第4章 灰色の箱の中
記録というものは、残っているだけでは誰のものにもならない。
誰かが保管し、誰かが読む前提を与え、誰かがそれをどこへ属するものか決めて、ようやく記録は意味を持つ。逆に言えば、そのどれも与えられなければ、残っていてもないのと似た扱いになる。
藤倉直哉の私的業務日誌が、本当に会社のどこかに残っているのだとしたら、まさにそういう状態に置かれているはずだった。
黒崎たちは再び東西化成工業を訪れた。前回よりも用件は明確だった。私物の有無を尋ねるのではない。
保管の流れを確認するのだ。
応接室に通されたあと、今回同席したのは滝口だけだった。石塚は呼ばれていないらしい。会社としては、現場の温度より手続きの整合を前に出したい段階なのだろう。
「本日は」
滝口は席につくなり言った。
「前回のご確認を受けて、療養入り前後の藤倉さんの机まわりとロッカー整理に関する記録を、こちらで確認しました」
黒崎は黙って先を促した。
「当時、部署側で私物と業務関連資料をいったん仕分けし、その後、総務で保管した箱が二つあります。返却済みの私物一式とは別です。ただし、その中身は一点ごとに目録化されていません」
佐伯が思わず顔を上げる。
「箱が二つあるんですか」
「はい」
滝口は一拍置いてから答えた。
「一つは茶色の段ボールです。もう一つは、樹脂製の収納ケースで、灰色系だったと思います」
佐伯が黒崎を見る。黒崎は表情を変えなかった。だが、依頼人のアパートで見つかった走り書き――机まわり/灰色の箱/会社に残ってる分――とつながったのは間違いなかった。
「その灰色のケースを、こちらで確認させていただくことはできますか」
黒崎が言う。
滝口はすぐには答えなかった。
「正直に申し上げると、悩ましいところです」
「何が、でしょうか」
「現場関連資料が含まれている可能性があります。第三者への開示にあたるおそれもある」
水瀬が、少し低い声で返す。
「まだ何が入っているか、ちゃんと見ていないんですよね」
「だからこそです」
「見ていないものを、先に“出せないもの”として扱っている」
「そういう言い方は適切ではありません」
「適切かどうかじゃないです」
水瀬は言う。
「今ここで起きてることの話です」
応接室に短い沈黙が落ちた。
滝口は感情を荒げない。その代わり、相手の言葉を“表現の問題”へ寄せて受ける癖がある。内容そのものに触れず、整い方の是非へずらす人間だと黒崎は見ていた。
「分かりました。御社が慎重になるのも理解できます」
黒崎が静かに口を開く。
「ただ、こちらとしては、その記録が存在するのか、そして、それがどう位置づけられるのかを確認したいだけです」
滝口はしばらく考えた末、立ち上がった。
「ご遺族から正式に所在確認の依頼が出ている以上、保管物の有無だけは社内で確認します。ただ、内容の精査や写しの作成、持ち出しが必要になる場合は、その時点で顧問へ確認します」
黒崎は頷いた。
「構いません。こちらも、持ち出しを求めているわけではありません」
◇
保管資料のある部屋は、管理棟の裏手に近い別室だった。倉庫というほど雑然とはしていないが、使わなくなった書類棚や施錠ロッカー、箱詰めされたファイルが並んでいる。整理はされている。
だが、整然としていることと、見通しがよいことは別だ。むしろ分類の細かさが、そのまま見つかりにくさになっていた。
滝口が鍵を開けると、乾いた紙とプラスチックの匂いがした。
「このあたりです」
壁際の棚の中段に、ラベルの貼られていない箱が二つ並んでいた。ひとつは古い段ボール。もうひとつは、やや擦れた灰色の樹脂ケースだった。
佐伯が息を止める。水瀬はケースより先に、その周囲を見ていた。置かれ方、他の箱との距離、上に積まれているものの有無。
日誌そのものより、この箱がどんな扱いを受けてきたかを見ている。
「これですね」
黒崎が言う。
「おそらく」
滝口は答えた。
おそらく。前回までの“おそらく”と違うのは、ここではもう、本当に知らないのではなく、確かめていない状態を保ってきた“おそらく”だということだった。
滝口がケースを作業台へ移した。留め具を外す音が、部屋の静けさの中で妙に大きく響く。
中には、ファイル、クリアケース、メモ束、古い工程表、私物らしいボールペンや充電器、小さな薬の空箱、使いかけの付箋、名刺入れの空箱などが入っていた。無造作ではない。だが、きちんと整理されたとも言い難い。
