第23話
榊原の言葉に、誰も何も返さなかった。
白石はしばらく可憐の遺体を見つめていたが、やがて立ち上がった。
「……話は後だ。可憐さんを屋敷へ戻す」
「動かすのかね?」
榊原が尋ねる。
「本当なら警察が来るまでこのままにしておくべきだが、新庄が戻るのは早くても2日後だ」
白石は空を見上げた。
「それまで、ここに放置しておくわけにもいかない」
「証拠はどうするんです?」
少し離れた場所から細貝が尋ねた。
「凶器が見つからない以上、証拠も何もないだろう」
「いや、ありますよ」
細貝が即座に返した。
「血の跡も、遺体の位置も、眼鏡が落ちている場所も証拠になり得ます。僕たちには詳しく調べられませんけど、少なくとも動かす前の状態は残しておいた方がいい」
白石は可憐の周囲へ目を向けた。
赤黒く染まった地面。少し離れた場所に転がる眼鏡。物置小屋へ続く血の跡。
「……そうだな」
白石はポケットからスマートフォンを取り出した。
「何枚か撮っておく」
「僕も撮ります。違う角度から残しておいた方がいいでしょう」
「地面を踏み荒らすなよ」
「分かってます……ん? ちょっと待ってください」
細貝の一言に白石の視線が止まった。
可憐の右手から少し離れた場所に、泥で汚れた一枚の紙が落ちている。
「何だ?」
「紙です。さっき、ありました?」
「いや……気づかなかったな」
細貝はその場にしゃがみ込んだ。
湿った地面に落ちていたせいか、紙の端には泥が染み込んでいる。それでも、文字までは滲んでいなかった。
「まだ触るなよ。読むのは撮ってからだ」
細貝はスマートフォンを取り出し、紙が落ちている状態を数枚撮影した。
白石も隣から写真を撮る。
「……拾いますよ」
細貝は文字の書かれていない端をつまみ、慎重に持ち上げた。
泥のついた紙を広げた瞬間、表情が変わる。
「……何だ、それ」
白石が覗き込む。
紙の一番上には、大きな文字で名前が書かれていた。
『可憐真由子』
一同の間に、嫌な沈黙が落ちた。
「また……あれか?」
真門が遠くから尋ねたが、細貝は答えずにその下に続く文章へ目を走らせた。
『可憐真由子。貴様は2015年、担任していた生徒がいじめを受けていることを知りながら、適切な対応を取らず放置した。その結果、生徒は自ら命を絶った。だが、貴様は今なお自らの責任を認めようとはせず、学校や周囲の人間、果ては被害者本人にまで責任を求めている。救いを求めた者から目を背け、その死さえ己を正当化するために利用する者に、教育者を名乗る資格はない。故に、ここで裁きを下す。』
読み終えた細貝は、しばらく紙を見つめたまま何も言わなかった。
「何て書いてあるんだ?」
原井場が尋ねる。
細貝は顔を上げた。
「……尺蛇さんの時と同じです。可憐さんの罪について書かれています」
春山の顔が強張った。
「罪って……何ですか?」
細貝は一瞬だけ可憐の遺体へ視線を向けた。
「……2015年にいじめられていた教え子を放置して、その子を自殺させた、と」
「嘘やろ」
真門が眉をひそめた。
「あのオバハン、そんなこと一言も言うてへんかったぞ」
「言うわけないでしょう」
中藤が冷静に返した。
「本当なら、自分に不利な話なんだから」
原井場は何も言わず、細貝の持つ紙を見つめていた。
『アンタみたいにどっちつかずの教師って、平気で生徒のこと冷遇した上に忘れそうだけどな』
つい先ほど、自分が可憐へ浴びせた言葉が頭をよぎった。
あの時の可憐の表情も思い出す。
「……マジかよ」
原井場の呟きに、白石が振り返る。
「どうした?」
「いや……何でもない」
原井場は顔を背けた。
白石は可憐の遺体を見下ろした。
「……殺した後に置いたのか?」
「分かりません」
細貝は紙を裏返した。
「でも、この位置なら、可憐さん自身が持っていた可能性もあります」
「本人が?」
「犯人から渡されたとか、どこかで見つけたとか」
細貝は周囲を見回した。
「少なくとも、最初からここに置いてあったとは限らない」
「つまり、可憐さんは殺される前にこれを読んでいた可能性があるってことですか?」
春山が尋ねる。
「あります」
細貝の返答に、春山は黙り込んだ。
白石はしばらく紙を見つめた後、低い声で言った。
