第12話
4月27日
榊原は午前7時丁度に目覚め、身だしなみを整えていた。柄にもなく昨夜は熟睡してしまった。洗面台の鏡を見ながら髪を整え、ドレスシャツの襟元を正す。腕時計へ目を落とすと、時刻は午前7時10分を指していた。朝食までは、まだ時間がある。
榊原は机の上に置いた招待状を手に取った。差出人は江崎栗五。実在する人間のようだが、昨夜の音声を聞いた今となっては、この手紙を書いた人物が本当に江崎本人なのかも疑わしく思えてくる。
「裁きを免れた人間、か……」
誰もいない室内で呟いた。馬鹿げた言いがかりだ。自分は長年、法に従って人を裁いてきた。証拠と証言を精査し、感情に流されることなく判決を下してきたのだ。それを罪と呼ばれる筋合いはない。私が罪人であるはずがない。
招待状を内ポケットに入れると、榊原は客室の扉へ向かった。細貝の提案どおり、扉の前には椅子を置いていた。椅子を退け、鍵を開ける。扉をわずかに開き、廊下を確認した。人影はない。昨夜と変わらず静まり返っており、どこかの部屋から物音が聞こえることもなかった。誰も部屋から出ないようにと決めたのは自分たちだ。朝食の時間にはまだ早い。静かなのは当然だった。
食堂へ向かう前に、ほかの部屋の様子を確認するべきかとも考えた。しかし、むやみに扉を叩けば、昨夜の取り決めを自ら破ることになる。午前7時半になっても姿を見せない者がいた場合に確認すればよい。そう判断し、階段へ向かって歩き始めた。
廊下の奥にある210号室の前を通り過ぎようとした時、榊原は足を止めた。尺蛇の部屋だった。昨夜、白石と細貝が様子を見に行った後も、尺蛇は一度も食堂へ戻ってこなかった。船が来るまで部屋から出ないと話していたらしい。声を掛けようとしたが、やめた。昨夜の取り乱し方を考えれば、今は刺激しない方がよい。朝食の時間になっても現れなければ、白石たちと改めて話をすればよいだろう。榊原は再び歩き出した。
階段を下りると、玄関ホールには朝の淡い光が差し込んでいた。昨夜の重苦しい空気が嘘のように、屋敷の中は穏やかだった。食堂の前まで来ると、厨房から食器の触れ合う音が聞こえた。扉を開けると、恵が朝食の準備を進めていた。
「おはようございます、榊原様」
恵は手を止め、丁寧に頭を下げた。
「おはよう。少し早かったようだな」
「いえ、間もなくご用意できますので。どうぞ、お掛けになってお待ちくださいませ」
榊原は食卓を見渡した。昨夜と同じように席が用意されている。宇治山のために設けられた端の席も、相変わらず空いたままだった。
「ご主人はどうしたのかね」
「俊夫さんでしたら、先ほどまで館内を確認しておりました。すぐに戻ると思います」
「昨夜も見回りをしていたのか?」
恵の手が一瞬だけ止まった。
「はい。皆様がお部屋へ戻られた後、戸締まりを確認すると申しておりました」
「我々は昨夜、行動を自粛していたというのに君自身は歩き回っていたのか」
「屋敷を管理するためでございます。どうか、ご理解くださいませ」
恵の返答に榊原は何も言わず、自分の席へ腰を下ろした。やがて廊下から足音が近づき、食堂の扉が開いた。現れた俊夫は、昨日と同じ燕尾服姿だった。しかし、その表情には、わずかな疲労が浮かんでいた。
「ああ……おはようございます榊原様」
俊夫は一礼したが、いつものような隙のない動作ではなかった。
「随分と疲れているようだな」
「少々、寝つきが悪かっただけでございます」
「昨夜、見回りをしていたそうだね」
榊原が尋ねると、俊夫は恵へ一瞬だけ視線を向けた。
「はい。戸締まりに不備がないか、確認しておりました」
「異常は?」
「特にはございませんでしたが……」
「何か気になることがあったのではないかね」
「いえ、大したことでは……」
「大したことかどうかを判断するのは、話を聞いてからだ」
榊原の強い口調に、俊夫は困ったように口を閉ざした。
「何かあったの?」
恵の問いかけに俊夫はしばらく迷った後、諦めたように息を吐いた。
「昨夜、2階の談話室を確認いたしました」
「談話室?」
「はい。扉が開いておりましたので、中を見たのですが……チェス盤の駒が減っておりました」
「というと……?」
榊原が眉を寄せる。
「黒のポーンが5つ、なくなっていたのでございます」
恵は不思議そうに首を傾げた。
「誰かが持っていったんじゃないの?」
「その可能性はございます。ただ、皆様には部屋から出ないようお願いしていたはずです」
