第2章 最後の不親切
翌日、最初に向かったのは病院だった。
藤倉直哉が亡くなった総合病院は、都心から少し離れた場所にある中規模の私立病院だった。長期入院にも対応しているが、病棟は全体に簡素で、必要以上に温かさを演出しようとしない造りだった。白い壁、磨かれた床、静かな空調音。
死も回復も同じ明るさで処理されていく場所の匂いがした。
水瀬と佐伯が病棟事務の担当者から話を聞き、黒崎は少し後ろでそのやりとりを見ていた。
「藤倉直哉さんの件ですが」
水瀬が同意書を示しながら言う。
「ご遺族の了解は取っています。亡くなられた前後の私物整理について、確認したいことがありまして」
担当者は書類を確認し、頷いた。
「分かる範囲でしたら」
記録として残っていたのは、多くはなかった。入院時の持ち込み荷物の概要。退院予定が一度も立たなかったこと。
死亡後、病室から回収された私物がごく少量だったこと。衣類、洗面具、充電器、文庫本が数冊。手元にあった鞄ひとつ。
貴重品は病棟管理ではなく本人管理だった。
「ノート類の記載はありませんね」
担当者が一覧を見ながら言う。
「ただ、患者さんの私物は一つひとつ細かく品目化しているわけではありませんので、メモ帳程度なら“書籍類”や“雑品”に含めてしまっていた可能性はあります」
「亡くなられたあと、病室の引き出しや床頭台は誰が確認されたんですか」
佐伯が聞く。
「看護師二名で確認して、その後、ご遺族へお渡しできるものをまとめています」
「会社の方が来られたことは」
「あります。勤務先の方が、会社に残っている私物の件で、あとからご遺族と連絡を取っていたと記憶しています。ただ、病院側で預かったのは病室にあったものだけです」
黒崎はそこで口を開いた。
「病院から会社へ、何かを引き渡したことはありますか」
「いいえ。こちらからは何もありません」
「分かりました。ありがとうございます」
病院側の説明は、少なくとも形式としては筋が通っていた。私的業務日誌があったとしても、病院で紛れたと断定できる材料はない。だが、なかったと言い切るほど細かくもない。
病院を出たあと、佐伯が言った。
「やっぱり、病院ではなさそうですね」
「そうだな」
黒崎は答えた。
「問題はどこに紛れたかじゃない。直哉自身が、何を手元に置いて、何を会社に残して、何を妹に言わないままにしたか」
「そうだ」
黒崎は短く言った。
「次はアパートを見る」
◇
藤倉直哉が借りていたアパートは、病院から電車で三駅ほどの住宅街にあった。駅前の明るさから少し離れると、人通りは急に減る。二階建ての古い建物で、通路の手すりの塗装が一部剥げていた。
管理会社からは、遺族立ち会いでの再確認許可を取ってある。
藤倉亜希は現地で待っていた。黒いパンツスーツに、薄いグレーのコート。服装の印象が変わっても、バッグの持ち手を握る手だけは前回と同じだった。
「お待たせしました」
黒崎が言うと、亜希は小さく会釈した。
「いえ、こちらこそ」
「亡くなられたあと、一度この部屋には入られているんですね」
「はい。管理会社の人と一緒に。最低限の確認だけして、あとはそのままでした」
「分かりました。改めて何かお気づきのことがあれば教えてください」
「……分かりました」
部屋は、一人暮らしの男性としては驚くほど整っていた。几帳面というより、余計なものを増やさないことで何とか保ってきた部屋、という感じだった。テーブル、衣装ケース、書棚、ベッド。
必要以上の家具がない。長く住み続けるつもりで整えたというより、仕事と通院の往復の中で、生活を小さく折りたたんでいた痕跡がある。
押し入れの奥には、古いガムテープで閉じられた小さな箱がいくつか残っていた。ひとつだけ、ほかの荷物より丁寧に封をされたものがあった。中身を示すメモも、会社名の入った封筒も貼られていない。
黒崎はそれに一度だけ目を留めたが、その日は日誌の所在につながりそうな机まわりと書類を優先することにした。
佐伯が書類ケースの中身を見ながら言う。
「仕事関係、思ったより少ないですね」
「持ち帰っても、そのまま家に置く人じゃなかったのかも」
水瀬が答える。
黒崎は机の横の小さな金属ラックを見ていた。上段に薬、下段に封筒類、その下に雑誌が二冊と空のクリアファイル。引き出しの中には文房具と未使用に近いメモ帳。
家で何かを継続的に書くための場所には見えなかった。
「お兄さんは、ご自宅で仕事のことを話される方でしたか」
黒崎が尋ねる。
「ほとんど」
亜希は首を振った。
「仕事のことは、昔からあまり。忙しいとか、面倒だとか、そのくらいです」
「紙を持ち帰るのを嫌がっていた感じはありますか」
「分かりません。そもそも、私、この部屋に来たのも数えるくらいで」
その言い方には、言い訳というより、今さら説明しても仕方がないという諦めがあった。
水瀬が書棚の下段から一冊のノートを取り出した。
「これ」
全員の視線が向く。
だが、それは家計メモのようなものだった。通院日、支払い、食費、薬代、たまに買った生活用品の記録。丁寧ではあるが、私的業務日誌ではない。
佐伯が少し肩を落とす。
「違いましたか」
「でも、細かく書いて残す人ではあったようだ」
黒崎が言う。
水瀬がページを繰り、最後のほうで手を止めた。
「見てください」
最後の余白に、普段の生活メモとは別の筆圧で、短い走り書きがあった。
――机まわり
――灰色の箱
――会社に残ってる分
たったそれだけだった。
