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天秤の片側  作者: シンドゥー


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第二話

桐谷翔という人間を知ること。


それが、天華綺沙羅に与えられた次の仕事だった。


第一審まで、あと十日。


その短い時間の中で、彼の生育歴、精神状態、認知機能、事件当日の心理状態を可能な限り整理しなければならない。


裁判所の一室。


机の上には、分厚い資料が積み上げられていた。


児童相談所の記録。


学校の生活記録。


医療機関の診療情報。


施設職員の面談記録。


警察の供述調書。


被害者遺族の意見書。


どれも紙の束でしかない。


けれど、その一枚一枚に人の人生が詰まっている。


綺沙羅は深く息を吸い、最初のファイルを開いた。


---


最初に出てきたのは、小学校時代の記録だった。


桐谷翔。


当時七歳。


担任教師の所見には、丁寧な字でこう書かれていた。


『大人しく、授業中に騒ぐことはない』


『友人関係は少ない』


『休み時間は一人で絵を描いていることが多い』


『給食を残さず食べるが、時々パンを机の中に隠している』


綺沙羅の手が止まった。


パンを隠す。


ただの悪戯ではない。


資料を読み進める。


『家庭訪問時、母親は不在。父親は多忙を理由に面談を拒否』


『衣服の汚れが目立つ』


『体育の着替え時、腕に痣を確認』


『本人は転んだと説明』


綺沙羅は唇を噛んだ。


転んだ。


子どもが大人を庇う時によく使う言葉。


心理学の講義で学んだ。


虐待を受けている子どもは、必ずしも助けを求めるわけではない。


むしろ、家庭を守ろうとすることすらある。


それを知識としては知っていた。


だが、実際の記録として読むと、胸の奥が重くなる。


「ここで気づけた人はいたはずなのに」


綺沙羅は小さく呟いた。


答える者はいない。


ただ、隣の席で資料を読んでいた暁星が顔を上げた。


「そうだね」


「どうして助けられなかったんでしょう」


「気づかなかった人もいる。気づいても動けなかった人もいる。動いたけど届かなかった人もいる」


暁星は淡々と言った。


「そして、誰か一人が悪いわけじゃないこともある」


綺沙羅は資料を見つめた。


誰か一人が悪いわけじゃない。


その言葉は、優しいようで残酷だった。


悪者が一人なら、そこを責めればいい。


だが、社会の隙間に落ちた人間は、誰か一人を責めただけでは救えない。


「じゃあ、誰の責任なんですか」


暁星は少しだけ黙った。


「それを簡単に決められたら、たぶんこの仕事はもっと楽だよ」


綺沙羅は返す言葉を失った。


この事件は誰の責任なのだろう。

父親だろうか。

母親だろうか。

見て見ぬふりをした周囲だろうか。

それとも。

どれほど辛い過去があろうと、人を殺した桐谷翔自身なのだろうか。

答えは見つからなかった。

いや、見つけてはいけない気がした。

簡単な答えを見つけた瞬間、何か大切なものを見落としてしまう気がしたからだ。

簡単な答えである広い門は常に滅びへと至ってしまう。だから思考を巡らせた先にある狭い門に向かう必要があるのだ。

---


次の資料は、中学校時代のものだった。


桐谷翔。


十三歳。


施設に一時保護された後、児童養護施設へ入所。


職員の記録には、こうある。


『他児への暴力行為なし』


『注意されると過剰に謝罪する』


『自分の意見を言うことが苦手』


『失敗を極端に恐れる』


『夜間に泣いていることがある』


『「自分はいない方がいい」と発言』


綺沙羅は、ページをめくるたびに呼吸が浅くなっていくのを感じた。


翔は、最初から怪物だったわけではない。


むしろ、傷ついた子どもだった。


殴られ、放置され、誰にも見つけてもらえなかった子ども。


「可哀想」


その言葉が喉元まで出かかった。


だが、綺沙羅は飲み込んだ。


その言葉を口にした瞬間、何かを間違える気がした。


可哀想。


それは事実かもしれない。


けれど、その一言で全てを包んでしまえば、彼が奪った命までぼやけてしまう。


水瀬美香。


七歳。


ランドセルのカタログを抱えて笑っていた少女。


その写真が、頭から離れない。


「綺沙羅さん」


暁星の声で我に返る。


「はい」


「無理に感情を消さなくていい」


「え?」


「同情してしまうことを、悪いことだと思わなくていい」


綺沙羅は目を伏せた。


「でも、同情したら被害者に申し訳ない気がします」


「同情と擁護は違う。同情は人間らしさだよ。どれほど辛く目を逸らしたい事件でも己を人間としてしっかり向き合うべきだ。もし審判するだけならAIでいい。それでも人間が決めるのは、皆が持つ人間らしさを大切にしてるからだと思うよ」