「君自身は、以前の駒の数を確認していたのかね」
「屋敷へ来た時に一度だけ。黒い駒はすべてそろっておりました。白い駒は最初からございませんでしたが」
「では、昨夜までの間に誰かが5つ持ち出したことになるな」
「そうなります」
榊原は腕を組んだ。
「なぜ、その場で確認しなかった」
「深夜に皆様のお部屋を訪ねる方が危険だと判断いたしました。それに、ただの悪戯かもしれませんので」
「悪戯で済ませられる状況ではないだろう」
「申し訳ございません」
俊夫は頭を下げたが、その表情には不満も浮かんでいた。屋敷の管理をしている自分が、客に責められる筋合いはない。そう言いたげだった。
「朝食の際に、全員へ尋ねるべきだな」
「承知しております」
その時、廊下からゆっくりと足音が聞こえた。白石が食堂へ入ってくる。黒い中折れ帽を被り、昨夜と変わらぬ落ち着いた表情をしていた。
「早いな、榊原さん」
白石は食卓を見渡した後、俊夫の顔へ目を留めた。
「何かあったのか?」
「俊夫君によれば、昨夜、談話室のチェスの駒が5つなくなったそうだ」
「チェス?」
榊原は経緯を説明した。
「誰かが動かしただけじゃないのか」
「黒のポーンだけを5つ持ち去ったらしい」
「妙だな」
白石は椅子へ座らず、そのまま俊夫へ尋ねた。
「昨夜、廊下で誰かを見なかったか?」
「どなたにもお会いしておりません」
「足音は?」
「特には……」
俊夫が答えている間に、階段から複数の足音が聞こえてきた。細貝と中藤が続けて食堂へ姿を見せる。
「おはようございます」
細貝は腕時計を確認しながら席へ向かい、中藤は食堂へ入るなり俊夫たちの様子を観察した。
「何かあったの?」
「全員揃ってから説明するとしよう」
榊原が言うと、中藤は何も聞き返さず、自分の席へ向かった。細貝もその隣へ腰を下ろす。
それから数分のうちに、春山、可憐、獅子谷、原井場の順に食堂へ姿を見せた。最後に、眠そうな顔をした真門が大きな欠伸をしながら入ってくる。
「おはようさん……朝からえらい静かやな」
真門は席へ着くなり、テーブルの上を見回した。
「飯はまだなんか?」
「皆様がお揃いになってからお出しする予定でございます」
恵が答える。
「もう揃っとるやろ」
その言葉に、細貝が食卓を見渡した。
「……尺蛇さんがいません」
全員の視線が、空いたままの席へ向けられる。
「あいつは部屋から出ん言うとったやろ」
真門が気にした様子もなく言った。
「朝飯ぐらい放っといたらええんちゃうか」
「ですが、昨日は朝食の際に全員の無事を確認すると決めたはずです」
細貝が腕時計を見る。
「もう7時半になります」
「寝ているだけかもしれませんわ」
可憐が控えめに言った。
「昨夜はかなり取り乱していらっしゃいましたし、お疲れなのでは……」
「それならいいんですけど」
春山は不安そうに2階へ続く階段へ目を向けた。
「僕が見てきますよ」
細貝が椅子から立ち上がりかける。
「待ちたまえ」
榊原が制した。
「昨日、尺蛇君自身が一人にしてほしいと言っていたのだろう。朝食の時間を多少過ぎた程度で押しかける必要はない」
「でも、様子がおかしかったんですよ。昨日もかなり怯えていましたし」
「だからこそだ」
榊原は落ち着いた口調で続けた。
「我々が何人も押しかければ、また彼を刺激しかねない。まず朝食を済ませてからにしてはどうかね」
「榊原さんの言う通り、少し待とう。尺蛇が一人になりたがっていたのは事実だ」
「白石さんまで?」
中藤が眉をひそめる。
「ただし、朝食が終わっても来なければ必ず確認する。それでどうだ」
細貝は頷いた。
「……分かりました。食事をしながら昨夜のことも整理できますし」
中藤は納得していない様子だったが、しばらく黙った後、椅子へ深く腰を下ろした。
「……分かったわ。朝食が終わるまで」
「決まりだな」
榊原が言った。
「では、朝食を始めよう」
俊夫が恵へ目配せすると、2人は厨房へ戻った。
ほどなくして、パン、目玉焼き、ソーセージ、サラダが順番に運ばれてくる。最後にコーヒーと紅茶のポットが置かれた。
「お待たせいたしました」
恵が一礼する。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
「おお、朝からええ匂いやな」
真門が早速パンへ手を伸ばした。
「昨日あんなことあったのに、よく食欲ありますね」
春山が苦笑する。
「腹減るもんはしゃあないやろ。怖がっとったら腹膨れるんか?」
