第3章 会社の説明
会社というものは、何かが終わったあとに、その終わり方まで整えようとする。アパートを確認した翌日、黒崎たちは藤倉直哉が勤めていた東西化成工業株式会社を訪れた。
事故でも、退職でも、死でもそうだ。それが悪意から来る場合もあるし、そうでない場合もある。むしろ多くは、悪意より先に手続きがある。
手続きを通すための言葉があり、責任を曖昧にしたまま先へ進むための説明がある。
藤倉直哉が勤めていた東西化成工業株式会社も、黒崎にはそういう会社に見えた。
表に出ている事故の情報は、多くない。二年前、工場内の一部工程で扱われていた薬剤の曝露、あるいはそれに近い作業中の健康被害をめぐって、社員が一人亡くなっている。会社側は当初、個別要因の可能性を強調し、設備や管理との因果関係を限定的に説明した。一方、遺族側は、以前から体調異変や危険の兆候があり、会社が十分な対策を取らなかったと主張していた。
記事に残っているのは、その骨格だけだった。だからこそ、藤倉直哉がどの位置で何を見ていたのか、そしてそれをどこまで記録していたのかが問題になる。
都内から少し離れた工業団地の一角。三階建ての管理棟は、外から見ればどこにでもある中堅企業だった。壁の色は古いが、入口まわりだけは最近手を入れたように見える。
看板は控えめで、社名と小さな企業ロゴがあるだけだ。余計なことを語らない会社ほど、語るべきことを最初から絞っている。
訪問の名目は、故人の私物確認と在職時の荷物整理の経緯の照会。依頼人の同意書もある。会社側が面会に応じたのは、まだこの件を“遺品の確認”の範囲に置いているからだろう。
最初から法的な構えを見せるほどの案件ではないが、無下にも断れない。その程度の位置づけに見えた。
応接室に通されたとき、佐伯が小さく息を吐いた。
工場や倉庫に近い会社の応接室にしては、妙に匂いが少ない。消臭剤なのか、換気なのかは分からないが、何も残さないようにしている部屋の匂いがした。
黒崎は何も言わず、テーブルの上に置かれた会社案内へ目を落としていた。会社概要、沿革、製品紹介。説明のために整えられた紙は、たいてい、説明されない部分の輪郭を先に教える。
やがてドアが開き、四十代半ばほどの男が入ってきた。紺のスーツ、無地のネクタイ、細い縁の眼鏡。顔立ちそのものに冷たさはないが、表情筋を動かす量が少ない人間に見えた。
「お待たせしました。総務部の滝口です」
名刺が差し出される。滝口修司。総務部労務課長。
黒崎たちも順に名刺を出した。滝口はそれを確認し、席につく前に机の上のボールペンの向きをさりげなく揃えた。
「本日は、藤倉直哉さんの件で伺っています」
黒崎が言う。
「ご遺族から、在職中の私物整理について確認の依頼を受けています」
「承っております」
滝口は落ち着いた声で答えた。
「まず申し上げておきますが、藤倉さんのご逝去について、弊社としても非常に残念に思っております。療養に入られてからは復帰を急がせるようなこともなく、可能な範囲で配慮していたつもりです。そのうえで、私物の返却についても、確認できたものはすべてご遺族へお返ししています」
水瀬は、その最初の説明を聞きながら黙っていた。黒崎には分かる。内容ではなく、並び方を見ているのだ。
「こちらで確認したいのは、その“確認できたもの”の範囲です」
黒崎が言うと、滝口はすぐに頷いた。
「もちろんです」
「藤倉さんが個人的に記録していたノート、あるいは私的業務日誌のようなものが、会社側に残っていた可能性はありませんか」
滝口は一拍だけ間を置いた。考えたというより、質問を自分の整理の枠に収める間だった。
「業務日誌、というのは」
「会社の正式な日報ではなく、本人が個人的に書いていたメモ帳やノートです。私物と業務上の記録の境目にあるようなものかもしれません」
「なるほど」
滝口はそこで初めて、わずかに眉を寄せた。
