第5章 残された責任
記録が見つかったあとに残るのは、達成感ではない。
見つからないほうがまだ都合よく曖昧にしておけたものが、見つかったことで急に重さを持ち始める。藤倉直哉の私的業務日誌は、まさにそういう種類の記録だった。
黒崎たちが事務所へ戻ったのは、日が落ちてからだった。杉本が奥の机で依頼関係の書類を整理していたが、四人の顔を見てすぐ手を止めた。
「ありましたか」
水瀬が頷く。
「あった。灰色の箱の中」
杉本は少しだけ息を吐いた。喜んだわけではない。その反応が、この依頼の性質をよく表していた。
「亜希さんには」
「これから連絡する」
黒崎はコートを椅子に掛けながら言った。
「ただ、その前にこちらで整理しておく」
打ち合わせスペースに、今日の記録が広げられる。滝口の発言。保管箱の状態。
日誌の冊数。記述の傾向。労災訴訟の争点との重なり。
佐伯はメモを見返しながら、まだ少し整理しきれていない顔で言った。
「正直、もっとこう……会社の不正を暴くために書いてた、みたいなものかと思ってました」
「そうじゃなかった」
水瀬が答える。
「会社にとって都合が悪いだけじゃない。直哉さん自身にも都合が悪い」
佐伯は黙った。
日誌には、自分も書類の流れに入っていたこと、異議を唱えきれなかったことまで残っている。告発のためというより、自分が見ていたものを、自分の中では無かったことにしないための記録に近かった。
「亜希さん、きついでしょうね」
杉本が静かに言った。
「お兄さんが正しかった証拠ではなく、お兄さんもそこにいた証拠を受け取ることになりますから」
「そうだな」
黒崎は短く頷いた。
そこで机の上のスマートフォンが震えた。城戸からだった。
黒崎は表示を確認し、スピーカーに切り替えて通話をつないだ。
◇
城戸は、話を聞くなり数秒黙った。驚きというより、論点を並べ直すための沈黙に聞こえた。
『会社側も、存在自体は知らなかったという理解でいいんですね』
「現時点ではそう見ている」
黒崎が答える。
『箱の存在は知っていたが、中身を精査していなかった』
「そうだ」
『……なるほど』
城戸は一度息を整えるように間を置いた。
『それだと、話は“証拠隠滅”ではなくなります。ただし、厄介さは増しますね』
「どういう意味だ」
『悪意で隠していたと断じるほうが、話は単純です。今回は違う。故人が行き先を決めなかった記録を、会社も保留物として置いたままにしていた。責任の線が一本じゃない』
黒崎は、その通りだと思った。
『内容はどうです』
「争点に関わる。会社の“そこまで把握していなかった”を崩しかねない」
『決定打ですか』
「そこまでは言えない。ただ、相当重い補強になる」
『そうでしょうね』
城戸の声は落ち着いていたが、普段より少し低かった。
『それと、故人自身の記述は』
「自分も無関係ではないと書いている。見ていたことも、止めきれなかったことも」
『……分かりました』
そこで初めて、城戸の声にわずかな苦さが混じった。
『依頼人には、順番を間違えないほうがいい。会社に不利な記録があった、を先にすると、お兄さんの責任の話があとから“ついで”になります』
「分かっている」
『依頼人が受け取るのは、たぶんそっちのほうが重いはずです』
「そうだろうな」
『会社側は、すぐ顧問弁護士を入れてくるでしょう。業務関連記録として扱いたいはずですが、こちらも単純に遺品だとは言い切りにくい』
「曖昧だ」
『ええ。だから最後は、権利ではなく扱い方の話にするしかない。こちらが直接、訴訟遺族側へ渡せば、日誌の中身ではなく、持ち出し方や開示手続きが争点になります』
それは、城戸自身の役割に近い言葉だった。正しいかどうかではなく、どう線を引くか。
『依頼人との面談、必要なら同席します』
「頼むかもしれない」
『連絡を待っています』
通話を切ったあと、黒崎はスマートフォンを机に置いた。
「順番を間違えるな、ですね」
佐伯が言った。
「ああ」
黒崎は頷いた。
「会社に不利な記録があったことより先に、故人が何を残して、何を残しきれなかったかを、亜希さんに返す」