「兄の字です」
亜希がすぐに言った。
黒崎は、そのメモの前後を見た。生活費の記録とは明らかに別のタイミングで書き足されている。忘れないために残したのか、死後に誰かが見ることもどこかで想定していたのか、そのどちらとも言い切れなかった。
「“灰色の箱”に、心当たりはありますか」
黒崎が聞く。
亜希はすぐには答えられなかった。
「……分かりません。でも、兄の会社の荷物を前に受け取ったとき、箱みたいなのはいくつかありました」
「色は覚えておられますか」
「茶色も白もありました。灰色……」
彼女は首を振る。
「そこまでは」
佐伯がメモを見ながら言った。
「でも少なくとも、直哉さんは家にあるとは思ってなかった感じですね。会社に残ってる分、って書いてるなら」
「そうだろうな」
黒崎は頷いた。
「お兄さんの中では、場所の区別はついていたんだと思う。少なくとも、“会社にある何か”として意識していた」
水瀬が、その走り書きを見たまま言う。
「“机まわり”っていうのも、引き出しの中とは限らないですよね」
「ああ」
黒崎は答えた。
「限らない。机の近くにあったもの全体を指していた可能性もある」
亜希がそこでぽつりと聞いた。
「兄は、わざとそうしたんだと思います」
「何がですか」
佐伯が聞き返す。
「曖昧にすることです。どこにあるか、誰に渡すか、自分でははっきり決めないままにするっていうか」
少し静かになった。
黒崎は、すぐには答えなかった。
「わざと、というよりは」
彼は言った。
「そこまでしかできなかったのかもしれません」
亜希は、その答えを聞いて少し目を伏せた。
「そういう人でした」
そう言ってから、部屋の隅にある衣装ケースへ視線をやった。
「昔、父が入院したときもそうでした」
誰に向けるでもない声だった。
「兄は、手続きのことも必要な書類も、途中まではちゃんと調べるんです。病院にも行くし、説明も聞く。分かってる顔もする。でも、最後の提出とか、誰に渡すかとか、そういうところになると急に曖昧になる」
水瀬は黙って聞いていた。
「そのときも、私に『これ出しといて』って封筒だけ渡して、自分は仕事があるからって帰りました。中に何が入ってるかも、何をどこへ出すのかも、ちゃんと説明しないまま」
亜希は小さく息を吐いた。
「だから、今回だけ急に“最後に妹を頼った”みたいに言われても、私はあまりそう思えないんです」
黒崎は、それに対して慰めのようなことは言わなかった。昔から同じ型で半歩だけ責任を残す人間だったのだとしたら、今回の曖昧さもその延長にある。きれいな最期として意味づけるほうが、むしろ不自然だった。
◇
部屋を一通り見終え、必要なものだけを記録に取って、四人はアパートの前へ出た。夕方の風が、住宅街の細い道をまっすぐ抜けていく。
「後は会社ですね」
佐伯がメモを見返しながら言う。
「あると思いますか」
「確かめるしかない」
黒崎は答えた。
「ただ、誰かが隠したという話とは、また違う気がする」
黒崎は言う。
「私物として持ち帰るでもなく、正式な資料として出すでもなく、会社のどこかに残したまま、自分だけ先に手を離した」
佐伯は少し黙った。
「それって、やっぱり不親切ですね」
水瀬が少しだけ笑う。
「うん。最後まで」
少し離れたところでそのやりとりを聞いていた亜希は、止めようとはしなかった。兄を悪く言われているのに、むしろ自分と同じ場所から見られていることに、奇妙な静けさを見せていた。
「藤倉さん」
黒崎が声をかけると、亜希は顔を上げた。
「はい」
「次は会社を確認します。ロッカー、保管箱、私物整理の流れです。日誌があるとすれば、そのどこかに残っているはずです」
「……お願いします」
「ただ、今日の時点で一つ分かったことがあります」
亜希は答えずに黒崎を見た。
「お兄さんは、見つけてほしかったんだと思います。ですが、ご自分でそれを引っ張り出すつもりはなかった」
亜希は少しだけ唇を引き結んだ。
「はい」
「そこをどう受け取るかは、まだ急がなくて構いません」
黒崎は言った。
「日誌が見つかってから考えても遅くはない」
亜希はしばらく黙っていた。住宅街の先で、自転車のブレーキ音が鳴って、また遠ざかる。
「……見つかったら、もっと腹が立つかもしれません」
「そうかもしれません」
黒崎は答えた。
「ただ、見つからないままでいるよりは、藤倉さんが判断できる状態になります」
亜希は小さく頷いた。納得というより、確認に近い頷きだった。
兄の残したものを探しているのに、その兄を好きになれない。兄が知っていたことを知りたいのに、知れば知るほど、兄が最後までやらなかったことの輪郭も濃くなる。
それでも探すしかないところまで、依頼はもう来ていた。
◇
帰りの電車の窓に映る自分たちの顔を見ながら、佐伯がぽつりと呟いた。
「兄妹って、もっと単純なものかと思ってました」
「単純なときもあるよ」
水瀬が外を見たまま答える。
黒崎は何も言わなかった。ただ、机まわり/灰色の箱/会社に残ってる分という三つの断片を頭の中で並べていた。
残したいものがある人間は、普通、それをもっと届く場所に置く。届きにくい場所へ置くのは、残したい気持ちと、出したくない気持ちが同じだけあるときだ。
直哉は、そのどちらにも決めきれなかったのだろう。
そして、その決めきれなさが、死後になってから妹の手の中へ落ちてきている。問題は、それを会社がどういう顔で持っているかだった。




