第5話
中藤と原井場のやりとりから数十分後、原井場は1階の廊下を歩いていた。自室へ戻ってからも、中藤の言葉が頭から離れなかった。
「中藤……ムカつく女だな」
誰に聞かせるでもなく吐き捨てる。本人確認をしていなかったのは事実だ。しかし、それをあの女に指摘される筋合いはない。小川三緒という人物が実在することは調べている。自分ほどネットに詳しい人間が、簡単な詐欺に引っかかるはずがない。原井場は1階へ下りると、食堂の前を通りかかった。中では俊夫が食器を並べている。テーブルの上には白いクロスが敷かれ、銀色のナイフとフォークが等間隔に並べられていた。
「ちょっといいですか」
俊夫が顔を上げる。
「何でございましょう」
「酒ってあります? ビールでもウイスキーでも何でもいいです」
俊夫は壁に掛けられた時計へ視線を向けた。
「間もなくご夕食でございますが」
「分かってますよ。食前酒ってあるでしょう」
「もちろんご用意できますが……夕食までお待ちいただいた方がよろしいかと」
遠回しに断られたように感じ、原井場は眉をひそめた。
「別に酔っぱらうまで飲むつもりはないですよ。少し飲みたいだけです」
俊夫は一瞬だけ黙り込んだが、やがて食堂の隣にあるリビングを示した。
「リビングの棚に洋酒がございます。グラスは棚に……」
「最初からそう言ってくれればいいんですよ」
原井場は礼も言わず、リビングへ入った。部屋の中央にはローテーブルが置かれ、その周囲を囲むようにソファが並んでいる。壁際の棚には、ラベルの異なる酒瓶が何本も収められていた。原井場は迷うことなく、見覚えのある銘柄のウイスキーを手に取る。
「これ、結構高いやつじゃん」
機嫌を取り戻したように呟き、瓶を光に透かして眺める。ほどなくして俊夫が氷の入った小さな容器を運んできた。
「お水もお持ちいたしましょうか」
「いらないです。ロックでいいんで」
「かしこまりました。飲み過ぎにはお気を付けくださいませ」
「分かってますよ、子どもじゃないんだから」
俊夫は何も答えず、一礼して部屋を出ていった。原井場はグラスへ氷を落とし、ウイスキーを注いだ。一口飲むと喉の奥が熱くなり、胸に溜まっていた苛立ちが少しだけ和らいだ。
「警戒心が足りない、ねぇ……」
中藤の冷たい顔を思い浮かべながら、もう一口飲む。
「自分がちょっと頭いいからって、偉そうにしやがって」
「分かる」
突然背後から声がして、原井場は振り返った。リビングの入口に獅子谷が立っていた。
「獅子谷さんか」
「さっきの話、聞こえてた。小川さんが偽物かもしれないって言われたんでしょ?」
獅子谷はソファへ腰を下ろし、酒瓶を見た。
「私にも一杯もらえる?」
「どうぞ。どうせ俺の酒じゃないし」
原井場はグラスへ酒を注いで差し出した。
「ありがと。それにしても中藤さん、何様なんだろうね」
「何の仕事してるかも言わないくせに、偉そうなんすよ。大した肩書じゃないんじゃないですか」
「ありそう」
獅子谷は酒を口にした。
「獅子谷さんは何してる人なんすか? 小川さんに呼ばれたってことは芸能関係?」
「まあ、芸能って言えば芸能かな。配信したり、コスプレしたりしてる」
「へえ、配信者なんだ」
「バーチャル配信者ね。活動名は獅子乃タテガミ」
「聞いたことある気がしますね」
本当は知らなかったが、流行に疎いと思われたくなかった。
「やっぱり? 企画も衣装も全部自分でやってるから」
「へえ、フォロワーはどれくらい?」
獅子谷の笑顔が一瞬止まった。
「……それなりにいるよ。でも数字だけが全部じゃないから。大事なのはファンの質と影響力でしょ」
「分かりますよ。数が多くても金を生まなきゃ意味がない」
「そうそう。アンチが多いのも注目されてる証拠だし」
「売れてない奴ほど、成功者を叩きたがりますからね」
2人はグラスを掲げ、同時に酒を口にした。
「中藤さんも、私たちが小川さんに選ばれたのが羨ましいんじゃない?」
「だから偽物だって不安にさせようとしたのかもしれませんね」
原井場は笑いながら、先ほどより多めに酒を注いだ。だが、霧坂夫妻が小川を知らなかったことは、まだ胸の奥に引っかかっていた。
「原井場さんは何してる人なの?」
「実業家っす」
「会社経営?」
「まあ、そんな感じですね。ネットワークビジネスやってます」
「へえ、なんか難しそう」
「仕組み自体は簡単ですよ。大事なのは人を集める力で——」
原井場は待っていたとばかりに身を乗り出した。
「今の時代、良い商品を作るだけじゃ売れない……俺みたいに影響力のある人間が……つまり仕組みが重要なんすよ」
「すごいね」
獅子谷は感心したように頷いたが、話の半分も理解していなかった。要するに、この男もSNSを使って何かを売っているらしい。原井場も、獅子谷の配信活動に大きな興味があるわけではなかった。だが、芸能事務所に招待された者同士として、今は味方にしておいた方がいい。