暁星は静かに言った。


綺沙羅は黙った。


その言葉は、宵の言葉に似ていた。


けれど、少し違って聞こえた。


宵は境界線を引くように言った。


比べて暁星は、その境界線の前で立ち尽くしているように見える。


---


午後。


綺沙羅は医療記録を読み始めた。


高校二年。


十七歳。


精神科受診歴。


診断名。


うつ病。


不安症状。


解離症状の疑い。


睡眠障害。


自傷行為。


そして、ある記述で手が止まった。


『強い怒りの感覚を訴えるが、対象は不明瞭』


『本人は「急に頭が真っ白になる」と表現』


『衝動制御の困難が見られる』


『希死念慮あり』


『他害念慮については明確な否定』


綺沙羅は眉をひそめた。


怒り。


対象不明の怒り。


衝動制御の困難。


他害念慮は否定。


この記録だけでは、事件には直結しない。


だが、不穏な影は確かにあった。


「暁星先輩」


「うん」


「この時点で、危険性は予測できたと思いますか」


暁星は資料を受け取り、目を通した。


「難しいね」


「難しい、ですか」


「結果論ってやつさ。後から見れば、全部が伏線に見える」


その言葉に、綺沙羅は何も言えなかった。


「でもその時点で見れば、苦しんでいる青年はたくさんいる。SNSとかでよく見るだろ」


暁星は資料を机に置いた。


「自傷歴がある。怒りを抱えている。解離が疑われる。衝動性がある。だから将来殺人を犯すとまでは言えない」


「でも実際に事件は起きました」


「そう」


暁星は頷いた。


「だから苦しくて難しいんだ」


綺沙羅は資料を見つめた。


心理学は万能ではない。医学は万能ではない。人が積み上げてきた科学は万能ではない。


人の過去を知ることはできる。


傾向を読むこともできる。


危険因子を見つけることもできる。


けれど、その人が未来に何をするのかを完全に当てることはできない。


もし当てられたなら。


もし、誰かがこの時点で翔の未来を見抜けたなら。


水瀬美香は生きていたのだろうか。


その問いは、綺沙羅の胸に重く沈んだ。


---


夕方。


綺沙羅は再び拘置所へ向かった。


前回よりも足取りは重かった。


資料を読む前と後では、翔の顔の見え方が変わってしまった。


知らなければよかったとは思わない。


だが、知ることがこんなにも苦しいとは思わなかった。


面会室に通される。


数分後、桐谷翔が入ってきた。


前回と同じように、少し俯いている。


椅子に座ると、翔は綺沙羅を見た。


「先生」


「はい」


「僕のこと、調べたんですか」


「ええ」


綺沙羅は正直に答えた。


「必要な資料は読みました」


翔は少し笑った。


「最低だったでしょう」


綺沙羅はすぐには答えなかった。


最低。


その言葉を誰に向けているのか分からなかった。


自分の人生に対してか。


自分の犯行に対してか。


それとも、自分の存在に対してか。


「最低とは思いませんでした」


翔の表情がわずかに動く。


「じゃあ、可哀想でしたか」


綺沙羅は息を呑んだ。


翔は目を伏せた。


「施設の先生も、病院の先生も、みんなそう言いました」


「そうなんですか」


「可哀想だねって」


翔は膝の上で手を握る。


「可哀想って言われると、何か許されたみたいな気がするんです」


綺沙羅は黙って聞いていた。


「でも、何も変わらないんです」


翔の声が震えた。


「父さんに殴られたことも、母さんが帰ってこなかったことも、学校で笑われたことも」


そして、ほんの少し間を置いた。


「僕があの子を殺したことも」


面会室の空気が冷たくなる。


「先生」


翔は綺沙羅を見た。


「僕、可哀想ですか」


綺沙羅は言葉を選んだ。


「あなたの人生には、救われるべき場面が何度もあったと思います」


「それは可哀想ってことですか」


「そうかもしれません」


翔は小さく笑った。


「じゃあ、可哀想なら、人を殺していいんですか」


その問いは、まっすぐだった。


綺沙羅の心臓が跳ねる。


「いいわけがありません」


それだけは、即答できた。


翔は少しだけ安心したように見えた。


「よかった」


「よかった?」


「先生まで、僕のことを全部許すって言ったら、怖かったから」


綺沙羅は目を見開いた。


翔はうつむいたまま続ける。


「僕、自分が怖いんです」


「事件のことが?」


翔は頷く。


「本当に覚えてないところがあるんです。でも、覚えてないって言えば逃げてるみたいで」


「……」


「でも、覚えてたとしても怖いんです」


「どうして?」


「だって、理由があった方が怖いじゃないですか」


綺沙羅は息を止めた。


翔は手を震わせていた。


「もし僕が、ちゃんと理由があってあの子を殺したなら」


「……」


「僕は、本当に悪い人間だったってことになる」


綺沙羅は、ようやく気づいた。


翔は自分の罪から逃げたいだけではない。


自分が何者なのか分からず、怯えている。


悪人なのか。


病人なのか。


被害者なのか。


加害者なのか。


そのどれでもあるのか。


そのどれでもないのか。


「桐谷さん」


綺沙羅は静かに言った。


「私は、あなたを簡単に許すためにここにいるわけではありません」


