第14話
誰も言葉を発さなかった。開け放たれた210号室の扉から、血の匂いが廊下まで漂ってくる。
「とにかく離れろ。全員、中に入るな。何も触るな」
白石の声に、先ほどまで怒鳴っていた真門も口を閉ざした。
「警察が来るまで、そのままにしておくってことですか?」
「本来ならな。だが、警察が来るのは早くても新庄が戻る3日後だ。それまで何もしないわけにもいかない。まず、最低限確認する」
白石は一同を見回した。
「俺と細貝で中を見る。霧坂さんも来てくれ。この屋敷のことを知ってるのはアンタらだけだ」
「私も入るわ」
中藤が言った。
「人数は少ない方がいい」
「あなたたちだけが見たことを、私たちはあなたたちの言葉だけで信じろというの?」
「……分かった。ただし、勝手に触るな」
「言われなくても分かってるわ」
「ワシは?」
真門が口を挟む。
「アンタはもう見ただろ。外にいてくれ」
「なんでワシだけ追い出されんねん」
「今にも吐きそうな顔してるからだ」
「誰がや!」
真門は言い返したが、室内を見るとすぐに顔を逸らした。
「……好きにせえ」
白石たち四人が210号室へ入る。
改めて見ると、室内の惨状は凄惨だった。
尺蛇はベッドから数歩離れた床に仰向けに倒れている。衣服は赤黒く染まり、胸や腹、腕、脚に至るまで、刃物で刺された痕がいくつも残されていた。白石は遺体には触れずに傷を見つめた。
「……傷が多すぎるな。殺すだけなら、ここまで刺す必要はない」
白石の視線が尺蛇の下半身へ移る。下腹部は特に血で濡れていた。ズボンにも血が滲み、その下にも刃物を突き立てられた痕がある。白石は眉をひそめたが、それ以上は口にしなかった。
「つまり、怨恨?」
「まだ分からない。感情に任せたのかもしれないし、そう見せたかっただけかもしれない」
白石は立ち上がり、部屋を見渡した。
「窓は?」
俊夫が窓へ近づく。
「閉まっております」
「触るな」
白石は窓枠の周囲を目で確認した。ガラスが割られた様子はない。外側の窓枠には埃が積もっている。
「昨夜、尺蛇は扉に鍵を掛けていた」
「本人もそう言っていましたね」
細貝が答える。
「だったら、殺した奴はどうやって入ったんだ?」
廊下から真門の声が飛んできた。
「聞こえとるぞ。そこが一番おかしいやろ!」
誰も答えなかった。
白石は扉の壊れた錠を見た後、廊下に置かれている袋へ視線を向けた。
「霧坂さん」
「はい」
「客室の鍵は、あの10本だけか?」
「管理用として私どもに渡されておりますものは、あちらですべてでございます」
「ほかに同じ部屋を開けられる鍵がある可能性は?」
俊夫は困惑した。
「私には分かりかねます。この屋敷自体、宇治山様から管理を任されただけでございますので……」
「つまり、存在しないとは言い切れないのね」
「ですが、少なくとも私どもが受け取った鍵は、あの10本だけでございます」
白石は黙って扉の鍵穴を見た。
昨夜、全員で封をした合鍵は今も手つかずのまま残っている。にもかかわらず、施錠された210号室の中で尺蛇は殺されていた。
「おい」
真門が廊下から言った。
「結局、どういうことや」
真門は我慢できなくなったように扉の前まで来た。
「合鍵は封してあった。尺蛇は部屋に鍵掛けとった。それで誰かが入って殺したんやろ? ほな、鍵持っとる奴しかおらんやないか」
真門の視線が俊夫へ向く。俊夫の顔が強張った。
「昨夜、屋敷ん中を歩き回っとったん、お前だけやろ」
「真門」
白石が止める。
「部屋の鍵を管理しとったんも、夜中に歩き回っとったんもコイツや!」
「俊夫さんは戸締まりを確認していただけです!」
廊下にいた恵が声を上げた。
「それをどうやって証明すんねん!」
「いい加減にしろ」
白石が真門の前へ出た。
「疑う材料はある。だからといって、犯人だと決まったわけじゃない」
「ほな誰やねん!」
「それを調べるんだ」
「昨夜のことを忘れたんですか?」
細貝が口を挟んだ。
「僕たちは全員、異常なくらい眠っていた」
真門が口を閉ざす。
「もし本当に何かを飲まされていたなら、霧坂さんだけが動けたとは限りません。薬を飲まなかった人間が一人いれば、その人間も自由に動けたことになります」
「つまり……」
可憐が怯えたように周囲を見回す。
「この中の誰でも、できたかもしれないということですか?」
沈黙が落ちた。
その言葉を否定できる者はいなかった。
白石は小さく息を吐いた。
「とにかく、今は部屋を確認する」
白石たちは再び室内へ視線を戻した。
ベッド、机、クローゼット、ユニットバス。
大きく荒らされた様子はない。
尺蛇が昨夜、この部屋へ戻ってから触ったと思われる荷物がいくつか床に置かれているだけだった。
細貝が机の前で足を止める。
「白石さん、これ……」
「どうした」
机の中央に、白い封筒が置かれていた。封筒の表には、黒い文字で名前が書かれている。
『尺蛇大仙』
白石が表情を変えた。
「霧坂さん。この封筒に見覚えは?」
「ございません」
俊夫は首を横に振った。
「この状況で見つかった以上、無関係とは考えない方がいいな」
白石はポケットからハンカチを取り出した。直接触れないよう封筒を持ち上げる。裏返してみるが、差出人の名前はない。封もされておらず、中には折り畳まれた一枚の紙が入っていた。中を開き数行へ目を通したところで、その表情が険しくなる。
