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遺品の中の空白 -黒崎探偵事務所 Ⅳ-  作者: 定年プログラマー


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第7章 空白の返し方

 見つかった真実を、どう扱うか。


 黒崎にとって、それはいつも「誰に渡すか」の問題でもあった。警察へ渡せば済む話もある。依頼人に返して終わる話もある。だが、誰か一人に預けた瞬間、その真実がその人間の都合だけで使われるなら、それは別の歪みになる。


 藤倉直哉の私的業務日誌は、まさにそういう種類の記録だった。


 依頼人の亜希にとっては、亡くなった兄が最後に残したもの。会社にとっては、業務に関する記録を含み、労災訴訟の行方にも関わりうる資料。訴訟遺族にとっては、会社の説明の継ぎ目を崩しうる補強資料。

 だが、そのどれにもきれいに収まらない。


     ◇


 亜希が事務所へ来たのは、会社との面談の翌日の夕方だった。


 外はもう暗くなり始めていた。応接スペースの照明が入ると、窓ガラスに部屋の中だけが映る。外より内側の輪郭のほうが濃く見える時間だった。


 杉本がお茶を置き、静かに席へ戻る。今回は全員が同席していた。水瀬、佐伯、杉本、城戸、そして黒崎。


 亜希は最初から、前回までより少し落ち着いて見えた。覚悟ができた、というほど整ってはいない。ただ、もう何が出てきても、それを兄の美談にはできないところまで来ている顔だった。


「会社側と、話をしてきました」


 黒崎が先に言った。


「日誌の存在と内容については、会社側も把握しました」


「……そうですか」


「会社側は総務部の労務課長。それから会社側顧問弁護士が出席しました」


 亜希はわずかに眉を動かした。


「どういう反応でしたか」


「会社側は、この記録を見なかったことにはできないと認めました」


 亜希はすぐには何も言わなかった。安心した顔にはならない。ここまで来てなお、すっきりする要素が一つもないことが、かえってはっきりしてきたからだろう。


 城戸が続ける。


「ただ、そこから先をどう扱うかは、まだ会社が決めていません。正式な会社文書ではない。しかし会社業務に関する内容をかなり含み、係争中の案件にも関わりうる。会社としても、整理が必要な段階です」


「すぐには何も決まらないんですね」


「ええ。ですが、一つだけはっきりしています。会社はもう、この記録の存在を知っている。少なくとも“そんなものはなかった”“把握していなかった”という地点には戻れません」


 亜希は湯呑みを両手で持っていた。前までのように手を添えているだけではなく、今回はしっかり持っていた。


「兄は」


 亜希がぽつりと言った。


「結局、自分では何もしなかったんですね」


 黒崎は少し間を置いてから答えた。


「知っていたことは、日誌に残っています。けれど、それを自分で差し出した形跡はありません」


 亜希は視線を落とした。誰もその沈黙を埋めなかった。


「……兄が最後に私を頼ったんじゃないかって、どこかで思おうとしていたのかもしれません」


 彼女はゆっくりと言葉を探した。


「でも違いました。頼ったんじゃない。自分でできないことを、最後にこっちへ置いただけだったんだと思います」


 水瀬が小さく頷いた。


「そうだと思います」


 亜希は少しだけ苦く笑った。


「はっきり言いますね」


 慰めるための会話ではない。だが、それでよかった。今回の依頼人は、きれいな言い換えより、同じ場所から見てくれる言葉のほうを必要としている。


「ただ」


 黒崎が言った。


「お兄さんがご自分で責任を引き受けなかったことと、会社の中で何もなかったことにされるのは、別の話です」


 亜希は顔を上げた。


「はい。そこは、前より分けて考えられる気がします」


「それで十分です」


 黒崎は言った。


     ◇


 そのあと、事務所内でどうするかの話になった。


 佐伯は最初、率直に言った。


「訴訟遺族の三原さんに、すぐ知らせるってわけにはいかないんですか」


 城戸が答える前に、黒崎が佐伯を見た。


「気持ちは分かる。だが、それをやると、この記録をこちらが勝手に使ったことになる」


「でも、意味のある資料なんですよね」


「意味があることと、今すぐこちらが動かしていいことは別だ」


 城戸が引き取る。


「ここでこちらが一足飛びに訴訟相手へ流せば、“勝手に持ち出された”“不適切に外へ出た”という争点を新しく作ることになります。日誌の中身ではなく、入口の扱いへ話がずれます」