「……この話は屋敷に戻ってからだ。まずは、動かす前に残せるものを残そう」
「そうですね」
細貝は罪状を折らないよう端を持ったまま、再びスマートフォンを構えた。
白石と細貝は数枚ずつ現場周辺の写真を撮り、スマートフォンをしまった。
「中藤。悪いが細貝と屋敷へ戻って、俊夫さんを呼んできてくれ。大きなシーツか毛布も頼む」
中藤は余計なことを尋ねず、屋敷へ向かって歩き出した。細貝もその後を追う。
「私たちは?」
春山が尋ねた。
「ここで待ってろ。可憐さんの方には来るな」
春山は小さく頷いた。
「俺、もう戻っててもいい?」
原井場が遠慮がちに口を挟んだ。
「ダメだ。1人になるなと言っただろ」
白石に言われ、原井場は舌打ちした。
「マジでここいたくねえんだよ……」
「それは俺も同じだ」
白石の返事に、原井場は口を閉ざした。
真門も先ほどから可憐のいる方向を見ようとはしない。
腕を組み、森の方へ顔を向けていた。
「真門、大丈夫か?」
「こんなもん見せられて平気な奴の方がおかしいやろ」
真門は吐き捨てるように言った。
「ワシはあっち見いひんからな。運ぶなら勝手にやってくれ」
真門はそれだけ言って黙った。
やがて屋敷の方から細貝と中藤が戻ってきた。
後ろには両腕に白いシーツと毛布を抱えた俊夫が続いている。
「あの紙は?」
「布で包んでリビングに置いてあります。後で確認しましょう」
俊夫が後ろから顔を覗かせた。
「可憐様は……」
「見ない方がいい」
白石が止めると、俊夫の表情が強張った。
「……亡くなられているのですね」
俊夫はそれ以上何も言わなかった。
「可憐さんの部屋まで運ぼう。手伝ってくれ」
「承知いたしました」
「細貝と榊原さんも手を貸してくれ」
4人で遺体をシーツの上へ移し、上から毛布を掛ける。
「行くぞ」
白石の声で、一同は屋敷へ戻り始めた。
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遺体は206号室へ運び込まれた。
ベッドの上に寝かせると、白石は毛布を引き上げて可憐の顔を隠した。
「……行こう」
部屋を出ると、廊下には春山たちが待っていた。
「終わったんですか?」
「ああ」
春山は閉じられた扉を見つめた。
白石は全員へ向き直る。
「とりあえず食堂へ戻る。恵さんもいるはずだ」
「また話し合い?」
獅子谷が嫌そうに言った。
「今すぐ何かを決めるつもりはない。まず休もう」
「賛成だ」
榊原が頷く。
「朝から我々はまともに休めていない。これ以上考えても、同じことを繰り返すだけだろう」
「飯もまだやしな……」
真門が呟いたが、その声にいつもの勢いはなかった。
昼食は、とっくに冷めていた。
食堂のテーブルには、恵が用意した料理が並んだままになっている。
「皆様……」
戻ってきた一同を見て、恵が立ち上がる。
「可憐様は……」
誰も答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「そんな……」
「俊夫さんから後で話を聞いてくれ」
白石が言う。
「今は全員ここにいてくれ」
「……承知いたしました」
一同はそれぞれ席へ着いたが、誰も料理に手を伸ばそうとはしなかった。
真門ですら、皿を見つめているだけだった。
そんな中、中藤だけがフォークを手に取った。
冷めた料理を一口食べ、何事もなかったように咀嚼する。
「……冷めてるわね」
それだけ言って、再びフォークを動かした。
春山は隣の席へ目を向けた。
料理が1人分、手つかずのまま残されている。
「……恵さん。これ……片づけてもらえますか」
「あ……申し訳ございません」
恵が可憐の皿へ手を伸ばす。春山はその手元を見つめていた。
「……私、一緒に行けばよかった」
春山の呟きに、細貝が顔を向けた。
「春山さん、あなたが悪いわけじゃありませんよ」
「でも……私、一緒に行きますって言ったんです」
春山は膝の上で手を握る。
「可憐さんが1人で行くって言ったから、それで……」
「本人が断ったのでしょう? なら、あなたに責任はありません」
細貝はあっさりと言った。
「結果を知った後なら、いくらでも別の選択肢は考えられますから」
