第20話
数分前から細貝と榊原が犯人についての議論を進めている中、可憐はほとんど話を聞いていなかった。
頭から離れないのは、原井場の言葉だった。
『アンタみたいにどっちつかずの教師って、平気で生徒のこと冷遇した上に忘れそうだけどな』
思い出すだけで腹が立つ。
何を知っているというのだ。教師になったことすらない若造が、何十年も教育現場に身を置いてきた自分に向かって、よくもあんな口を利けたものだ。
可憐は膝の上で両手を重ねた。表情だけはいつもと変わらない。だが、右手の指先は左手の甲へ強く食い込んでいた。
そもそも、どっちつかずで何が悪いのか。学校という場所は、1人の生徒だけを見ていればいいわけではない。30人以上の子どもを1つの教室に集め、全員を無事に卒業させなければならないのだ。1人のために、残り全員を振り回すわけにはいかない。
可憐は眼鏡の位置を直した。
これまで担任した子どもたちの顔も、名前も確実に覚えている。1人たりとて、忘れてなどいない。私が担任した学級にはイジメをする児童や問題児などは1人だっていなかった。みんな、とても良い子たちだ。卒業してから連絡こそ貰ったことはないが、私がやってきたことに間違いはないと断言できる。今までに宇治山、中村、小川、和田、江崎、野口。そんな生徒はいなかったと思う。そう思いたかった。
「……可憐さん?」
突然名前を呼ばれ、可憐は肩を震わせた。顔を上げると、春山が心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫ですか? なんか、ぼーっとしてましたけど」
「あ……ええ。大丈夫ですわ」
可憐はいつもの柔らかな笑みを作った。
「少し考え事をしていただけですの」
「そうですか?」
春山はそれ以上追及せず、細貝たちの話へ視線を戻した。
可憐も同じように前を向く。
だが、胸の奥の苛立ちは消えなかった。
『それとも、心当たりがあるのか?』
今度は、原井場のもう1つの言葉が蘇った。
心当たり。そんなものはない。あるはずがない。
もし過去に何か問題があったとしても、それを自分だけの責任にされる筋合いなどない。学校には他の教師もいた。管理職もいた。保護者だっていた。そして何より、子どもたち自身にも、それぞれ事情や問題があった。教師1人で、すべてをどうにかできるはずがない。もし問題があったのだとしたら、それは全体の問題だ。自分だけが責められるようなことではない。
それなのに、あの男は何も知らずに好き勝手なことを言った。
「じゃあ、一度全員の招待状を集めませんか?」
細貝の声に、可憐は我に返った。
「招待状を?」
春山が尋ねる。
「はい。榊原さんが言っていたように、筆跡や紙、封筒に共通点があるかもしれない。消印も確認した方がいいでしょう」
「私も賛成だ」
榊原が頷いた。
「今まで内容ばかりに気を取られていたが、物そのものを比較する意味はあるだろう」
「俺のは部屋だわ」
原井場が面倒そうに言った。
「取ってくればいいんでしょ?」
「できればお願いします」
「はいはい」
原井場が食堂を出ていく。春山も立ち上がった。
「私も部屋です。可憐さんは?」
「あ……」
突然話を振られ、可憐は言葉に詰まった。
招待状は自室の鞄に入れたままだった。
「私も、お部屋ですわ」
「じゃあ一緒に行きます?」
「ええ……」
そう答えかけて、可憐は思い直した。
今は誰かと話す気分ではなかった。原井場への苛立ちを春山にまで悟られたくない。
「いえ。春山さんは先に行ってくださいませ」
「分かりました」
春山は特に疑うことなく食堂を出ていった。
「全員揃うまで、ここで待っています」
細貝は先ほど名前を書いた紙へ目を落とした。
「白石さんたちにも戻ったら説明しましょう」
可憐は椅子から立ち上がった。
「それでは、少し失礼いたしますわ」
食堂を出る。扉が閉じた瞬間、笑顔が消えた。
別に、招待状を見られて困ることなどない。
江崎という人物から届いた、ただの招待状だ。自分の教師時代について意見を聞きたいと書かれているだけで、過去の問題など一言も触れられていない。それでも、胸の奥が落ち着かなかった。
――教師時代の活動を聞いた。
あの文章を最初に読んだ時、自分は何を思っただろう。
長年、教育へ尽くしてきたことが評価されたのだと思った。
何も後ろめたいことなどない。階段を上りながら、可憐は何度もそう言い聞かせた。だが、頭の中には別の光景が浮かんでいた。
机に鉛筆で書かれた悪口。片方だけなくなった上履き。給食の時間になると、いつもわずかに離れた席で俯いていた少女。声まで思い出しかけ、可憐は足を止めた。
