第24話
榊原はカップを持ち上げ、少し冷めたコーヒーを口へ含んだ。香りは薄くなっていたが、飲めないほどではない。ゆっくりと喉を通すと、カップをソーサーへ戻した。
食堂は静かだった。料理の多くは手つかずのまま残り、誰も積極的に口を開こうとはしない。春山は俯き、原井場と獅子谷はぼんやりとテーブルを見つめている。中藤は食事を終えていた。真門は椅子にもたれ、目を閉じている。
昨日まで10人いた招待客は、8人になった。
「……このまま座っててもしょうがないな」
白石が口を開いた。
「まだ確認してない場所がある」
「どこです?」
「船着き場だ」
「せや。それや。宇治山の船が残っとるかもしれへん」
真門は椅子から体を起こした。
「昨日から言うとるやろ。もし船が残っとるんなら、こんな島にいつまでもおる必要ないやんけ」
「操縦できるの?」
獅子谷が尋ねる。
「知らんわ。船見てから考えたらええやろ」
「確認する意味はあるでしょう」
中藤が口を挟んだ。
「中藤さんの言う通り。ここで推測を続けるよりは有意義だと思います」
「船着き場までは片道20分だったな」
白石が尋ねると、俊夫が頷いた。
「はい。一本道でございます」
「行くなら今だな」
白石が立ち上がる。
「全員で行くつもりかね?」
榊原が尋ねた。
「そのつもりだったが」
「私は反対だ。全員で屋敷を空ける必要はあるまい」
「犯人が屋敷にいるかもしれませんよ」
「だからこそだよ。留守の間に何をされるか分からん。複数人で残るべきだ」
「一理あるな……」
白石は少し考えてから言った。
「俺は行く」
「僕も」
「私も行くわ」
細貝と中藤も立ち上がった。
「ワシもや。船があるなら帰れるかもしれへん」
白石は残る者へ目を向けた。
「原井場は?」
「行かねえよ。可憐さん、外で殺されたんだぞ? 犯人が外にいるかもしれないのに、何でわざわざ出なきゃなんねえんだよ」
「俺たちは4人いる」
「人数の問題じゃねえだろ。尺蛇さんだって鍵掛けてたのに殺されたんだぞ」
「俺も細貝もいる。少なくとも1人で行くわけじゃない」
「アンタがいたって可憐さんは死んだだろ」
食堂の空気が重くなった。
原井場も口にしてからまずいと思ったのか、すぐに視線を逸らす。
「……別に責めてるわけじゃないけどさ」
「分かってる」
白石はそれ以上何も言わなかった。
「私も行かない」
獅子谷が言った。
「さっきあんなの見たばっかりなのに、また外歩くなんて無理」
「ワシかて怖いわ。せやから船探すんやろ」
「見つかる保証ないじゃん」
「……もうええわ、好きにせえ」
白石は春山を見る。
「春山さんは?」
春山は窓の外へ視線を向けた。
「すみません。私も……残っていいですか」
「ああ。無理に来る必要はない」
「ありがとうございます……」
春山は小さく頭を下げた。
「俊夫さんたちは?」
「私どもはどちらでも」
「一本道なら案内はいらない。2人とも残ってくれ」
白石が言うと、俊夫と恵は一礼した。
「決まりだな」
榊原が言った。
「白石君、細貝君、中藤さん、真門君が船着き場へ。私と春山さん、原井場君、獅子谷さん、それに霧坂夫妻が残る」
「残る方もできるだけ集まっててくれ。1人では行動するな」
「またそれか?」
原井場が嫌そうな顔をする。
「可憐さんがどうなったか忘れたのか」
「……分かったよ」
「榊原さん。残る方は頼めるか?」
「もちろんだ。君は船着き場の確認に集中したまえ」
「あ、それと榊原さん」
細貝が呼び止めた。
「可憐さんの罪状が書かれた紙、リビングに置いてありますよね」
「ああ」
「僕たちが戻るまでに、もう一度確認しておいてもらえませんか?」
「確認、と言うと?」
「尺蛇さんの時と同じように、犯人がわざわざ残したものです。書かれている内容だけじゃなくて、言葉遣いや文章の癖にも何か意味があるかもしれない」
「なるほど」
榊原は小さく頷いた。
「分かった。目を通しておこう」
「お願いします」
細貝は軽く頭を下げた。
白石は腕時計を確認した。
「往復を入れて1時間くらいだ」
「戻らなかったら?」
獅子谷が尋ねる。
「何かあったと思ってくれ。ただし迎えには来るな」
「言われなくても行かないけど」
「何か見つけても無理に触るなよ」
榊原が言った。
「分かってる」
「真門君もだ」
「なんでワシだけ名指しやねん」
「君が一番勝手に動きそうだからだよ」
「失礼な爺さんやな……」
白石たちは玄関へ向かった。
「1時間だ。頼むぞ榊原さん」
白石が念を押す。
「ああ。分かっている」
榊原が答えると、やがて扉が閉じた。