「弊社では、正式な業務日報や引継ぎ記録は別途管理しております。個人のメモについては、会社として一律に把握しているわけではありません」
「把握していない、ということは、残っていないとは言い切れない」
「その可能性は否定できません」
言い方が整っている。否定しないが、認めもしない。佐伯はそれをメモしながら、少しだけ顔を上げた。
こういう逃げ方に慣れているのだろう。
「藤倉さんの私物整理は、どなたがされたんですか」
水瀬が尋ねる。
「療養に入られる際に、本人の机まわりとロッカーの整理を一部行っています。部署でまとめたうえで、総務で保管しました」
「その時点で、ご本人は立ち会っているんですか」
「一部は本人確認のもとです。ただ、体調の問題もあり、すべてを詳細に立ち会われたわけではありません」
「その保管物の中に、ノート類は」
「現時点では把握しておりません」
水瀬はそこで追い込まなかった。把握していない。知らないのか、見ていないのか、見ないままにしていたのか、その線だけが曖昧に残る。
黒崎は別の角度から問う。
「藤倉さんは、どの部署におられましたか」
「製造管理部の品質安全支援チームです」
「現在係争中の労災訴訟の件についても、現場では近い位置におられたわけですね」
滝口は一瞬だけ視線を上げた。そこで初めて、相手もこの話がどこへつながるのかを測った。
「どこまでを“近い”と表現するかによりますが」
「ご依頼人の藤倉亜希さんは、その点を気にされています」
黒崎は言った。
「……そうですか」
滝口の声色は変わらなかった。だが、机に置いた右手の指先だけが少し揃い直された。単なる遺品確認として受ける段階は、ここで終わったようだった。
「その件につきましては、現在も係争中ですので、会社として個別の見解をここで申し上げるのは差し控えたいと思います」
「もちろん、事故の評価そのものをここで争うつもりはありません」
黒崎は穏やかに言った。
「ただ、故人が私的に残していた記録が遺品から漏れている可能性がある以上、その所在は確認しておきたいと考えています」
「承知しています」
滝口は言葉を選ぶように続けた。
「ただ、藤倉さんが何らかの個人メモを残されていたとして、それが会社の正式記録とどう違うものなのか、現時点では判断がつきません。業務に関する内容を相当程度含む場合、私物としてそのままお返しするのが適切かどうかも……」
そこで、佐伯が思わず顔を上げた。
「でも、会社の正式文書じゃないんですよね」
滝口は佐伯を見る。
「そう断定もできません。記録の性質によります」
「ご本人が個人的に書いていたものでも?」
「業務に関する内容を相当程度含むなら、会社の情報管理の問題もあります」
理屈としては通っている。だが、その理屈がすぐに出るということは、返すべきものかどうかより先に、“返さない理由”の整理がもう始まっているということでもある。
水瀬が口を開いた。
「滝口さん」
「はい」
「今のお話は、実物が存在すると仮定したうえでのことですよね」
「そうです」
「でも最初のご説明だと、見当たらないということでした」
「はい」
「見当たらないものについて、返すべきかどうかの整理だけは先にできているんですね」
佐伯がわずかに息を止めた。水瀬のこういう聞き方は、言葉尻を責めるようでいて、相手が何をどの順番で考えているかを剥がしていく。
滝口は少しだけ沈黙してから答えた。
「想定の話です」
「そうですね」
水瀬はそれ以上押さなかった。
黒崎は話題を変えるように言った。
「現場責任者の方にも、少しお話を伺いたいのですが」
「石塚ですね」
滝口はすぐに応じた。
「確認しますが、長い時間は難しいかもしれません」
「構いません」
滝口が席を立って応接室を出ると、ドアが閉まったあとで佐伯が小さく言った。
「なんていうか……ずっと整ってますね」
「うん」
水瀬が短く答える。
「怖いくらいに」
「でも、あからさまに嘘をついてる感じではないですよね」
「そういう話じゃない」