翔は顔を上げる。


「あなたを責めるためだけにいるわけでもありません」


「じゃあ、何のために」


「あなたが何をしたのか」


綺沙羅は言葉を区切った。


「そして、あなたがなぜそうなったのか」


「その両方を見るためです」


翔は何も言わなかった。


「どちらか一つだけを見れば、きっと楽です」


綺沙羅は続ける。


「あなたの過去だけを見れば、あなたを可哀想な人だと思える」


「あなたの罪だけを見れば、あなたを悪人だと思える」


「でも、たぶんそれだけでは足りません」


翔の目がわずかに揺れた。


綺沙羅は自分の声が震えていることに気づいた。


それでも続けた。


「私もまだ分かりません」


「何がですか」


「あなたをどこまで許すべきなのか」


翔は黙った。


「でも、分からないまま逃げたくありません」


翔はしばらく綺沙羅を見ていた。


やがて、小さく呟いた。


「先生は、変な人ですね」


「そうかもしれません」


「でも」


翔は目を伏せる。


「少しだけ、安心しました」


綺沙羅は何も言わなかった。


また安心させてしまった。


その事実に、胸が痛んだ。


---


裁判所へ戻ると、宵が廊下に立っていた。


まるで綺沙羅が帰ってくるのを待っていたようだった。


「どうだった」


「分かりません」


綺沙羅は正直に答えた。


「彼を知れば知るほど、分からなくなります」


「それでいいのよ」


宵は言った。


綺沙羅は意外そうに顔を上げた。


「いいんですか」


「分かった気になる方が危ない。犯罪を犯す人間が私達と同じ思考回路であるはずがない、だから私達は私達の正義を持って突き進むの」


宵は歩き出す。


綺沙羅はその隣を歩いた。


廊下の窓から、夜の街が見える。


「宵先輩…、宵先輩の正義は迷わないんですか」


「迷うわ」


「え?」


「迷わない人間なんて信用できない」


宵は淡々と言った。


「ただ、迷った時に戻る場所を決めているだけ」


「戻る場所」


「私にとっては法よ」


その声には、揺るぎがなかった。


「私は法を信じる。法が裁くなら裁く。法が更生を認めるなら認める。そこに私情は入れない」


「それで苦しくないんですか」


宵は少しだけ足を止めた。


「苦しいわよ」


意外なほど素直な答えだった。


「でも、感情で裁く方がもっと怖い」


綺沙羅は何も言えなかった。


「天華」


宵は綺沙羅を見る。


「あなたは理解したいのね」


「はい」


「なら理解できるように精進しなさい」


宵は言った。


「加害者も」


「被害者も」


「遺族も」


「世論も」


「そして法も」


綺沙羅は息を呑んだ。


「法も、ですか」


「ええ」


宵の目は真っ直ぐだった。


「法は冷たい。でも、冷たいからこそ人を守れることがある」


綺沙羅はその言葉を胸に刻んだ。


冷たいからこそ、人を守れる。


まだ理解できない。


けれど、忘れてはいけない言葉だと思った。


「それにここは裁判所よ。司法の職に就く人間が法を理解しようとしないなんておかしいでしょ」


宵は冗談めかして言う。


被害者や加害者。考える事が膨大すぎて忘れていた。


その言葉は綺沙羅が司法の人間であることを再確認させるのと同時に綺沙羅の気持ちを少しでも楽にさせようと言ってくれたようにも思えた。

---


その夜。


綺沙羅は一人で報告書の続きを書いていた。


桐谷翔の過去。


桐谷翔の罪。


水瀬美香の未来。


水瀬家の悲しみ。


その全てを同じ文章の中に置くことは、ひどく難しかった。


どちらか一方に寄れば、もう一方を裏切る気がした。


けれど、書かなければならない。


判断しなければならない。


法廷は待ってくれない。


綺沙羅は資料の端に、鉛筆で小さく書いた。


理解は許しではない。


許しは救いではない。


救いは一つではない。


その言葉を見つめる。


答えにはならない。


けれど、今の綺沙羅が立っていられる場所ではあった。


その時、机の上の電話が鳴った。


夜の静けさを裂くような音だった。


綺沙羅は受話器を取る。


「天華です」


相手は裁判所職員だった。


短いやり取りの後、綺沙羅の表情が強張る。


受話器を置く。


隣の席にいた暁星が顔を上げた。


「どうしたの」


綺沙羅はゆっくり口を開いた。


「桐谷翔のお父さんが、面会を希望しているそうです」


暁星の表情が変わった。


「父親?」


綺沙羅は頷いた。


資料の中で何度も見た名前。


暴力。


威圧。


育児放棄。


翔を壊した人間は。


その父親は。


許されるべきなのだろうか。


綺沙羅は資料を開いた。


そこには幼い翔の腕に残った痣の写真がある。


殴られた記録。


怒鳴られた記録。


怯えた記録。


その全ての始まり。


それなのに。


なぜ今になって会いたいと言うのだろう。


謝罪か。


自己満足か。


それとも別の理由か。


綺沙羅には分からない。


ただ一つだけ確かなことがあった。


桐谷翔という人間を知るためには。


その父親と向き合わなければならない。


父親が許されるべきなのか知るために。

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