 佐伯はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


「分かります……」


「そうだな」


 黒崎が短く言った。


「嫌なやり方のほうが、今回は正しい」


 杉本がそれを聞いて、少しだけ視線を下げた。


「亜希さんは、どう思われますか」


 亜希が顔を上げる。


「お兄さんの記録が、誰かのための武器みたいに扱われることです。必要な場面で使われることと、最初から誰かを責めるためのものにされることは、少し違う気がします」


 亜希はしばらく黙っていた。


「嫌です」


 短く、そう答えた。


「兄を、遺族の方のために記録を残した人みたいにはしたくありません。そんな立派なことをしたかったなら、あの人は生きているうちにやっていたはずです」


 そこで一度、言葉を切る。


「だけど、じゃあ私が“兄の代わりに私が訴えます”みたいにするのも違うと思います。そんな資格が私にあるとも思わないし」


 それを聞いた杉本が、控えめに言った。


「亜希さん。それでいいと思います」


 黒崎は、それを否定しなかった。

 部屋の空気が静まった。

 亜希は何も言わなかったが、しばらくして、ようやく一度だけ頷いた。


     ◇


 結論として、黒崎たちはこう決めた。


 日誌は、その存在と内容の重さを確認したうえで、会社と会社側顧問弁護士が正式に管理を引き受ける形にする。


 ただし、それは“会社のものだから会社に返す”という単純な話ではない。もう知らなかったとは言えない状態で、会社側に扱いを引き受けさせるためだった。


 その場を整えたのは城戸だった。


「形式としては」


 彼は説明する。


「会社側と顧問弁護士に対し、日誌の存在・内容確認の事実を記録し、今後の扱いはそちらの判断に委ねる。ただし、こちらも確認した以上、その存在が消えたことにはならない」


 佐伯が言う。


「つまり、“返す”けど、“なかったことにもできない”ってことですね」


「そういうことです」


 城戸は頷く。


 亜希はその説明を聞いたあと、静かに尋ねた。


「会社が、それでも何もしなかったらどうなりますか」


 城戸は少しだけ考えてから答えた。


「法的には、まだできることはあります。ただ、それは次の段階の話です。今ここで大事なのは、会社がこの記録を知ったうえでどう振る舞うかの選択を、まず自分たちで引き受けることです」


「逃げ道をなくす」


「ええ」


 黒崎が短く言った。


「少なくとも、“知らなかった”という逃げ道はなくなります」


 亜希は、その言葉にだけすぐ頷いた。


「それでいいです」


 声は小さかったが、迷いはなかった。


「兄の代わりに何かしたいわけじゃありません。でも、兄がやらなかったことまで、向こうの都合で片づけられるのは嫌です」


     ◇


 東西化成工業の応接室。前回と同じ顔ぶれに、今回は余計なやりとりが少ない。滝口も、御厨も、もう何について話す場なのか分かっているからだ。


 城戸が文書を机上に置き、所在確認の経緯と日誌の位置づけについて短く説明する。その文面は、争いのためのものではなく、曖昧にされていた事実を固定するためのものだった。


「当方としては」


 城戸が言う。


「この記録を、単純な遺品とも単純な会社資料とも扱い切れないと考えています。ただし、会社業務と係争案件に関わる内容を相当程度含む以上、今後の取り扱いについては、まず御社と顧問弁護士において整理されるべきと判断しました」


 御厨はそれを静かに聞いていた。


「こちらとしては」


 黒崎が続ける。


「この記録を、もう未確認の保留物には戻せません。その前提で、御社がどう扱うかを判断していただくしかないと考えています」


 滝口は、前回よりも疲れた顔に見えた。総務の人間として、書類を受け取ることには慣れているだろう。だが、これは通常の受領とは違う。会社が今まで知らずにいた故人の認識を、そのまま引き取らされる受け取り方だった。


「分かりました」


 御厨が答えた。


「少なくとも、社内で未確認の保留物として扱うことはもうありません」


 それだけだった。だが、それで十分だった。


     ◇


 帰り道、亜希は事務所の前で立ち止まった。


 夜風は冷たかったが、冬のように刺す冷たさではない。季節の変わり目の風だった。終わったものと、まだ終わっていないものの間を抜けていく。


「これで、終わりなんですね」


 彼女が言う。


「一応はそうです」


 黒崎が答えた。


「向こうが何をするかは、これからですが」


「はい」


 亜希は少しだけ笑った。明るい笑いではないが、最初の日に比べると、ようやく自分の足で立っている人の顔だった。


「兄のこと、最後まで分かったとは思えません」


「そうでしょうね」


「たぶん、これからも腹が立つと思います」


「そうだと思います」


「でも」


 亜希は一度、夜の空気を吸い込んだ。


「会社の中で、何も知らなかった人にされるのは違うっていうのだけは、言えた気がします」


 黒崎は頷いた。


 それで十分だった。兄を赦せたかどうかではない。兄の弱さごと、美談にも無言にもさせない位置まで持ってこられた。

 それがこの依頼の終わりだった。


 杉本が横で静かに言う。


「お疲れさまでした」


 亜希は小さく頭を下げた。


「ありがとうございました」


 佐伯は見送りながら、ぽつりと呟いた。


「結局、会社が何をするかは分からないままなんですね」


「そうだな」


 水瀬が答える。


「でも、知らないままではいられなくなった」


「それで十分なんですか」


「十分じゃないかもしれない」


 黒崎が言った。


「だが、そこから先はもう、こちらが決めることじゃない」


 事務所へ戻る階段を上がりながら、黒崎は思った。真実は、見つけたところで終わるわけではない。誰がそれを持つのか、そこからまた始まる。


 直哉はその手前で手を離し、会社も長く放っておいた。その空白を、もう一度曖昧な場所へ戻さないことだけを、今日ようやく決めたのだった。


---


エピローグ


 兄の遺品整理が、ようやく終わりに近づいていた。


 大きな家具は処分先が決まり、書類も必要なものと不要なものに分け終えていた。藤倉亜希は、兄が使っていたアパートの押し入れの奥に残っていた最後の箱を引き出した。

 前にも何度か目に入っていたが、古いガムテープで閉じられ、側面にも何も書かれていなかったせいで、衣類か雑誌の類だろうと勝手に思っていた。重さも中途半端で、急いで開ける必要のあるものには見えなかった。