「……何やねん。何て書いてあるんや」
白石は最後まで黙って読み進めた。
そこには、整った文字でこう記されていた。
『尺蛇大仙。貴様は2010年、同僚女性に性暴力を行った。その罪によって逮捕され、有罪判決を受け、刑務所へ送られた。だが、貴様は刑期を終えた今も、自らの行いを一度として認めてはいない。自らの罪を認めることすらできぬ者に、赦しを求める資格はない。故に、ここで改めて裁きを下す。』
白石は紙を持ったまま動かなかった。
「……何て書いてあったんですか?」
春山が恐る恐る尋ねる。白石は一度だけ尺蛇の遺体へ目を向けた。
「尺蛇は女性への性暴力で刑務所に入ったらしい」
廊下の空気が凍りついた。
「ほら見てみい!」
真門が声を上げた。
「あいつ、やっぱりムショ入っとったんやないか!」
「今はそこが問題じゃないわ」
中藤が即座に言った。
「何やと?」
「この手紙を書いた人間が、それを知っていることよ」
真門が口を閉ざす。
廊下に戻った白石は手紙を一同に見せた。
「……そうか。昨日、尺蛇さんが言ってましたよね」
「ああ」
白石にも同じ言葉が浮かんでいた。
『俺はもう罰を受けたんだ!』
『俺は悪くない』
真門が顔をしかめる。
「刑務所に入ったから、もう終わった話や思っとったいうことか」
「待ちたまえ」
全員の視線が榊原へ向く。
「書かれている内容が事実である保証はない。尺蛇君が過去に服役していたとしても、この紙に書かれたことをすべて真実だと決めつけるべきではない」
「でも、昨日の反応を見る限り、何もなかったとは思えないわ」
「だからといって、匿名の文章を事実として扱ってよいことにはならん」
「なら、全部嘘だと思う?」
「そうは言っていない」
榊原は険しい顔で尺蛇の遺体を見た。
「仮に事実だとしてもだ。彼は裁判を受け、有罪となり、刑に服したのだろう?」
榊原の声が強くなる。
「犯した罪を反省しているかどうかと、刑罰を終えているかどうかは別問題だ。何者であろうと、それを理由に人を殺す権利などない」
「犯人は、そう思ってないんでしょうね」
細貝が言った。
「何?」
「手紙の最後です。『ここで改めて裁きを下す』と書いてある」
白石の手元へ視線が集まる。
「昨日の録音も同じでした。僕たちに罪と向き合え、代償を払えと言っていた」
「ちょっと待ってください」
可憐の声が震えていた。
「では、昨日の録音は……私たち一人一人のことを言っていたということですか?」
誰も答えなかった。
「12人全員が罪を犯したと言っていた」
細貝が静かに言う。
「尺蛇さんについて、ここまで具体的に知っていた人間が、ほかの人について何も知らないとは考えにくいです」
「冗談じゃねえぞ……」
原井場が後ずさる。
「俺たちの過去まで調べてるっていうのかよ」
「そう考えるのが自然でしょうね」
中藤が答えた。
「何でそんな平然としてられんだよ!」
「ちょっと考えれば分かると思うけど?」
「そういう言い方がムカつくんだよ!」
「やめろ」
白石が低い声で制した。
「今ここで問い詰め合っても意味がない」
「意味あるやろ!」
真門が声を上げる。
「犯人がワシらの中におるかもしれへんのやぞ! そいつが全員の過去知っとる言うんなら――」
「自分の過去を知られたくない人間から順番に疑うつもり?」
中藤が冷たく言った。
「そしたら全員怪しいことになるんちゃうんか!」
真門の言葉に、再び沈黙が落ちた。
誰も、「自分には何もない」とは言わなかった。
「白石さん」
細貝に呼ばれ、白石は視線を戻した。
「この手紙、犯人が置いたと考えていいんでしょうか」
「殺した奴が置いたと考えるのが一番自然だ」
「でも、いつ?」
中藤が尋ねる。
「犯人が尺蛇さんを殺した時に置いたのなら、当然この部屋へ入っている。その人間は、尺蛇さんの部屋を開ける方法を持っていた」
一同の視線が、壊された扉の鍵穴へ向く。続いて、封をされたままの合鍵の袋へ向けられた。
「やっぱり鍵やないか」
「またその話か」
「当たり前やろ!」
「だから、俺たちが知らない鍵がある可能性もあると言ってる」
「そんな都合ええ鍵、どっから出てくんねん!」
「宇治山さんなら持っていてもおかしくないんじゃないですか?」
細貝の言葉に真門が振り返る。
「この屋敷の所有者なんですよね」
細貝は俊夫を見る。
「ないとは言い切れませんよね」
「……はい」
俊夫は不本意そうに頷いた。
「少なくとも、私どもが知らない鍵が存在する可能性までは否定できません」
「今考えても答えは出ない」
白石が言った。
「それより先に、部屋を見終わらせよう」
白石たちは残りの室内を確認した。凶器の刃物に関しては見つからなかった。
「ありませんね」
細貝が言った。
「ああ」
「これだけ刺したなら、刃物にもかなり血が付いているはずよ」
中藤が答える。
「犯人が持って出たってこと?」
「そう考えるのが自然だな……」
「とりあえず、一度ここを離れよう。扉は壊れてるが、できるだけ誰も入らないようにする」
白石は扉を無理やり閉めると部屋の前に椅子を置いた。
「霧坂さん、後で扉にテープか何か張っといてくれ」
「……かしこまりました」
一同は話し合いのために談話室へ向かった。




