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天秤の片側  作者: シンドゥー


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2/4

第一話

春の陽射しが裁判所の窓から差し込んでいた。


新しいスーツはまだ着慣れない。


天華綺沙羅は自分の姿をガラスに映し、小さく息を吐いた。


今日から社会人。


そして今日から司法心理士だった。


人を助ける仕事。


大学一年生の頃から憧れていた仕事。


弱い立場の人を守る仕事。


そのために勉強してきた。


そのために心理学を学び人を救う術を学んできた。


だから不安よりも期待の方が大きかった。


少なくとも、この建物へ足を踏み入れるまでは。


「緊張してるのかい?」


背後から声がした。


振り返る。


神淵暁星が紙コップのコーヒーを持って立っていた。


綺沙羅より二歳年上。


司法心理士三年目。


そして配属先の直属の先輩。


「え!そんなに顔に出てますか?」


「かなり出てたよ」


「恥ずかしいです」


「大丈夫だよ。みんな最初はそうだから」


暁星は穏やかに笑った。


とても優しい人だ。


綺沙羅大学時代に想像していた心理学者そのものだった。


「綺沙羅さんは何でこの仕事に?」


「人を助けたかったからです」


威勢の良いハッキリとした声で即答した。


だが、暁星は少しだけ目を細めた。


「そうか。それは素晴らしいね」


その返事が妙に寂しそうに聞こえた。


「先輩は違うんですか?」


「いや」


暁星は窓の外を見た。


「俺も同じだったよ」


その言葉の意味を綺沙羅はまだ知らない。


午前十時。


初仕事の資料が届いた。


机の上に置かれた分厚いファイル。


綺沙羅は表紙を見て固まった。


被疑者名。


桐谷翔きりたに かける


二十歳。


大学生。


殺人罪。


喉が鳴る。


初めて見る現実の殺人事件。


映画でもドラマでもない。


現実。


「読んでみて」


暁星が言った。


綺沙羅は資料を開く。


そして数分後、ページをめくる手が止まった。


父親による暴力。


母親による育児放棄。


施設入所歴。


いじめ。


自傷行為。


知的境界域。


うつ病。


自殺未遂。


昨日までこの仕事に恋焦がれていた綺沙羅には、とても重たかった。


「こんな……」


綺沙羅は呟く。


「こんな人生だったんですか……」


暁星は黙っていた。


「誰も助けられなかったんですか?」


しばらく沈黙が続く。


「助けられたと思うよ」


暁星は静かに答えた。


「え?」


「もっと早く支援に繋がっていれば」


「周りの大人が気づいていれば」


「学校が介入できていれば」


そこで言葉が止まる。


「でも助けられなかった」


綺沙羅は資料を見つめた。


そして最後のページを開く。


被害者。


水瀬美香みなせ みか


七歳。


写真が貼られていた。


笑顔の少女。


ランドセルのカタログを抱えている。


来年、小学生になる予定だった。


もう、その未来はない。


胸が苦しくなる。


加害者にも同情できる。


被害者も可哀想だ。


どちらも救われるべきだ。


そう思った。


「両方は救えない」


低い声が響いた。


入口に一人の女性が立っている。


夕陽宵。


部署で最も経験豊富な司法心理士。


初めて会っても分かる威風堂々した貫禄があった。


彼女は綺沙羅の手元の資料を見る。


「その考え方は危険よ」


綺沙羅は反射的に反論した。


「でも被害者も加害者も苦しんでいます」


「知ってる」


「なら——」


「だから苦しいのよ」


宵は言った。


「被害者を救おうとすれば加害者が傷つく」


「加害者を救おうとすれば被害者が傷つく」


「現実はそんなに綺麗じゃない」


綺沙羅は何も言えない。


宵は続けた。


「それでもこの仕事を続けるなら覚えておいて」


その目は真っ直ぐだった。


ただひたすらにずっと真っ直ぐ。


「理解することと」


「許すことは違う」


部屋が静まり返る。


午後。


綺沙羅は拘置所へ向かった。


精神鑑定のためだ。


面会室。


ガラス越し。


職員に案内され椅子へ座る。


そして数分後。


青年が入ってきた。


二十歳。


大学生。


殺人犯。


だが綺沙羅の想像とは違った。


普通だった。


どこにでもいる青年。


目の前の人間が七歳の少女を殺した。


その事実だけが異常だった。


青年はしばらく黙っていた。


やがて小さな声で言う。


「先生」


綺沙羅は顔を上げた。


「僕は」


青年は迷うように俯いた。