「証拠として扱う前に、遺品として返す」
水瀬が言う。
「そうだ」
黒崎は短く答えた。
佐伯は小さく息を吐いた。
「見つかったのに、まだ終わりじゃないんですね」
◇
藤倉亜希が再び事務所へ来たのは、翌日の昼過ぎだった。少し固い顔をしていた。黒崎から“見つかりました”とだけ連絡を受けたのだ。
そこから先を想像しないわけがない。
杉本が応接スペースに通し、お茶を置く。今回は城戸も同席している。亜希にもその説明はしてあった。
「会社に残っていました」
黒崎が最初にそう告げると、亜希は一度だけ目を閉じた。安心というより、避けようのないものが来たときの反応だった。
「私物と業務関係資料が混ざったまま保管されていた箱の中です。会社側も、今回こちらが確認するまで、その中身を詳しくは見ていませんでした」
「……そうですか」
亜希はそれだけ言って、先を待った。
「内容に入る前に、順を追ってお伝えします」
黒崎は言った。
「お兄さんは、その日誌をきちんと誰かに渡してはいませんでした。訴訟遺族にも、弁護士にも、会社にも、もちろん依頼人であるあなたにもです」
亜希の視線が少し下がる。それはショックというより、やはり、という確認に近かった。
「つまり、お兄さんは最後まで、自分でどこへ出すかを決めていません」
「はい」
「その結果、日誌は会社の中で、返却も廃棄もされないまま、ずっと宙づりになっていました」
亜希はそこでようやく、小さく息を吐いた。
黒崎は続ける。
「内容としては、依頼人が考えておられた通り、労災訴訟に関わる記述を含んでいました。会社にとって不利になりうる内容もあります。ただ、それだけではありません」
亜希は顔を上げた。ここから先の言葉のほうが、本題だと分かったのだろう。
「お兄さん自身が、事故やその後の説明の食い違いに気づいていたことが書かれています。その一方で、自分もその流れの中にいたこと、止めきれなかったこと、無関係ではないと分かっていたことも残されています」
部屋の空気が少し重くなった。
亜希は何も言わない。だが、その顔には“兄が正しかった証拠”を待っていた人の落胆はなかった。最初からそうではないと、どこかで分かっていた人の顔だった。
「……具体的には」
彼女がようやく口を開いた。
「どういうことが書いてあったんですか」
黒崎は水瀬に目を向けた。水瀬が穏やかな声で補う。
「現場で危険の兆候があったこと。事故のあとに説明の言い方が変わっていくこと。それをお兄さん自身が見ていたこと。あと、“自分もその場で書類の流れに入っていた以上、無関係ではない”という趣旨の記述もありました」
「……無関係ではない」
亜希はその言葉を小さく繰り返した。
「はい」
「兄が、そう書いていたんですか」
「書かれていました」
亜希は目を伏せた。その沈黙は長かった。泣くのではない。
怒るのでもない。兄が自分で認めていた弱さを、今ここで初めて他人の口から受け取る時間だった。
「だったら」
ようやく彼女は言った。
「やっぱり、あの人は自分で出すべきだった」
誰もすぐには返さなかった。
「そう思います」
亜希は続けた。
「知っていて、自分も関わっていて、それでも最後にノートだけ残して死んだなら、なおさらです。私に何かを託したとかじゃない。……たぶん、そう言ってしまうときついんでしょうけど。結局、自分でやりたくなかったんですよ」
その言葉には怒りがあった。だが兄を切り捨てる怒りではなく、最後まで兄の弱さの後始末をさせられる側に置かれた人間の怒りだった。
「否定できることではありません」
黒崎は静かに言った。
「お兄さんは見ていた。ですが、最後までご自分で引き受けなかった。そのことも記録に残っています」
亜希は、そこで初めて少しだけ笑いそうになって、やめた。笑いではなく、力の抜けた諦めに近かった。
「そういう人でした」
前にも聞いた言葉だった。だが今度は、その意味が少し違う。昔から優柔不断だったというだけではない。
最後のところで責任を他人に預けたまま、自分は先にいなくなる人間だった。その確認が、今は入っている。