あれはイジメなどではなかった。少なくとも、当時はそう判断した。本人から相談を受けた時も、話を聞かなかったわけではない。
あの子にも、もう少し周りへ歩み寄る努力が必要だった。
自分から話しかけることもせず、ただ「仲間外れにされている」と訴えるだけでは何も変わらない。
だから言ったのだ。
『先生もできるだけ気をつけて見るけれど、あなたも少し頑張ってみましょう?』
間違った言葉だったとは思わない。
社会へ出れば、自分と合わない人間などいくらでもいる。そのたびに誰かが助けてくれるわけではない。
むしろ、本人のためを思って、そう考えた結果だった。
「…………」
可憐は自室の前で立ち止まった。いつの間にか、右手が震えていた。鍵を取り出そうとして、一度落とす。
「もう……」
拾い上げ、鍵穴へ差し込み、扉を開ける。
何も変わっていない。ベッドも机も、朝に部屋を出た時のままだった。
鞄は机の脇に置いてある。
中から招待状を取り出そうと近づいたところで、足が止まった。
机の中央に、白い紙が置かれていた。
「……?」
そんなものを置いた覚えはない。
可憐はしばらく動かなかった。尺蛇の部屋で見つかった手紙が頭をよぎる。
犯人は、殺した尺蛇のそばに過去の罪を書いた紙を残していた。
「まさか……」
恐る恐る机へ近づく。
紙は折りたたまれていた。表には、たった一言だけ書かれている。
『可憐先生へ』
心臓が跳ねた。
「……っ」
反射的に紙から手を離す。先生。今、この島で自分をそう呼ぶ者はいない。可憐はしばらく紙を見つめた。
触ってはいけない。白石たちを呼ぶべきだ。すぐにそう思った。
しかし同時に、別の考えが浮かぶ。
もし、この中に昔のことが書かれていたら。
白石たちに見られたら。
『それとも、心当たりがあるのか?』
原井場の嘲るような声が蘇った。
可憐は震える指で紙を開いた。
『思い出しましたか?』
それだけだった。その下には、もう一文。
『2015年。あなたの学級から、1人の子どもがいなくなったことを』
息が止まる。文字が滲んで見えた。
「違う……私のせいでは……」
あの子が学校へ来なくなったのは、自分の責任ではない。
保護者とも話した。学年主任にも相談した。
誰も「いじめ」とは断定しなかった。
その後。夏休みが終わる少し前だった。
学校から知らせを受けた。自宅近くの踏切で……。
可憐は紙を握りしめる。
思い出したくない。
葬儀には行った。
学校を代表してではなく、担任として。
母親は泣いていた。父親は一度も自分の顔を見なかった。
校長からは余計なことを話さないよう言われた。
原因は学校だけにあるとは限らない。家庭環境も含め、慎重に対応する必要がある、と警察は言った。
自分も同意した。当然だ。
原因など、誰にも分からないのだから。
紙の下部に、さらに文字があった。
『あなたが忘れたことを、私は覚えています』
可憐の唇が震えた。
『知りたければ、物置小屋へ来てください』
最後に小さく付け加えられている。
『あなた1人で』
可憐は紙を握ったまま動かなかった。行くべきではない。罠に決まっている。尺蛇が殺されたばかりなのだ。
こんなものを見て外へ出るなど、自殺行為でしかない。
白石へ見せればいい。細貝でも榊原でもいい。
しかし、そうすれば、自分の過去も知られる。
今は教育に関わる立場にいる自分が過去に不祥事を起こしていたと知れば、彼らはどう思うだろう。
原井場など、嬉々として責め立てるに決まっている。
中藤は冷たい顔で事実を並べるだろう。
白石は元刑事だ。何を調べようとするか分からない。
だったら、確認するだけでいい。
誰がこんな紙を書いたのか。
何を知っているのか。話を聞くだけだ。
危険だと思えば、すぐに戻ればいい。もし、誰かに話そうとするなら……。
可憐は紙を細かく折り畳み、カーディガンのポケットへ押し込んだ。
招待状を手に取り、自室を出る。
食堂へ戻る途中、階段の前で足を止めた。
下から人の声が聞こえている。細貝と榊原だ。今戻れば、もう1人で出る機会はなくなるかもしれない。
可憐は廊下を見回し、ゆっくりと階段を下りる。食堂を通り過ぎて、玄関へ向かった。
重い扉をできるだけ音が鳴らないように開ける。
外へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
森の中は静かだった。朝に全員で歩いた時とは、まるで違う場所に見える。
少し話をするだけだと自分へ言い聞かせ、可憐は物置小屋へ向かった。
土を踏む音がやけに大きく聞こえる。何度も屋敷を振り返った。
