第13話
朝食を足早に終えた一同は210号室の前に来ていた。
誰が決めたわけでもないが、先頭にいた白石が扉をノックした。
「尺蛇、朝だ。起きてるか?」
返事はない。白石はしばらく待ってから、もう一度扉を叩いた。
「尺蛇。聞こえてるなら返事をしてくれ」
やはり何も聞こえなかった。耳を澄ませるが、室内から物音はしない。
「寝とるだけちゃうんか?」
真門が言った。
「だといいんですが……」
細貝は不安そうに扉を見つめた。
昨夜ここへ来た時は、ノックに返事をしなくても、扉の向こうから荒い呼吸が聞こえていた。それが今は何も聞こえない。人がいる気配そのものが消えているようだった。
白石がドアノブへ手を掛ける。回らない。
「鍵は掛かってるな」
「尺蛇君」
榊原が一歩前へ出た。
「榊原だ。朝食の時間は過ぎている。無事なら返事をしたまえ」
沈黙。榊原の眉間に皺が寄った。
「聞こえていないのか?」
白石は扉へ耳を当てた。物音はない。人の寝息すら聞こえなかった。
「昨夜、随分取り乱していたからな。睡眠薬のようなものを口にしていたのなら、まだ眠っている可能性もある」
榊原はそう言ったものの、その声には先ほどまでの余裕がなかった。
「それなら、これだけ叩けば普通は起きる」
白石の言葉に、一同は黙り込んだ。後ろで様子を見ていた俊夫がおずおずと口を開く。
「合鍵をお持ちいたしましょうか」
細貝が俊夫を見る。
「でも、合鍵は昨日封をしましたよね」
「はい。食堂の棚に、そのまま置いてございます」
「封は確認したのかね」
榊原が尋ねる。
「今朝、食堂へ入った際には昨日と変わらない状態でございました。ただ、詳しく確認したわけでは……」
「持ってきたまえ。まず、封が破られていないか確認すべきだ」
「では、合鍵を取ってまいります」
俊夫が言うと、細貝がすぐに続いた。
「僕も行きます。封がどうなっているか確認したいので」
俊夫と細貝は階段を下りていった。残された者たちは、誰も210号室から離れようとはしなかった。
やがて階段から足音が聞こえ、俊夫たちが戻ってきた。俊夫の手には、昨夜合鍵を入れた布袋が握られている。
「こちらでございます」
細貝が先に結び目へ目を落とした。
「見た限りでは、昨日のままです」
榊原が俊夫から布袋を受け取った。紐には昨夜、自分が署名した紙が巻かれている。紙は破れておらず、署名の位置もそのままだった。結び目にも不自然な緩みは見られない。
「間違いない。私が昨夜封をした状態のままだ」
「では、開けましょう」
俊夫が布袋へ手を伸ばす。
「待ってください」
細貝が止めた。
「何でしょうか」
「この封は残しておいた方がいいと思います」
俊夫が怪訝そうに細貝を見る。
「もし中で何か起きていた場合、合鍵が使われていないことを証明できるかもしれません」
「せやけど、開けへんかったら中に入られへんやろ」
真門が言った。
「扉を壊せばいい」
白石が答えた。俊夫の表情が曇る。
「しかし、この扉は――」
「昨日、俺が言ったことだ」
白石は210号室へ目を向けた。
「緊急時には扉を壊す。今がその緊急時だろう」
「私も賛成だ」
榊原が布袋を俊夫へ返した。
「人命が関わっている可能性がある。扉の修繕費を気にしている場合ではない」
俊夫はしばらく迷っていたが、やがて小さく頭を下げた。
「……承知いたしました」
「全員、少し下がってくれ」
白石の言葉を聞いて一同が廊下の壁際まで離れる。
「ワシもやるわ」
真門が前へ出た。
「大丈夫か?」
「舐めんなや。扉一枚ぐらいどうってことあらへん」
白石は一瞬だけ真門を見た後、頷いた。
最後にもう一度声を掛ける。
「尺蛇! 扉を壊すぞ!」
返事はない。
「行くぞ」
2人が同時に扉へ体当たりすると鈍い衝撃音が廊下に響いた。扉は大きく揺れたが、開かない。二度目。錠の辺りから、木材の軋む音がした。三度目に身体をぶつけた瞬間、ばきりと大きな音が響いた。扉が勢いよく内側へ開く。
白石と真門がよろめきながら室内へ踏み込んだ。
「尺蛇……」
白石の声が止まった。真門も動かない。
「どうしたんですか?」
細貝が尋ねたが、白石は答えなかった。視線は床へ向けられている。
「白石さん?」
細貝が一歩近づこうとした。
「来るな!」
白石が低い声で言った。
「そこにいろ」
その声音に、細貝の足が止まった。後ろから中藤が扉の隙間を覗き込むと、その表情が僅かに強張った。