黒崎が言った。
「今の人は、“何を知らないか”まで整えてる」
佐伯は少し考えた。
「日誌の存在を知らない、ってことですか」
「知らないのかもしれない。だが、もし出てきたらどう扱うかの考え方は、もう持っている」
それが会社の説明というものだ。実物がなくても、位置づけだけは先にできている。人も物も、どこへ収まるべきかが先に決まっている。
そういう組織は、後から何が出てきても、まず“どう処理するか”から考える。
◇
やがて石塚徹が入ってきた。
五十代前半、日焼けした顔、今日は作業着ではなくスーツ姿だが、袖口や靴の擦れ方に現場の人間の癖が残っていた。滝口のような整った話し方はしないだろうと、見ただけで分かる男だった。
「石塚です」
名刺交換を済ませ、席につくなり石塚はネクタイを少しだけ緩めた。滝口はそのまま同席している。
「藤倉の件、私で分かることなら」
石塚の最初の声には、滝口にはなかった生身の疲れがあった。それが誠実さなのか、面倒を嫌う気配なのかはまだ分からない。
「藤倉さんは、どのような方でしたか」
黒崎が聞く。
石塚は少し目を細めた。
「真面目でしたよ。目立つ人間じゃない。口も多くない。ただ、現場のことはよく見ていた」
「事故の件についても、現場では見ておられたわけですね」
「……見ていたでしょうね」
その答えは、滝口の前では少し踏み込みすぎに見えた。案の定、隣で滝口が口を開きかけたが、黒崎が先に続けた。
「ご本人が何か個人的に記録していたことはありませんでしたか」
石塚はすぐには答えなかった。記憶の中から、“今ここで出していい範囲”を探すような間だった。
「メモは取る人でした。あいつに限らず、現場の人間はだいたいそうです。正式な日報じゃ足りないことがあるから、自分用に書く。段取りとか、引継ぎとか、トラブルの順番とか」
「藤倉さんのメモは、どのくらいの重さのものだったんでしょうか。走り書きの延長なのか、それとも継続的な記録なのか」
「……継続的だったと思います」
その一言で、部屋の空気が変わった。
滝口が石塚を見る。石塚もそれに気づいているが、引っ込めることはしなかった。
「本人が“日誌”みたいに呼んでいたかどうかは知りません。ただ、あいつは時系列で残すタイプだった。今日何があったか、先週何が変わったか、誰が何を言ったか。ああいうのを、後で見返せる形で残す」
佐伯が手を止める。
「それが会社に残っていた可能性は?」
「あります」
今度は滝口より先に、石塚がはっきり言った。
水瀬がその即答を逃さなかった。
「どうしてそう思うんですか」
「療養に入る前、机まわりを全部持って帰ったわけじゃないからです。私物も仕事のものも混ざってた。正直、どこまでが私物でどこまでが現場用の記録か、本人しか分からない状態だったと思います」
「整理には立ち会いましたか」
「途中までは」
「“灰色の箱”というものに、心当たりはありますか」
石塚の目が、そこで初めてはっきり動いた。
「……灰色の箱?」
黒崎は何も足さない。依頼人のアパートで見つかった走り書きは、この場ではまだ出しすぎないほうがいい。
「心当たりはありますか」
「ある、かもしれません」
石塚は記憶を辿るように天井へ視線をずらした。
「机の横に、小さい樹脂ケースみたいなのがあった気がします。引き出しじゃなくて、フタ付きの。現場票とかメモとか、私物も混ざってるようなやつです」
「その箱は、どこへ」
「分かりません。整理の途中で総務に回したか、部署の保管に入ったか……」
滝口が低く口を挟む。
「石塚さん、そのあたりは確認のうえでないと」
「確認してないから、分からないって言ってるんです」
石塚の声は強くない。だが、その返しには滝口への小さな苛立ちがあった。
黒崎はそこで、ようやく本題へ少しだけ踏み込んだ。
「藤倉さんは、事故の件について何か話していましたか」
石塚は黙った。
滝口も何も言わない。応接室の空調音だけが、やけに大きく聞こえた。