 箱を持ち上げると、中で何かが小さく擦れた。紙ではない。硬いものがいくつも重なっているような音だった。


 カッターでテープを切ると、中には透明なケースやスリーブに入ったカードが、几帳面に束ねられて並んでいた。色褪せた紙箱に入っているものもあれば、ファイルに整理されているものもある。


 兄が昔、何かを集めていた記憶は、うっすらあった。けれどそれが今も残っていて、しかもこんなふうに丁寧にしまわれているとは思わなかった。


 一番上に、折りたたまれた小さなメモが置かれていた。


 亜希はそれを開いた。


 亜希、迷惑をかけた。これを売って、お前の役に立ててくれ。


 それだけだった。


 日付もない。何についての迷惑なのかも書いていない。どうして今まで黙っていたのかも、どうしてこういう形なのかも説明しない。


 あまりにも兄らしくて、亜希はしばらくその紙を見たまま動けなかった。


「……ほんとに、こういうとこだよね」


 誰もいない部屋で、小さく口に出した。


 謝るならもっと早く謝ればよかった。渡すなら、生きているうちに渡せばよかった。役に立ててくれと言うなら、せめて中身の説明くらい書いておけばよかった。


 けれど兄は、最後まで兄だったのだろう。全部は言わない。その代わり、全部黙って終わることもできなかった。


     ◇


 後日、亜希は専門店のカウンターの前に座っていた。


 兄のコレクションがトレーディングカードだと分かっても、その価値はまるで想像できなかった。古いものらしいことも、保存状態がいいらしいことも、説明を聞けばそうなのかと思うだけで、結局は紙の束にしか見えない。兄がなぜこんなものを集めていたのかも、いつから続けていたのかも知らなかった。


 鑑定士は、最初は穏やかな表情だった。よくある遺品整理の相談だと思っていたのだろう。カードを一枚ずつ確認しながら、保存状態がいいですね、整理されていますね、と事務的に話していた。


 だが途中から、明らかに様子が変わった。


 手つきが慎重になり、カードを置く位置が少し変わり、言葉数が減った。穏やかな表情だったはずの顔が、だんだん仕事の顔になっていく。


 最後に提示された金額を聞いても、亜希はすぐには意味が分からなかった。


「……すみません」


 思わず聞き返す。


「今の、全部で、ですか」


「はい」


 鑑定士は金額を書いた紙を、静かに差し出した。


「状態と内訳を考えると、このくらいになります」


 亜希はその数字を見た。一度見て、それからもう一度見た。新車が一台、無理をせず買える。

 そう思ったとき、ようやく少しだけ現実味が出た。


 兄は、こんなものを押し入れの奥に積んだままにしていたのか。誰にも話さず、何も言わず、最後の最後になって、あんな短いメモだけ残して。


 怒るより先に、力が抜けた。兄は、最後まで不親切な人だった。だが、不親切なままでも、何かを返そうとはしていたのかもしれないと、そのとき初めて思った。


     ◇


 帰りに入った喫茶店で、亜希は査定額の紙と兄のメモを並べて置いた。


 外では、夕方の買い物帰りらしい人たちが絶えず行き交っていた。誰もがそれぞれの生活へ戻っていく時間だった。


 亜希は、兄のメモをもう一度開いた。


 亜希、迷惑をかけた。これを売って、お前の役に立ててくれ。


 日誌のことでは、兄は最後まで自分で引き受けなかった。何を知っていたのかも、どうするべきだったのかも、曖昧なまま残した。けれどこの箱だけは、使い道まで書いてあった。


「遅いんだよ」


 小さく呟く。責めるためというより、ようやく届いた何かに対して、ちょうどいい距離を測るような言い方だった。


 遅すぎる。勝手だ。腹も立つ。

 それでも、何を残されたのか分からないまま立ち尽くしていたときよりは、少しだけ先へ進める気がした。


 まずは自分のために使おう、と亜希は思った。少し休んでもいい。今まで先延ばしにしてきたことを、自分で決めてもいい。

 兄の代わりに何かをする必要はない。ただ、自分の生活を、自分の側へ戻していけばいいのだと思った。


 外は、もう夕方の色を越えかけていた。全部は戻らない。兄のことを許したわけでもない。

 たぶん、これからも腹は立つ。


 それでも、最後まで何も渡さなかったわけでもなかったのだと、亜希はそのとき初めて思った。


 メモを折りたたみ、財布にしまう。そして伝票を持って立ち上がった。

 兄の金で払うには、まだ少し早い気がして、会計は自分の財布から出した。



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