室内の床には、赤黒い血が広がっていた。その中央に、尺蛇が倒れている。
衣服は血に濡れ、全身の至るところに刺された痕があった。周囲には飛び散った血が乾き始めており、床には大きな血溜まりができている。
白石はすぐに我に返った。
「真門、外に出ろ」
「……は?」
「いいから出ろ。ほかの奴らには見せるな」
白石は真門の肩を押して廊下へ戻すと、自ら扉の前に立った。身体で室内を隠すようにして、後ろにいる者たちの視線を遮る。
「何があったんですか?」
春山が恐る恐る尋ねる。
「見るな」
「でも……」
「見ない方がいい」
白石の強い口調に、春山はそれ以上何も言えなかった。扉の脇に立つ真門は、先ほどまでとは別人のように青ざめていた。口を半開きにしたまま、何度も息を吸っている。
「真門さん?」
可憐が心配そうに声を掛ける。
「どうなさったんですか?」
「……知らん」
「え?」
「ワシに聞くな……」
真門は壁へ背中を預け、顔を逸らした。
「白石さん」
細貝が静かに呼びかける。
「尺蛇さんは?」
白石は答えず、もう一度室内へ入った。
「白石君」
榊原が呼び止める。
「何をするつもりだ」
「生きているか確認する」
それだけ言い残し、白石は尺蛇へ近づいた。
足元の血を避けながら腰を下ろし、首筋へ指を当てる。
「……死んでる」
短い一言だった。
「え……?」
春山が聞き返した。
「尺蛇は死んでる……いや、殺されている」
廊下から音が消えた。
「何か所も刺されてる。事故や病気じゃない」
白石の言葉を、誰も受け止められなかった。
「おい」
しばらくして、原井場が震える声で言った。
「本当に死んでんのか?」
「確認した」
「いや、でも……」
原井場は無理に笑おうとした。
「そういう仕掛けじゃないの? 昨日から全部ドッキリでさ。血糊とか、役者とか……」
「だったら自分で確認する?」
中藤に言われると、原井場は反射的に210号室へ視線を向けた。
扉の前には白石が立っている。
「……いや」
「なら黙って」
「お前だって本当に死んでるか分かんねえだろ!」
「やめたまえ!」
榊原の声が廊下に響いた。
原井場と中藤が同時に口を閉ざす。
「この状況で言い争って何になる」
榊原は平静を保とうとしていたが、声には力が入っていた。額には汗をかいている。
「まず状況を整理すべきだ」
「整理やと……?」
それまで壁際で黙っていた真門が顔を上げた。
「何を悠長なこと言うとんねん」
「真門君……」
「人が殺されとるんやぞ!」
真門の怒鳴り声に、獅子谷が肩を震わせた。
「ワシ見たんや! 病気とか事故とか、そんなんちゃう!」
「落ち着け」
白石が低く言う。
「落ち着けるか!」
真門は廊下にいる者たちを睨み回した。
「昨日、誰も部屋から出えへんって決めたやろ! 合鍵かて封した! それやのに、何で尺蛇が殺されとるんや!」
誰も答えられない。
「お前らの誰か、部屋から出たんちゃうんか!」
「決めつけるのは早いです」
細貝が言った。
「ほな誰やねん!」
「昨日から言っているでしょう。この屋敷に別の人間が隠れている可能性だってあります」
「まだそんな奴、一人も見つかっとらんやろ!」
真門が拳を壁へ叩きつける。
「この屋敷に人殺しがおる。それだけは間違いないやろ!」
誰も否定しなかった。
白石も、榊原も、中藤も。
昨日までなら、原井場は反論したかもしれない。
悪趣味な冗談だ。脅して楽しんでいるだけだ。ドッキリに決まっている。何かの間違いだ。そんな逃げ道が、まだ残されていた。
だが今、その扉の向こうには尺蛇がいる。二度と返事をすることのない尺蛇が。
「嘘だろ……」
原井場が呟いた。昨日までの尊大な態度は消えていた。
「本当に……始まったってことかよ」
「何が?」
獅子谷が怯えた顔で尋ねるが、原井場は答えなかった。
答える代わりに、全員が同じ言葉を思い出していた。
『皆様がこれまで奪い、壊し、踏みにじってきたものに見合う代償を、ここでお支払いいただきます』
昨夜聞いた時には、まだ脅迫でしかなかった。今は違う。その言葉どおり、本当に一人が死んだ。
「……宇治山」
榊原が低く呟いた。廊下にいる全員の視線が集まる。
「あの男は、本気だったということか」
誰も答えなかった。だが、その言葉を否定できる者は、もういなかった。