そして絞り出すように尋ねる。


「僕は、悪い人なんですか」


その問いは、あまりにも幼かった。


綺沙羅は人を助けるために多くを学んできた。


されど、その問いにすぐに答える事ができなかった。


ガラス越しに座る青年、桐谷翔は、殺人犯には見えない。


痩せた肩。


伏せられた目。


震える指先。


どこにでもいる、少し気弱な大学生。


けれど彼は、七歳の少女を殺した。


その事実だけは、絶対に消えない。


「翔さん」


綺沙羅は、できるだけ声を落ち着かせた。


「今日はあなたを裁くために来たわけではありません」


「じゃあ、何をしに来たんですか」


「あなたのことを知るためです」


翔はゆっくり顔を上げた。


「知ったら、何か変わるんですか」


綺沙羅は息を詰めた。


変わる。


そう言いたかった。


あなたの過去を知れば、あなたの苦しみを知れば、少なくとも何かは変わるはずだ。


けれど、その言葉は口にできなかった。


被害者の少女は戻らない。


どれだけ翔を理解しても、水瀬美香の未来は戻らない。


「変えられるものを探すために、私はここにいます」


それが、今の綺沙羅に言える精一杯だった。


翔は少しだけ笑った。


笑ったというより、諦めたように口元を歪めた。


「先生は優しいんですね」


「優しいわけではありません」


「でも、僕の話を聞こうとしてくれる」


翔は両手を膝の上で握りしめた。


「みんな、僕のことを化け物みたいに見るから」


綺沙羅は言葉を失った。


その言葉に同情してしまった自分に、嫌悪した。


化け物のように見られて当然なのかもしれない。


そう思う自分もいた。


だが同時に、目の前の青年がただ一人で震えているようにも見えた。


「翔さん」


「はい」


「事件の日、何があったのか話せますか」


翔の指が止まった。


しばらく沈黙が続いた。


面会室の時計の針だけが、やけに大きく響く。


「覚えてるところと、覚えてないところがあります」


「覚えているところからで構いません」


「公園にいました」


翔はぽつりと話し始めた。


「ベンチに座ってました。何もしたくなくて。大学にも行きたくなくて、家にも帰りたくなくて」


「その時、美香さんがいた?」


翔は頷いた。


「ボールが転がってきて」


その声が震える。


「拾って渡したら、ありがとうって言われました」


綺沙羅はペンを握る手に力を入れた。


「それから?」


「分かりません」


「分からない?」


「本当に、分からないんです」


翔は顔を歪めた。


「気づいたら、あの子が倒れてて。僕の手に血がついてて。周りの人が叫んでて」


涙が一粒、頬を伝った。


「僕がやったんですよね」


綺沙羅は答えなかった。


「僕が殺したんですよね」


記録では、目撃者がいた。


防犯カメラもあった。


凶器からも翔の指紋が出ている。


彼が殺したことは疑いようがない。


それでも。


「なぜ殺したのかは、分からないんですか」


翔は小さく頷いた。


「分かりません」


「美香さんに怒りがあった?」


「ありません」


「誰かと重ねて見えた?」


翔は目を伏せた。


「分かりません」


「分からない、ですか」


「先生」


翔は縋るように綺沙羅を見た。


「分からないって言ったら、逃げてることになりますか」


その問いに、綺沙羅はまた答えられなかった。


逃げているのか。


本当に記憶が曖昧なのか。


精神疾患の影響なのか。


本人にも説明できない衝動だったのか。


答えを出すには、あまりにも早すぎた。


「今は判断しません」


綺沙羅は言った。


「私は、あなたが何から逃げているのか。それとも逃げていないのか。それを確かめます」


翔は黙って頷いた。


その表情は少しだけ安堵したように見えた。


その安堵を見て、綺沙羅の胸がまた痛んだ。


私は今、誰を救おうとしているのだろう。


裁判所へ戻る頃には、空が赤く染まっていた。


綺沙羅は会議室で報告書の下書きを見つめていた。


筆が進まない。


彼の生育歴。


精神状態。


認知の歪み。


解離症状の可能性。


知的機能。


環境要因。


書くべきことは山ほどあった。


だが、どの言葉も被害者の死を軽くしてしまうように思えた。


「進んでないね」


暁星が向かいの席に座った。


「すみません」


「謝らなくていいよ」


暁星は綺沙羅の手元を見る。


「会ったんだろ」


「はい」


「どうだった?」


綺沙羅は少し迷った。


「普通の人に見えました」


「そうだね」


「怖かったです」


暁星は静かに視線を上げた。


「何が?」


「普通の人に見えたことが」


綺沙羅は唇を噛んだ。


「もっと分かりやすく悪人だったらよかったのにって、思ってしまいました」