私物と業務の境目が曖昧なまま、誰かが一度だけまとめて閉じた箱に見えた。
「こういうものって、結局どこにも行かないんですよね」
水瀬が言った。
滝口は返事をしなかった。
彼は手袋をつけ、上から順に確認し始めた。総務の人間らしい慎重さだったが、それは記録の尊重というより、何に触れたかをあとで言えるようにする慎重さに見えた。
工程表。作業手順改訂のコピー。私的な通院メモ。
現場で使う略式のチェックシート。簡易な名簿。
どれも、捨てるには迷い、返すには判断しにくいものばかりだった。
佐伯が小さく言う。
「まさに、そのままですね」
「ああ」
黒崎も頷いた。
その少し下に、茶色の大学ノートが二冊重なっていた。佐伯が反射的に身を乗り出す。
だが、表紙には品番や型番の殴り書きがあるだけで、開いてみると中身は部材発注メモと点検の走り書きだった。直哉の継続的な日誌ではない。
「違うか」
佐伯が低く言う。
箱の底近くに、A4の薄いクリアケースが横向きに入っていた。滝口がそれを取り出すと、その下に、さらに平たい封筒が一つ残っていた。
厚紙のように硬くなったレターパックだった。
宛先は、東西化成工業株式会社、製造管理部、藤倉直哉。差出人の欄にも、藤倉直哉の名前と、彼が使っていたアパートの住所が書かれている。
封は切られていなかった。
滝口が、そこで初めて手を止めた。
「これは……」
黒崎はレターパックの表面を見た。追跡番号と引受日付が残っている。日付は、労災訴訟が表に出たあとで、直哉が療養に入る前だった。
「会社の自分宛に、送っているんですね」
佐伯が言う。
「そういうことだろうな」
黒崎は答えた。
「開けずに残したのか、開けられなかったのかは分からない。ただ、少なくとも藤倉直哉さんは、これを会社に置くことにした」
滝口は何も言わなかった。その表情には、まだ中身を見ていない段階で、すでに扱いを考え始めた人間の硬さがあった。
「開封の過程だけ、記録に残します」
水瀬が言った。
滝口は少し遅れて頷いた。
「お願いします」
佐伯がスマートフォンを構えた。水瀬はレターパックの封の端を確認し、切られていないことを画面に入れてから、ゆっくりと開いた。
中から出てきたのは、半分に折られたA5のソフトカバー冊子が三冊だった。表紙には日付もタイトルもない。色も地味で、書店のノートというより支給品に近い簡素さだ。
水瀬が一冊目を開き、作業台の上へ置いた。
部屋が静かになった。
そこに書かれていたのは、業務日報でも、個人的な愚痴でもなかった。日付。工程。
人数。異変。会話の断片。
後で変わった説明への疑問。誰がどの時点で「大丈夫」と言ったか。そして、その日の最後に短く書かれる一文。
――この件、明日の朝には言い方が変わる気がする。
――石塚さんは止めたが、上は通すつもりだろう。
――現場で見ている範囲と、会議で使う言葉が合っていない。
――自分も書類の回しに入っている以上、無関係ではない。
――遺族に説明する文面、今日のままでは出さないはず。
佐伯が息を呑む。水瀬は動かなかった。黒崎は滝口の横顔を見ていた。
滝口の表情が、そこで初めて崩れた。驚きと、計算の速さと、その両方が一度に出た顔だった。これは単なる個人メモではない。
しかも、会社が知らなかった形で故人が残していた記録だ。そう理解した人間の顔だった。
「……まさか」
滝口の声が少しだけ掠れた。
黒崎は答えなかった。
水瀬が二冊目を開く。記述はさらに具体的になる。事故前の体調異変。
保護具の扱い。現場で交わされた軽い冗談と、それが冗談ではなくなっていく順番。事故後、報告の語尾が少しずつ変えられていく過程。
そして繰り返し書かれているのは、自分も止めなかったという直哉自身の記述だった。
完全な告発文ではない。誰かを告発する言葉より先に、自分がその場にいながら止めなかったことが露出する記録だった。だが、会社の立場から見れば厄介すぎるほど、経過が残っている。
「少なくとも、藤倉直哉さんが個人的に書き続けていた記録と見てよさそうですね」
黒崎が言う。
滝口は返事をしなかった。それでも、その沈黙自体が十分な返答になっていた。少なくとも会社側は今日この瞬間まで、この日誌の存在も内容も知らなかった。
隠蔽もなかったが、これでもう、知らない側には戻れない。
「このレターパック、誰も確認しなかったんですね」
水瀬が尋ねる。