「係争中の件ですので」
滝口が口を開く。
「具体的な――」
「気づいてましたよ」
石塚が、滝口の言葉に重ねるように言った。
「何にですか」
黒崎は静かに返す。
「現場の説明が、そのまま報告書になるわけじゃないことです」
佐伯が視線を上げる。
「それは、どういう」
「現場で起きたことと、上に上げるための言い方は少し変わることがある。危険の程度も、責任の線も、後で整えられる。あいつは、それを分かってた」
「石塚さん」
滝口が今度ははっきり制した。
「その言い方は適切では――」
「適切じゃないのは分かってます」
石塚は吐き捨てるほどではない口調で言った。
「でも、なかったことにもできないでしょう」
その場で、初めて滝口が言葉を失った。沈黙は長くなかったが、それまでの整った流れを切るには十分だった。
水瀬が石塚を見たまま尋ねる。
「藤倉さん自身は、そのことについて何かしようとしていたと思いますか」
「……分かりません」
石塚は答えた。
「ただ、言えないまま溜めてたのは見てれば分かった」
「出すつもりだったと思いますか」
「そこまでは」
石塚は首を振った。
「出す覚悟があったなら、もっと早くやってたと思います。あいつはそういう人間じゃなかった。正しいことを通すために自分を切れるような人間じゃない。だから余計に、記録だけが残るんです」
その言い方に、黒崎は小さく頷いた。石塚は直哉を庇っているわけではない。ただ、よく知っているのだ。
現場の中で、声を上げきれない人間がどうやって折り合いをつけるかを。
「本日は、ひとまずここまでで結構です」
黒崎が言うと、滝口はすぐに立ち上がった。
「確認できる保管資料の範囲については、社内で整理のうえ、改めてご連絡します」
「お願いします」
「ただし」
滝口は黒崎を見る。
「係争中の件に関わる情報については、会社として慎重な対応が必要です。その点はご理解ください」
「承知しています」
黒崎は言った。
「だからこそ、所在の確認から始めています」
滝口は何も返さなかった。
◇
会社を出たあと、四人は管理棟の脇の歩道で立ち止まった。工場の奥から低い機械音が響いてくる。働いている場所の音だった。
訴訟も死亡も、その音の中では一度小さくされる。
「石塚さん、けっこう話しましたね」
佐伯が言う。
「滝口さんの前なのに」
「話したというより、止めきれなかった感じかな」
水瀬が答える。
「たぶん、あの人もずっと整えた説明の中にいたんだと思う。今日はそれが少し剥がれただけ」
黒崎は歩き出しながら言った。
「滝口は、少なくとも日誌の存在自体は知らなかった可能性が高い」
「でも、出てきたらどう扱うかの理屈は持ってました」
佐伯が言う。
「そうだ。だからあの会社は、知らないままでも整えられる」
佐伯は少し黙り込んだ。
「それって、隠蔽より嫌ですね」
黒崎は何も返さなかった。隠蔽ならまだ、隠した側の意思がある。だが、誰も決めず、誰も返さず、ただ“そこにあった”という理由だけで残されるものは、もっと冷たい。
責任を持って奪ったのではなく、責任を持って手をつけなかった結果だからだ。
「次は保管資料ですね」
水瀬が言う。
「灰色の箱」
「そうだ」
黒崎は頷いた。
駅へ向かう信号待ちで、佐伯がぽつりと言った。
「直哉さん、思ってたより厄介ですね」
「最初からそうだったんだと思う」
水瀬が外を見たまま言う。
「ただ、依頼人がまだそこをきれいに言葉にできてなかっただけで」
黒崎は何も言わず、歩道の先を見た。藤倉直哉は、何もしない人間ではなかったのだろう。見ていたし、気づいていたし、記録も残していた。
だが、それをどこへ出すかを最後まで決めなかった。
最初から背を向ける人間なら、まだ分かりやすい。途中までは自分の責任の中にいて、最後の半歩だけを他人に残す。そういう人間のほうが、後に残るものは厄介だ。
だから記録だけが残る。その気配が、ようやく形になり始めていた。