暁星は何も言わない。


「でも同時に、可哀想だとも思いました。あの人の人生を読んで、話を聞いて、誰かがもっと早く助けていたらって」


「うん」


「でも、被害者の写真を見ると、それも違う気がして」


言葉が詰まる。


「私、何を考えればいいんでしょうか」


暁星はしばらく黙っていた。


そして、疲れたように笑った。


「それが分かったら、俺はもう少し楽に生きてるよ」


その声には冗談の響きがなかった。


「俺も最初は、全部救えると思ってた」


「全部、ですか」


「加害者も、被害者も、遺族も、社会も」


暁星はコーヒーの紙コップを見つめる。


「でも実際は、一つの言葉で誰かが救われて、別の誰かが傷つく」


「……」


「加害者の背景を説明すれば、遺族は傷つく。遺族の怒りを尊重すれば、加害者の回復は遠のく。世論に寄り添えば学術を裏切る。学術を守れば世論に憎まれる」


暁星は小さく息を吐いた。


「それでも、どこかで言葉を選ばなきゃいけない」


綺沙羅は、暁星の顔を見た。


優しい人だと思っていた。


だが、その優しさは綺麗なものではなかった。


何度も擦り減った末に残っている、薄い灯りのようなものだった。


「先輩は、どうやって耐えてるんですか」


「耐えられてないよ」


暁星は即答した。


「ただ、全てを諦めて逃げ出すのが気に食わないだけ」


その言葉が、綺沙羅の胸に残った。


帰り際、綺沙羅は廊下で宵に呼び止められた。


「天華」


「はい」


「明日、被害者遺族との面談がある」


綺沙羅は息を呑んだ。


「私も、ですか」


「あなたも同席しなさい」


「でも、私は加害者側の鑑定を」


「だからよ」


宵は真っ直ぐ綺沙羅を見た。


「加害者だけを見て報告書を書くと、言葉が軽くなる」


「軽くなる……」


「本人の事情だけ見れば、どんな人間にも理由はある。生育歴、疾患、環境、知能、孤立。理由なんていくらでも見つかる」


宵の声は静かだった。


「でも、理由があることと、誰かの人生を奪っていいことは違う」


綺沙羅は頷くこともできなかった。


「明日、遺族の顔を見なさい」


宵は言った。


「その上で、あなたが何を書くのか決めなさい」


翌日。


面談室に、被害者の母親がいた。


水瀬春奈。


三十代半ば。


写真で見た美香とよく似た目をしていた。


ただ、その目には光がなかった。


隣には父親が座っていた。


膝の上で両手を握り、ずっと床を見ている。


宵、暁星、綺沙羅は向かいに座った。


最初に宵が口を開く。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


母親は小さく頷いた。


その仕草だけで、綺沙羅の胸が痛んだ。


「先生方は」


母親が言った。


声は掠れていた。


「犯人のことを調べているんですよね」


宵は頷いた。


「はい」


「可哀想な人だったんですか」


誰もすぐには答えられなかった。


母親は笑った。


だか笑顔ではない。敵意がない事を必死に隠している苦笑だった。


「ニュースで言ってました。虐待されていたとか、病気だったとか、頭が悪かったとか」


その言葉は刃のようだった。


「だから、あの人は悪くないんですか」


綺沙羅の指先が震える。


「そういうことを判断するために、私たちは」


「娘は」


母親の声が震えた。


「娘は何もしていません」


室内の空気が止まった。


「虐待もしていない。いじめてもいない。あの人を苦しめてもいない。ただ公園で遊んでいただけです」


父親が顔を覆った。


「どうして、あの子が死ななきゃいけなかったんですか」


綺沙羅は言葉を失った。


心理学の言葉が、何一つ出てこなかった。


環境要因。


責任能力。


治療可能性。


再犯リスク。


この母親の前では如何なる学問もあまりにも無力だった。


「先生」


母親は綺沙羅を見た。


「あなたは、あの人を助けるんですか」


綺沙羅は息ができなかった。


助けたい。


そう思っていた。


弱い人を守りたい。


そう思ってこの仕事に就いた。


けれど、今。


目の前にいるこの人もまた、守られるべき弱い人だった。


「私は……」


声が震えた。


「私は、事実を見ます」


それしか言えなかった。


母親は静かに目を伏せた。


「じゃあ、娘のことも見てください」


その一言が、綺沙羅の胸に深く刺さった。


弱者とは、立つ立場により大きく変わる。


誰かを守ると口にするのは簡単だ。


だが実際には、誰の側に立つのか。


それが守るということだ。


その夜。


綺沙羅は報告書を書いていた。


桐谷翔の人生。


水瀬美香の人生。


水瀬家の悲しみ。


全てが頭の中で絡まり合っていた。