足音が少しずつ遠ざかっていく。
屋敷には6人が残された。
「……急に静かになりましたね」
春山が呟く。
「ずっとここにいなきゃダメなの?」
「少なくとも彼らが戻るまでは、勝手な行動は慎むべきだろう」
榊原が答える。
「食堂にずっといるのも嫌なんだけど」
原井場が言った。
「リビングなら隣だよな?」
「はい」
俊夫が答える。
「なら全員で移ればよい」
原井場と獅子谷、春山が先にリビングへ向かった。
「私どもも参りましょうか?」
俊夫が尋ねる。
「先に食器を片づけたまえ」
「ありがとうございます」
「可憐さんの紙は?」
「リビングに置いてございます」
「そうか」
榊原もリビングへ向かった。原井場はソファへ横になり、獅子谷はスマートフォンを眺めている。春山は少し離れた場所へ座っていた。榊原も椅子へ腰を下ろす。
数分後、原井場が大きくため息をついた。
「暇だな……」
「この状況で暇って言えるのすごいですね」
「じゃあ何すりゃいいんだよ。ずっと可憐さんのこと考えてろって?」
「そういう意味じゃないですけど」
「ならいいじゃん」
「少し静かにしたまえ」
榊原が言う。
「別に喧嘩してないっすけど」
「そうなる前に言っている」
榊原は腕時計を見る。
白石たちが出てから10分ほどしか経っていない。
「……私も少し休むとしよう」
榊原が立ち上がる。
「え?」
春山が顔を上げた。
「部屋へ戻る」
「でも白石さん、1人になるなって……」
「承知しているよ」
「だったら――」
「自室へ戻って鍵を掛けるだけだ」
「尺蛇さん、それで殺されたじゃん」
原井場が言った。
「だからといって、今後ずっと全員で一部屋に集まって生活するつもりかね?」
「そんなこと言ってないけど」
「少し身体を休めるだけだ。心配してくれるのはありがたいが、私は子どもではないよ。何かあれば声を上げる」
「好きにすればいいじゃん」
獅子谷がスマートフォンから目を上げた。
「本人が大丈夫って言ってるんだから」
「獅子谷さんの言う通りだ」
獅子谷は少し眉をひそめたが、榊原は気にしなかった。
「部屋に戻ったとして、私以外の全員がここに集まっている。犯人が外にいるならば警戒する必要はあるまい」
榊原はそう言ってから、ふと考えた。犯人が外にいる。
その可能性は、決して低くないのではないか。
先ほど屋敷を出ていった4人を思い浮かべる。
白石、細貝、中藤、真門。
誰が犯人であっても不思議ではない。
白石はこれまで一貫して皆をまとめようとしてきた。元警察官という経歴もあり、事件が起こるたび現場へ近づき、証拠を確認し、今後の行動まで決めている。もし白石自身が犯人なら、これほど都合のよい立場もない。以前、原井場たちが白石を疑った時には、自分がそれを咎めたが、あの時とは状況が違う。今は2人目まで殺されている。
細貝も同じだ。
合鍵の封印からU.N.オーエン、そして可憐の罪状まで、細貝は重要なものを次々と見つけている。頭の回転が速いことは認めている。しかし、発見したのが本人だからといって、最初からそこにあったとは限らない。すべて自作自演だとしたら?
榊原はわずかに眉を寄せた。
中藤も信用できない。昨夜から何が起きてもほとんど取り乱さず、人が死んだ直後ですら食事を続けていた。もちろん、感情を表に出さないことと殺人は別問題だが、彼女自身も昨日会ったばかりの人間同士が信頼し合うことなどできないと言っていた。ならば、こちらも同じだ。彼女を信頼する理由など、どこにもない。
最後に真門。短気で粗暴。元暴力団員であることも本人が認めている。今朝、尺蛇の遺体を見た際には明らかに動揺していたが、それすら演技ではないとは言い切れない。もっとも、あの男にここまで周到な計画を立てられるとは思えないが。
榊原はそこで思考を止めた。決めつけるべきではない。
証拠もない段階で、人を犯人と断定する。それこそ自分が何十年も避けてきた行為だ。
しかし、警戒することと断定することは違う。少なくとも、あの4人を無条件に信用する理由はなかった。
そもそも妙ではないか。白石が船着き場を調べると言い出し、細貝、中藤、真門がすぐに同行を申し出た。
偶然と言えばそれまでだ。
だが、4人のうち誰かが犯人なら。もしくは全員が共犯だとしたら。
「榊原さん?」
春山の声で、榊原は我に返った。
「どうしました?」
「いや。少し考え事をしていただけだ」
榊原は誤魔化し、ローテーブルへ目を向けた。
そこには、細貝から確認を頼まれていた1枚の紙が置かれている。
「そうだったな」
