話ですね」
それは感想でありながら、たぶん本音だった。彼は総務の人間として、直哉の死後の荷物整理も、労務の形式も、訴訟対応の準備も見てきたはずだ。だが、故人がこんな形で記録を残していたと知ることは、書類の仕事とは別の重さを持つ。
佐伯が、少し迷いながら口を開いた。
「会社としては、これからどうするんですか」
御厨が答える。
「即答はできません。訴訟対応上の影響もある。記録の真正性や連続性の確認も必要です。未開封で発見された経緯や開封記録も含めて、社内で整理することになります。社内関係者へのヒアリングも要るでしょう」
「でも、“知らなかった”では済まない」
佐伯が続けると、御厨は今度は否定しなかった。
「済まないでしょうね」
その一言は重かった。黒崎はそこで押し込まなかった。今ここで“なら出すべきだ”“なら和解すべきだ”と進めれば、御厨も滝口もすぐ法的防御へ戻る。
そうではなく、まずこの場に残すべきなのは、知った以上は後戻りできないという一点だった。
「本日こちらで確認したいのは、ひとまずそこまでです」
黒崎は言った。
「日誌の存在と内容を会社が把握したこと。そして、もう保留物や未確認資料として扱えないこと」
「それは認めます」
御厨が答える。
「会社として、改めて整理します」
「顧問弁護士としてのあなたも」
黒崎が見ると、御厨は数秒だけ間を置いてから頷いた。
「ええ。私も」
◇
会社を出たあと、五人は敷地の外れにある小さな喫煙スペースの前で足を止めた。誰も煙草は吸わないが、そこだけ人の流れから半歩外れている。
「思ったより、御厨さんは逃げませんでしたね」
佐伯が言う。
「逃げられない段階だったんだよ」
水瀬が答えた。
「日誌を読んだ以上、法律の話だけでは済まない」
城戸が静かに続ける。
「御厨先生も、そこは否定しませんでした。法的に守れる線があることと、それを使っていいかどうかは別です」
黒崎は空になった工場の搬入口を見た。あの中で、二年前に何が起き、何が言い換えられ、何が報告書の中で整えられたのか。その全部はもう掘り返せないかもしれない。
だが、直哉の日誌によって、少なくとも“全部は見えていなかった”という会社の顔は保てなくなった。
「次は藤倉さんだ」
黒崎が言う。
「会社側がどう受け取ったかも返す」
「どう返しますか」
杉本が聞く。
「そのままだ」
黒崎は答えた。
「会社は知った。そこだけは、もう戻せない」
「亜希さん、余計に腹が立つかもしれませんね」
杉本が静かに言った。
「お兄さんも会社も、結局、最後のところを自分で決めないままに見えるでしょうから」
「そうだな」
黒崎はそれを否定しなかった。
直哉は知っていた。会社は知った。違うのは、そこから先を誰が引き受けるかだけだった。
「知らなかったでは済まない」
水瀬が小さく言った。
その言葉は、会社にも、兄にも向いていた。
黒崎はそれに答えず、歩き出した。残るのは一つだ。真実を見つけたあと、それをどこへ返すのか。
その線を引くために、まだ少しの時間が必要だった。