「小川さんが来たら、一緒に話を聞きましょうよ」
「いいね。中藤さんにも本物だったって分からせたいし」
「どんな顔するか見ものですね」
2人は顔を見合わせて笑った。獅子谷は残りの酒を見て、グラスを置く。
「あぶな。飲みすぎるところだった」
「この辺にしときましょうか」
「お二人とも、夕食前から随分楽しそうですね」
入口から聞こえた声に、原井場と獅子谷が振り返る。細貝が酒瓶を眺めながら立っていた。
「細貝も飲む?」
会ったばかりの相手から当然のようにタメ口を使われ、細貝は少し驚いた。
「僕は遠慮します。空腹で飲むと判断力が落ちますから」
「1杯ぐらいで大げさだな」
「細貝くんって真面目だよね」
獅子谷まで馴れ馴れしく呼び、細貝は内心で眉をひそめた。
「酔って夕食に出ると印象が悪くなりますよ。この中に仕事につながる人がいるかもしれないでしょう」
「俺たちは小川さんに呼ばれたんだから、他の奴らなんて関係ないだろ」
「まだ分かりませんよ」
細貝は2人の向かいへ腰を下ろした。
「そもそも、職業が分かっているのは僕と榊原さんくらいです。それ以外の人は名前しか名乗っていませんから」
「俺たちは今、教え合ったよ」
「そうですか。誰がどんな理由で呼ばれたのか、情報は整理しておいた方がよさそうですね」
「また中藤みたいなこと言うの?」
獅子谷が顔をしかめる。
「中藤さんと何かあったんですか?」
原井場は、中藤とのやりとりと、ついでに自分たちの職業も伝えた。
「つまり、小川さんの身元は確認していないんですね」
細貝が淡々と言うと、原井場は苛立たしげにグラスを揺らした。
「事務所が実在してるのは分かってる。それで十分だろ、中藤と同じこと言いやがって」
「事務所が実在することと、連絡してきた人が社長本人であることは別です」
「お前まで俺たちが騙されたって言いたいの?」
「騙されたとは言っていません。確認が必要だと言っているだけです」
「同じじゃん」
獅子谷が不満そうに口を挟む。
「だったら、2人に届いた招待状を見比べませんか」
「何でお前に見せなきゃいけないんだよ」
「小川さんが本物だと証明したいんですよね?」
「本物に決まってるから、証明する必要なんてない」
「確認していないのに、なぜそう言い切れるんですか?」
原井場は答えず、酒を口へ運んだ。空腹のせいか、頬が赤くなり始めている。
「細貝くんって、人を疑うことしかできないの?」
「疑っているのではなく、確認しているだけです」
「そういう細かい言い方が感じ悪いんだよね」
「確かにな。自分だけ頭いいと思ってるタイプ」
細貝は否定したが、2人より冷静に状況を見ているとは思っていた。
「中藤さんの職業は聞いたんですか?」
「聞いてない。名前しか言ってなかったよ」
獅子谷が答える。
「大した仕事じゃないんじゃない?」
「職業を言っていないのは中藤さんだけではありません。全員に伝えたのは、僕と榊原さんくらいです」
「俺たちは今、教え合ったって言っただろ」
「2人の間だけでしょう。招待された理由を考えるなら、他の人の経歴も知る必要があります」
「俺たちは小川さんに才能を認められたんだよ」
「小川さんが本当に2人の活動を知っていたか、確認しましたか?」
「私の配信を見ていたって書いてあったから」
「具体的な内容には触れてました?」
獅子谷は黙り込んだ。
「細貝、さっきから何が言いたいんだよ」
「小川さんが来なかった場合に備えるべきだということです」
「来るよ」
「来なかった場合の話です」
原井場はイライラしながらグラスへ酒を注ぎ足した。
「もうやめた方がいいんじゃないですか?」
「細かいな、お前。細貝だけに」
「……好きにしてください。ただ、夕食には遅れないでくださいね」
細貝は腕時計を見る、午後5時45分。
「まだ15分あるだろ」
「15分しかありません」
「この程度で酔わないって」
原井場はそう言って酒を飲んだが、声は先ほどより大きくなっていた。
「細貝くんは何しに来たの?」
「声が聞こえたので寄っただけです。揉めているのかと思いました」
「細貝くんが来るまでは楽しく話してたよ」
「そうですか。それは失礼しました」
細貝は立ち上がった。
「小川さんが来なければ、メッセージを確認させてください」
「来るから必要ない」
「来なかった場合です。その時は僕も見せますから」
「分かったよ、しつこいな」
「必要な確認ですから」
細貝は悪びれずにリビングを出ていった。
足音が遠ざかると、獅子谷が鼻を鳴らす。
「何、あの人。ずっと上から目線じゃない?」
「IT系ってだけで、俺たちより頭いいと思ってるんだろ」
「中藤さんと気が合いそう」
「お似合いだな」
小川は必ず来る。原井場はそう信じようとしたが、霧坂夫妻が小川を知らなかった事実は、胸の奥に残り続けた。