春山は答えなかった。
自分のせいではないとは分かっていても、胸の奥に重いものが残る。
ふと顔を上げると、向かい側に原井場が座っていた。
原井場も食事には手をつけず、ぼんやりとテーブルを見ている。
その顔を見た瞬間、春山の頭に別の光景が浮かんだ。
『アンタみたいにどっちつかずの教師って、平気で生徒のこと冷遇した上に忘れそうだけどな』
あの後、可憐は明らかに怒っていた。
「……そもそも」
春山が口を開く。
「原井場さんが、あんなこと言わなかったら……」
「……は?」
原井場が顔を上げる。
「可憐さん、1人になろうと思わなかったんじゃないですか?」
食堂の空気が変わった。
「ちょっと待てよ」
原井場が眉をひそめる。
「何? 俺のせいだって言いたいの?」
「そういうわけじゃないですけど……あんな言い方する必要なかったじゃないですか」
「は?」
原井場の声が大きくなる。
「俺が殺したわけじゃねえだろ!」
「そんなこと言ってません!」
「じゃあ何なんだよ!」
「原井場さんが余計なこと言ったのは本当でしょ!」
春山も思わず声を張った。
「可憐さん、あの後ずっと様子おかしかったじゃないですか!」
「あの人が勝手に気にしただけだろ! それで殺されたのが俺のせいになるのかよ!」
「やめなさい」
一同の視線が中藤に向いた。
原井場が苛立ったように鼻を鳴らす。
「何だよ。お前も俺が悪いって?」
「いいえ。春山さんが自分の責任を他人に押しつけようとしているだけでしょう」
「……え?」
春山の表情が固まった。
「あなたは可憐さんと一緒に行かなかったことを後悔している。だから、自分以外に原因を作れば楽になれる」
「そんな……」
「原井場さんの発言が軽率だったことと、可憐さんが殺されたことは別よ」
「中藤さん、そういう言い方……」
「何か、間違ったことを言っているかしら?」
「じゃあ、中藤さんは何とも思わないんですか?」
春山は中藤を睨んだ。
「可憐さんが死んだんですよ! なのに、普通にご飯食べて……」
「食べないことに何か意味があるの?」
「人が死んだばかりなのに、よくそんな――」
「私が泣いたり怒鳴ったり食事を拒んだりすれば、可憐さんが戻ってくるの?」
「そういう話じゃないでしょ!」
「もうええ!」
真門がテーブルを叩いた。
「朝からずっとギャーギャーギャーギャー……今さら誰が何言うたとか、どうでもええやろ!」
「でも――」
「殺したんは犯人や!」
真門が春山を見る。
「原井場が余計なこと言うたんはワシもそう思う。せやけど、それと人殺しは別やろ!」
「真門君の言う通りだ」
榊原はそう言うと、まず春山へ視線を向けた。
「春山さん。君は可憐さんへ同行を申し出た。それを本人が断った。ならば、君が自分を責める必要はない」
「……はい」
「だからといって、その責任を原井場君へ移してよい理由にもならない」
榊原は今度は原井場へ視線を向けた。
「……何すか」
「あの発言は不用意だった。相手がどう受け取るか程度は考えたまえ」
「今それ言う?」
「今だから言っている」
榊原は一同を見回した。
「我々が互いに責任を押し付け始めれば、犯人にとってこれほど都合のいいことはないだろう」
誰も言い返さない。
「2人死んだのだ。今まで以上に慎重にならなければならない。そのためにも、感情と事実を混同するべきではない」
「……榊原さんの言う通りだ」
それまで黙っていた白石が口を開いた。
疲れたように帽子を脱ぎ、テーブルへ置いた。
「俺だって、もっと早く可憐さんを探していればと思ってる。尺蛇の時もそうだった。でも、後からなら何とでも言える」
静かな声だった。
「責任を探すなら、殺した奴を探せ。それ以外のことで今ここにいる奴らを責めても意味はない」
食堂に沈黙が落ちた。
原井場はしばらく白石を見たあと、気まずそうに目を逸らした。
「……まあ、俺も、ちょっと言いすぎたかもしれないけどさ」
春山を見ることはなく答えた。
「だからって、あんなことになるなんて思わねえよ」
春山も答えなかった。
恵は可憐の皿を、静かにワゴンへ載せた。
食堂には、中藤のフォークが皿に触れる音だけが響いていた。