榊原は立ち上がり、紙の前まで歩いた。
「私、もう見たくないんですけど……」
「無理に見る必要はないよ」
榊原は紙に触れないよう、テーブルの上へ置かれたまま文章へ目を走らせた。
『可憐真由子。貴様は――』
最後まで読み終え、今度は最初からもう一度読む。文章そのものは単純だった。
尺蛇の時とほぼ同じ構成だ。
「……なるほどな」
「何か分かったんですか?」
春山が尋ねる。
「いや。今のところは何とも言えん」
榊原は紙から目を離さないまま答えた。
「ただ、この紙に書かれていることが、すべて客観的な事実だという保証はない」
榊原は腕を組んだ。
「尺蛇君の時にも言ったはずだ。犯人が書いた文章なのだよ。我々がそれを無条件に事実として受け入れる理由はない」
「でも……可憐さん、これ読んでたんですよね」
「それと内容が正しいことは別問題だ」
「そうですけど……」
春山は納得しきれない様子で口を閉ざした。榊原は再び罪状へ目を落とす。
ここで裁きを下す、とは随分と独善的な文章だ。
罪があるか否かを決めるのは、こんな紙切れではない。法だ。
証拠を集め、双方の言い分を聞き、その上で判断を下す。少なくとも自分は、そうしてきた。
「裁き、か……」
「え?」
「いや、随分と大層な言葉を使うものだと思ってね」
榊原は鼻で笑った。
どこの誰かも分からない人間が、勝手な基準で人を罪人と決めつけ、命まで奪う。
裁判官の真似事にもなっていない。
昨日の録音では、この島にいる12人全員を罪人だと言っていた。ということは、自分も含まれていることになる。
馬鹿馬鹿しい。自分は何十年も司法に携わってきた。
確かに判決を不服とする者は大勢いた。恨みを買った覚えも、一度や二度ではない。
だからといって、それが罪になるはずがない。
一瞬だけ、息子の顔が脳裏をよぎった。榊原はすぐにその記憶を追い払った。
あれも同じだ。親として厳しくしたことはある。だが、虐待などではない。社会へ出れば、理不尽なことも苦しいこともいくらでもある。父親として、それに耐えられる人間に育てようとしただけだ。耐えられないあの子が弱かった。それだけの話だ。
「……くだらん」
榊原は小さく呟いた。
「何がです?」
「何でもない」
紙から離れる。
「細貝君には、文面の形式が尺蛇君のものと似ていると伝えれば十分だろう。戻ってきたら改めて話す」
「もういいんですか?」
「ああ。これ以上眺めていても、新しいものは出てこんよ」
榊原は腕時計へ目を落とした。
白石たちが出発してから、20分ほど経っている。
「では、私は部屋へ戻らせてもらう」
「本当に1人で大丈夫ですか?」
春山がもう一度尋ねる。
「何度も言わせないでくれたまえ」
思ったより強い口調になった。
春山が僅かに肩を縮める。
「……すまない」
榊原は声を戻した。
「だが、心配しすぎだよ。私は少し休むだけだ」
原井場がソファから顔だけを向ける。
「死んでも知らないっすよ」
「縁起でもないことを言うものではない」
「俺は止めたからね」
「分かった、分かった」
榊原は呆れたように返した。
白石たち4人は、今頃船着き場へ着く頃だろう。
若者が多いあの4人なら、もう探索を始めているのだろうか。真門が息切れしている様子が目に浮かぶ。
仮に犯人があの中にいるのなら、少なくとも今、この屋敷にはいない。
残っている彼らを完全に信用しているわけではないが、原井場と獅子谷が可憐の遺体を発見した時の取り乱し方は、少なくとも自分には演技に見えなかった。春山も先ほどまで自責と怒りで感情を乱していた。霧坂夫妻は屋敷に詳しいという点では警戒すべきだが、今は2人とも厨房にいる。
それでも、あの4人に比べれば警戒の必要は薄い。
犯人が4人の中にいるのなら、今この屋敷はむしろ安全だ。
榊原はそう結論づけた。
階段を上がり、201号室へ向かう。
廊下には誰もいない。自室へ入り、扉を閉めた。鍵を掛け、念のためドアノブを回すが動かない。
「これで十分だろう」
尺蛇の件がある以上、鍵を掛ければ絶対に安全とは言えない。
しかし、扉の前に家具まで置く必要はない。
何をしても危険だと言うのなら、警戒そのものが無意味になってしまう。
榊原はジャケットを脱ぎ、椅子の背へ掛けた。ベッドへ腰を下ろす。
静かだった。階下から話し声が微かに聞こえる。
春山たちはまだリビングにいるのだろう。
ならば問題ない。
榊原はゆっくりと息を吐いた。
犯人があの中にいるとすれば、誰だ。
「……さて。帰ってきたら、少し注意して見ておく必要があるな」
榊原は目を閉じた。