滝口は数秒遅れて答えた。
「……個人宛てなので、そこまではできなかったと思います」
黒崎は机上の日誌を見た。これが誰のものかは、簡単には決められない。直哉が個人的に書いていた記録であり、同時に会社業務の経過をかなり具体的に含んでいる。
遺品とも言えるし、業務関連資料とも言える。しかも、直哉自身が会社の自分宛に送り、未開封のまま会社内に残していたものだ。本人の意図を確かめるべきだが、それはもうできない。
追跡番号と引受日付は、中身がその日付以前に封入されていた可能性を強くする。だが、それだけで何かがすべて確定するわけではない。
それでも、この形は会社にとって邪魔だった。あとから作られた個人メモだと簡単に片づけるには、あまりに扱いにくい。
だからこそ、この日誌は今までどこにも渡されなかった。直哉も、会社も、どこへ属させるべきか決めなかったからだ。
直哉は、たぶんずっとこうやってきたのだろうと黒崎は思った。何もしないのではない。途中までは自分の手で持つ。
自分で自分宛に送るくらいの知恵もあった。
だが、どこへ渡すべきかを決めるところで、急に手を離す。
そのやり方で誰かが困ることも、本人は分かっていたはずだった。それでも最後の線を引かない。それが藤倉直哉という人間の、いちばん厄介なところなのだろう。
「滝口さん」
黒崎が言う。
「これを、今の段階でどのように扱うおつもりですか」
滝口は日誌から目を離さなかった。
「……即答はできません」
「でしょうね」
「会社の業務に関する記述が含まれています。係争中の件にも――」
そこで滝口は言葉を切った。係争中の件にも何か。関わる。
影響する。つながる。どの言葉を選んでも重くなりすぎると分かったのだろう。
「少なくとも」
滝口はようやく黒崎を見る。
「これは、見なかったことにはできません」
水瀬が、その一言にだけ少し視線を上げた。
隣にいた佐伯は、その言葉が“誠実”なのか“会社としての危機管理”なのかをまだ測りかねている顔だった。だが、どちらでも構わないと黒崎は思った。重要なのは、今ここで滝口自身がその線を越えたことだ。
もう、灰色の箱の中で眠っているだけの記録ではなくなった。
◇
事務所へ戻る前、黒崎たちは会社の敷地を出たところで立ち止まった。日誌そのものはその場で持ち出していない。まずは所在確認と内容の確認。
扱いをどうするかは次の段階だ。滝口の顔色からしても、会社側はすぐに顧問弁護士へ連絡するだろう。
「ありましたね」
佐伯が言った。声は少し硬かった。
「あったね」
水瀬も繰り返したが、達成感はない。
「思ったより、ちゃんと書いてた」
「そうだな」
「でも、思ったより、逃げてもいた」
その言い方に、黒崎は小さく頷いた。
日誌の中の直哉は、正しさの側へ完全には立っていなかった。何が起きているかを見て、言い方が変わることも見て、自分も書類の流れの中にいることを分かっていた。それでも、その時点では止めていない。
止められなかったのか、止めなかったのか、その違いは日誌を読んでもはっきりしない。だが少なくとも、無関係ではないという自覚だけは残していた。
「依頼人には」
佐伯が聞く。
「どう伝えますか」
「事実だけだ」
黒崎は答えた。
「日誌は存在した。会社は今日まで中身を知らなかった。未開封で会社内に残されていた。内容は労災訴訟に相応の影響を持ちうる。ただし、故人にとって都合のいいものだけでもない」
「辛いですね、それ」
「そうだろうな」
水瀬が少しだけ目を細める。
「でも、藤倉さん、もう薄々分かってたと思う」
黒崎もそう思った。藤倉亜希が探していたのは、兄の潔白ではない。会社の悪意だけでもない。
兄が知っていたことと、最後までやらなかったこと、その両方を誰の手にも届かない場所へ戻したくなかったのだ。
「これで会社側も知ることになる」
佐伯が言う。
「そうなると、今度は会社がどうするかですね」
「そうなる」
黒崎は答えた。
「ここからは、“あったかどうか”じゃない。“知ったうえでどうするか”になる」
工場の上には、雲の薄い夕方の空が広がっていた。灰色の箱の中に沈んでいたものは、もう沈んではいない。だが、浮かび上がったものがそのまま誰かの救いになるとも限らない。
記録は見つかった。次に問われるのは、その記録を誰が引き受けるかだった。
そして、その問いから最初に手を離していたのは、もういない兄自身だった。