「依頼人として、どう受け取るかは急がなくて結構です」
黒崎は言った。
「ただ、事実としてはそういうことになります」
「……はい」
「もう一つ、先にお伝えしておくべきことがあります」
今度は城戸が口を開いた。
「この日誌は、法的には非常に扱いが難しい」
亜希がそちらを見る。
「難しい、というと」
「お兄さんが個人的に書いた記録ですが、会社業務に関する内容をかなり含んでいます。正式な会社文書ではない。しかし、完全に私的な日記とも言い切れない」
「じゃあ、私がそのまま持てるものでもない」
「簡単には言えません。どちらか一方にきれいに収めるのは難しい」
「兄が書いたものなのに、ですか」
亜希の声は、問いというより置き場のない気持ちの確認に近かった。
「ええ」
城戸は頷く。
「だからこそ、最後は“誰のものか”だけでは片づきません。どう扱うべきかの話になります」
亜希は少しだけ首を振った。
「また曖昧ですね」
黒崎はそのやりとりを聞きながら、依頼人の顔を見ていた。兄も曖昧に残した。会社も曖昧に保管した。
法的にも曖昧な位置にある。そして最後に、その曖昧さの処理を押しつけられるのが依頼人だ。だから彼女が苛立つのは当然だった。
「依頼人として、今いちばん嫌なのは何ですか」
黒崎は改めて尋ねた。
亜希はしばらく考えた。
「兄が、何も知らなかった人みたいに会社の中で終わるのが嫌です」
「ええ」
「でも、兄が立派な人だったことにしたいわけでもない」
水瀬が静かに聞いている。
「会社が悪い、兄は正しい、で終われればどれだけ楽かと思います。でも違う。兄は分かってた。分かってて、自分では出さなかった。だからといって、会社の中で“なかったこと”にされるのも違う」
そこで、彼女はようやく湯呑みに口をつけた。お茶はもう、すっかり冷めていた。
「とはいえ、結局私は、兄の代わりをしなくてはいけないんですね」
「それは、分かりません」
黒崎は答えた。
「兄の代わりに正しいことをする、みたいなのは違う。ただ、兄がやらなかったことまで、会社の都合のいい形で閉じられるのは嫌なんです」
それが、この依頼のもっとも正確な輪郭だった。
◇
面談が終わったあと、亜希が帰るまで少し時間があった。杉本が玄関先で見送る間、応接スペースに残った四人はしばらく無言だった。
最初に口を開いたのは佐伯だった。
「依頼人、強いですね」
「強いというより」
水瀬が言う。
「もう、きれいな話にしても意味がないって分かったんだと思う」
「それでも依頼をやめないんですね」
「やめたら、またお兄さんの思いどおりになるから」
佐伯は少し黙った。
それが一番痛いのだろう。兄を立派だとは思えない。むしろ腹が立つ。
だが放っておくと、兄は最後まで責任を取らないまま終わってしまう。その後始末をしたくないのに、しないわけにもいかない。その位置に依頼人は立たされている。
「次は会社側ですね」
水瀬が言う。
「日誌の存在を知った以上、向こうも動く」
「顧問弁護士も」
城戸が短く続けた。
「会社として守れる線を計算し始めるでしょう」
「その前に」
黒崎が言った。
「こちらも線を引く。誰が正しいかではなく、どう扱わせるかだ」
城戸が頷く。
「同意します。法的な権利主張を正面からぶつけるより、“もう知らなかったとは言えない状態”を固定したほうがいい」
「依頼人としても、そのほうがいいと思います」
杉本が戻ってきて言う。
「復讐したいわけでも、英雄にしたいわけでもない。もう曖昧なままにされたくないだけだから」
黒崎は窓の外を見た。夕方の光が、向かいのビルの壁に斜めに落ちている。
見つかったのは証拠だ。だがそれ以上に、故人が最後まで引き受けなかった責任でもある。その責任を今さら依頼人一人へ返して終わらせるわけにはいかない。
だから次にやるべきことは、会社にも同じ重さを引き受けさせることだった。
書き残された責任は、書いた人間一人のものでは終わらない。少なくとも、読んでしまった側にはもう返ってくる。