加害者は救われるべきだった。


被害者は死ぬべきではなかった。


遺族は傷つけられるべきではなかった。


そんなことは分かっている。


だが現実は、既に起きてしまった。


ならば自分は何をするべきなのか。


「まだいたの」


宵が部屋に入ってきた。


「帰れなくて」


「真面目ね」


「宵先輩は… 宵先輩はどうしてこの仕事を続けているんですか」


綺沙羅は思わず尋ねていた。


宵は少しだけ黙った。


「そうね、信念や正義がまだ私の中にあるからかしら」


返ってきたのは意外な答えだった。


「信念と正義、ですか」


「私にとっての正義は法よ」


宵は静かに答えた。


「法……」


「私は犯罪を犯す悪人が嫌い。できるのなら私の手で一人でも多く裁きたい。そう思ってる。


宵は綺沙羅の目を見た。


「でも感情で裁けば、誰もが自分を正義だと思う。そうすれば争いが生まれる。それは私の望むものじゃない。」


「だから法があるのよ。」


綺沙羅は黙って聞いていた。


「だから私は法を信じる」


「法を破れば裁かれる」


「法が更生の機会を与えるなら与える」


「法が許すなら許す」


「それが社会を守ることだから」


宵は立ち上がる。


「誰の意見も否定しなくていい。遺族の怒りも、加害者の苦しみも、世論の不安も、専門家の判断も。全部理由がある」


「なら、どうすれば」


「その上で、自分が何を選ぶかよ」


宵は静かに言った。


「誰も傷つけない選択なんてない」


「だから、せめて自分がなぜそれを選んだのかだけは説明できるようにしなさい」


綺沙羅は報告書を見つめた。


真っ白だった画面に、ようやく一文を打ち込む。


桐谷翔の犯行には、生育環境および精神状態が重大な影響を及ぼしていた可能性が高い。


指が止まる。


それだけでは足りない。


綺沙羅は次の一文を打った。


しかし、その事実は被害者の生命の価値を減じるものではない。


胸が苦しかった。


これが正しいのかは分からない。


けれど、今の綺沙羅にはそう書くしかなかった。


数日後。


桐谷翔の精神鑑定に関する中間報告が提出された。


責任能力は限定的。


治療および更生可能性については慎重な検討が必要。


死刑適用には疑義が残る。


その内容が報道されるまで、時間はかからなかった。


ネットは荒れた。


『また専門家が犯罪者を守った』


『七歳の子供を殺しておいて更生?』


『専門家は被害者の敵であり世論の敵だ』


『天華綺沙羅って奴が判断したらしい』


綺沙羅はスマートフォンの画面を見つめていた。


自分の名前が、怒りの言葉と一緒に並んでいる。


怖かった。


悔しかった。


そして何より、迷った。


自分は間違えたのだろうか。


あの青年を理解しようとしたことは、被害者を裏切ることだったのだろうか。


「見ない方がいいよ」


暁星がスマートフォンを伏せた。


「でも」


「全部読む必要はない。彼らはどんな経緯や知識を得て判断に至ったか理解してない」


「それでも世間の声です」


「そうだね」


暁星の疲弊した声には悲しみが含まれていた。


「でも、それが全部じゃないさ。声、即ち意見は様々な視点から展開される。知識あるものないもの、情が深いもの浅いもの。俺たちが持たない知識や知見なんて無数に存在してる。全ての人が納得する答えなんて誰にも出せないさ」


綺沙羅は俯いた。


「ありがとうございます。少し気持ちが楽になりました」


「あの暁星先輩、一つ質問なんですけど」


「何だい?」


「私は、誰を守りたかったんでしょう」


綺沙羅質問には悪意も敵意もない、純粋な疑問だった。


暁星は答えない。


代わりに、静かに言った。


「それを考え続けるのが、この仕事だよ」


その日の夕方。


綺沙羅は一人で裁判所の外に出た。


春の風は少し冷たかった。


街には人が歩いている。


笑っている人。


急いでいる人。


スマートフォンを見ている人。


誰も、綺沙羅の迷いなど知らない。


誰も、桐谷翔の過去など知らない。


誰も、水瀬美香の未来を知らない。


それでも世界は進んでいく。


綺沙羅は空を見上げた。


人はどこまで許されるべきなのだろう。


その答えは、まだ分からない。


理解したい。


そう思った。


許せるかどうかは分からない。


救えるかどうかも分からない。


それでも。


理解することだけは、やめたくなかった。


綺沙羅は裁判所へ戻る。


桐谷翔の第一審は十日後。


それまでに決めるのだ。


自分が誰の側に付いて何を守るのかを。


法に生きるものとして、心理学を学んだものとして。


そして一人の人間として。

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