「それはそうですけど……」
真門は気にせずソーセージを口へ運んだ。原井場もパンを齧りながら言う。
「まあ、こうして普通に朝飯が出てくるってことは、やっぱ大したことないんじゃないですか」
「その理屈は意味が分からないわ」
中藤はサラダを口へ運びながら即座に返した。
「使用人が朝食を出したことと、昨日の録音に危険性がないことは何も関係ないでしょう」
「朝から理屈っぽいなあ」
原井場は面倒そうにコーヒーを飲んだ。獅子谷は二人の会話を聞き流しながら、パンへジャムを塗っていた。
「でもさ、何も起きなかったんだから、とりあえず良かったんじゃない?」
「……何も起きなかった、と言い切るのはまだ早いわ」
中藤はそう返したが、いつもの鋭さに比べると少し歯切れが悪かった。
「中藤さんも寝不足なんですか?」
春山が尋ねる。
「いいえ……むしろ、よく眠れたのよ」
「え?」
春山が目を瞬かせる。
「昨日あんなことがあったのに……部屋に戻ってからすぐ眠ってしまって、朝まで一度も起きなかった」
「それ、私もです」
可憐が驚いたように口元へ手を添えた。
「怖くて眠れないと思っておりましたのに……ベッドに入った後のことを、ほとんど覚えておりません」
「私も」
獅子谷が手を止める。
「めっちゃ寝た。いつ寝たかも覚えてないくらい」
「昨日酒飲んでたからじゃないの?」
「原井場くんだって飲んでたじゃん。それに、起きた時ぜんぜん二日酔いじゃなかったし」
「まあ、確かに俺も結構寝ましたね」
原井場がコーヒーカップを置いた。
「普段はちょっとした音でも起きるんですけど、昨日は朝までぐっすりでしたよ」
「ワシもや」
真門がパンを頬張ったまま言う。
「昨日はあんだけ腹立っとったのに、部屋戻って横んなったらすぐ寝てもたわ」
パンを飲み込むと続けて言った。
「爺さんはどうやねん」
「私も熟睡した」
榊原はナイフとフォークを置いた。
「普段なら、あのような状況で深く眠れるとは思えんのだがな」
その言葉に、細貝が食事の手を止めた。
「僕もです」
全員の視線が細貝へ向く。
「昨日は部屋に戻ってから、一応ノートパソコンを開いたんです。でも、ほとんど何もせずに眠くなって……気づいたら朝でした」
「白石さんは?」
春山が尋ねる。白石はコーヒーを口へ運んでから答えた。
「俺も似たようなもんだ。寝つきは悪い方なんだが、昨日はすぐ寝た」
「……全員?」
春山の声が小さくなる。食卓が静まった。真門だけが気にせず目玉焼きを切っている。
「そら疲れとったんやろ。朝から移動して、島来て、夜にはあんな訳分からんもん聞かされて。そら寝るわ」
「全員が同じように?」
中藤が問い返す。
「何が言いたいねん」
「偶然にしては出来すぎていると言っているの」
「つまり」
細貝が間へ割って入る。
「昨日の夕食か飲み物に、何か入れられていた可能性を考えているんですか?」
その言葉に、恵の表情が強張った。
「お待ちください」
恵は慌てて首を振る。
「お料理にそのようなものは一切入れておりません」
「そういう意味で言ったわけじゃありませんよ」
細貝が落ち着いて答える。
「ただ、全員が普段より強い眠気を感じたのなら、共通して口にしたものを確認する必要はあります」
「料理だけとは限らないな。食後のコーヒーや紅茶もある」
白石が補足した。
「ちょっと待てや」
真門がフォークを置いた。
「ワシらに睡眠薬でも盛った言うんか?」
「まだそうとは言っていません」
「でも、もしそうなら……」
春山の顔から笑みが消える。
「私たちが寝てる間、誰かが自由に屋敷の中を歩けたってことですよね」
誰もすぐには答えなかった。俊夫がわずかに眉をひそめる。
「昨夜、私が見回りをした際には、どなたにもお会いしておりません」
「それは、全員が眠っていたからかもしれないわ」
中藤が言う。
「待ってください」
可憐が不安そうに周囲を見回した。
「では、尺蛇さんも……?」
その名前が出た瞬間、食卓の空気が再び変わった。細貝が空席へ目を向ける。
「尺蛇さんも昨日、夕食は食べていましたよね」
「ええ……ほかの皆様と同じものをお召し上がりになっております」
「食後の飲み物も?」
白石が尋ねると、恵は少し考えてから頷いた。
「はい。確か、コーヒーをお出ししたかと」
白石は無言のまま、尺蛇の空席を見つめた。
「朝食を急いだ方がよさそうだな」
それまで食事を続けていた真門も、今度は何も言わなかった。