誰も追ってこない。それなのに、見られているような気がした。
物置小屋が見えてきたが、古びた木製の扉は閉まっていた。
可憐は足を止めた。
「……どなたか、いらっしゃいますの?」
返事はない。
「こんな悪戯はおやめください。話があるのでしたら、正々堂々と……」
自分の声だけが響く。
しばらく待ったが、誰も出てこなかった。
「……馬鹿馬鹿しい」
帰ろう。そう思った時、物置小屋の扉がわずかに開いていることに気づいた。
風だろうか。
可憐は迷った末、扉へ手を掛ける。
「失礼しますわよ」
中は薄暗かった。薪や工具が壁際に並び、土と油の混じった匂いがする。
朝にも全員で確認した場所だ。あの時は怖くなかった。
今は、自分の呼吸音さえ耳障りだった。
「誰もいないではありませんか……」
可憐は呆れたように息を吐いた。
やはり悪戯だ。誰かが自分を怖がらせようとしているだけ。
振り返ろうとした時、物置小屋の扉の影に白い封筒が置かれていることに気づいた。
表には自分の名前。
『可憐真由子様』
「…………」
可憐はゆっくりと近づいた。封筒を開ける。
中には一枚の紙が入っていた。
「違う……違います……」
可憐の手が震える。思わず声が出た。
「校長先生も、学年主任も……みんなで話し合って決めたことです!」
その時、物置小屋の外で何かが鳴った。
枝を踏むような、小さな音。
可憐は振り返った。扉の向こうには、森しか見えない。
「原井場さんですの?」
返事はない。可憐は紙を持ったまま扉へ近づいた。
「そこにいらっしゃるのでしょう?」
先ほどより少し強い声で呼びかける。
風が吹き抜け、木々の枝葉がざわざわと揺れた。
「……もう、いい加減になさってください」
可憐は苛立ちを隠せなくなっていた。
「人をこんなところまで呼び出しておいて、姿も見せないなんて。お話があるのでしたら、きちんと出てきてくださいませ」
それでも誰も答えない。外で、再び音がした。
今度は先ほどより近い。
可憐は口を閉ざし、扉の向こうを覗き込む。
誰もいない。
「原井場さん?」
あの男なら、やりかねないと思った。
自分を怒らせたことを面白がり、こんな悪趣味な真似をしているのかもしれない。
「先ほどのことなら、私も少し言い過ぎましたわ。ですから、もうやめて――」
物置小屋の横で、落ち葉を踏みしめる音がした。
可憐は身体を強張らせた。
扉からは見えない位置。小屋の壁沿いに、誰かがいる。
「……どなた?」
声が震えた。先ほどまでの怒りは消えていた。
「白石さんですの? それとも、細貝さん?」
返事はない。可憐は扉から一歩だけ外へ出た。
左右を確認する。
右には屋敷へ続く道。左には木々と物置小屋の壁。人影はない。
安堵しかけた、その時だった。
左側から何かが飛び出した。
「――っ!」
物置小屋の陰から、人影が一気に距離を詰めてくる。
可憐は悲鳴を上げることすらできなかった。
人影の両手には、柄の長い斧が握られている。
朝、この小屋の奥に立て掛けられていた薪割り用の斧だった。
「ま、待ってください!」
可憐は反射的に後ずさった。
人影は答えない。
「何か誤解をなさっています!」
さらに一歩下がる。
背中が開いた扉へぶつかった。
「私、ちゃんと話しますから……!」
長年、保護者からの苦情に対応してきた時と同じように、できるだけ柔らかい声を作ろうとした。
「まずは落ち着いて、お話をしましょう? お互いに感情的になっても、何も解決いたしませんわ」
人影は止まらない。
「あなたのおっしゃりたいことも分かります。私にも至らないところはあったと思います」
人影が斧を握り直す。
可憐の顔から血の気が引いた。可憐は縋るように尋ねた。
「しかし、もし問題があったのだとしたら、それは全体の問題ですわ。私だけを責めるのは、おかしいでしょう?」
斧がゆっくりと持ち上がった。
「……え?」
そこで初めて、可憐は理解した。
相手は話し合うつもりなどない。
「待って」
声から丁寧さが消えた。
「待ってください」
斧がさらに高く上がる。
「私、誰にも言いませんわ」
可憐は両手を前へ出した。一歩ずつ後ずさる。
「ですから……」
足が何かに引っかかった。
体勢を崩し、尻餅をつく。
手から罪状の紙が離れ、湿った地面へ落ちた。
顔を上げると、人影がすぐ目の前まで来ていた。
「お願い……」
可憐は座り込んだまま後ろへ下がろうとした。
「私は悪くありません……」
人影が斧を構える。
「私だけが悪いわけじゃないんです! みんながそう言ったから! 学校だって――」
斧が振り下ろされ、鈍い音が森の中に響いた。




