第三話
桐谷翔の父親が面会を希望している。
その報せを聞いた夜、天華綺沙羅はほとんど眠れなかった。
資料の中で何度も見た名前。
桐谷正一。
五十二歳。
会社員。
桐谷翔の父親。
そして、翔の身体と心に最初の傷を刻んだ人物。
児童相談所の記録には、正一の名が何度も出てきた。
怒鳴り声。
殴打。
食事を与えない日。
閉じ込め。
威圧的な態度。
面談拒否。
その一つ一つを読むたびに、綺沙羅の胸の奥に冷たい怒りが溜まっていった。
翔が犯した罪は消えない。
それは分かっている。
けれど。
もしこの父親がいなければ。
もしこの家庭が違っていれば。
もし翔が、殴られず、怯えず、空腹を隠すようにパンを机に入れずに済んだなら。
水瀬美香は死ななかったのではないか。
そう考えてしまう自分がいた。
その考えが危険だということも分かっていた。
誰か一人に責任を押しつければ、楽になる。
父親が悪い。
家庭が悪い。
社会が悪い。
そう言い切れたら、桐谷翔という人間を見なくて済む。
それでも綺沙羅は、父親に会う前から、彼を許せないと思っていた。
その時点で、自分は公平ではないのかもしれない。
そう思うと、余計に眠れなかった。
---
翌朝。
裁判所の廊下は、いつもより冷たく感じた。
綺沙羅が資料室で桐谷正一の記録を読み返していると、神淵暁星が入ってきた。
「あれ?さては寝てないね」
「少しだけです」
「説得力がないよ」
暁星は紙コップのコーヒーを机に置いた。
綺沙羅は礼を言い、両手で包むように持った。
温かさが指先に染みる。
「父親に会うの怖い?」
暁星が尋ねた。
綺沙羅は少し考える。
「怖いというより」
言葉を探す。
「怒っています」
暁星は何も言わなかった。
「資料を読めば読むほど、どうしてこの人が今さら会いたいなんて言えるんだろうって思います」
「確かにね」
「翔さんの人生を壊したのは、この人じゃないですか」
口にした瞬間、綺沙羅は自分の声が強くなっていることに気づいた。
「すみません」
「謝らなくていいよ」
暁星は静かに言った。
「ここで怒るのは人間として自然な反応だよ」
「でも、この仕事で怒りを持ち込むのは」
「持ち込まない人間なんていないよ」
暁星は椅子に腰掛けた。
「怒りも、同情も、嫌悪も、全部ある」
「それでいいんですか」
「まあ司法心理士としてはよくはないかな」
暁星は小さく笑った。
笑ったというより、疲れを少しだけ逃がしたようにも見えた。
「でも、あるものをないことにはできない」
綺沙羅は黙った。
「大事なのは、感情があることを自覚することだと思う」
「自覚……」
「自分は今、この人に怒っている。だから見落とすかもしれない。だから慎重になろう。そう思えるかどうか。冷静さというものさ」
暁星は綺沙羅を見た。
「自分は公平だと思った瞬間が、一番危ない」
その言葉は重かった。
綺沙羅はコーヒーの表面を見つめた。
揺れている。
自分の手が、少し震えていた。
「暁星先輩は、桐谷さんのお父さんをどう思いますか」
「さあ、分からない」
暁星は即答した。
「資料の上では酷い父親だと思うよ」
「はい」
「でも、俺たちは全てを知っているわけじゃない。何ならまだ会ってもいない」
綺沙羅は顔を上げた。
「会えば変わるんですか」
「う〜ん、変わるかもしれないし、変わらないかもしれない」
暁星は言った。
「ただ、人は資料より少し面倒くさい」
その言葉を聞いた時、綺沙羅は翔と初めて会った日のことを思い出した。
資料の中の翔は、殺人犯だった。
面会室の翔は、震える青年だった。
そのどちらも本物だった。
なら父親も。
資料の中の暴力的な父親と、これから会う一人の人間。
そのどちらも本物なのだろうか。
考えたくなかった。
---
面談室に入ると、夕陽宵はすでに座っていた。
背筋を伸ばし、資料を閉じたまま目を伏せている。
「おはようございます」
綺沙羅が声をかけると、宵は静かに目を開けた。
「おはよう。眠れなかった顔ね」
「分かりますか」
「分かるわ」
宵は短く答えた。
その声には、責める響きはなかった。
「桐谷正一と会う前に一つ言っておく」
「はい」
「彼を裁こうとしないこと」
綺沙羅は息を呑んだ。
宵の言葉は、まるで自分の心を読んだようだった。
「私は……」
「怒っているのでしょう」
綺沙羅は言葉に詰まった。
宵は続ける。
「当然よ」
「当然、ですか」
「子どもを傷つけた親に怒りを覚えない人間の方が、私は信用できない」
意外だった。
宵は、こういう時ほど感情を否定する人だと思っていた。
「でも」
宵は声を低くした。
「彼を悪人だと決めつけて接すれば、彼の行動全てが悪く見える。人間であればバイアスを持たないことは不可能。だけどこの仕事をするなら少しでも公平な視点で見たほうがいい」
綺沙羅は黙って頷いた。
「もう一度確認しましょう。桐谷正一の罪を裁く場ではない。今日は、桐谷翔を知るために父親の話を聞く」
「はい」
「感情で殴りたくなったら、一度黙りなさい」
「……はい」
宵は少しだけ目を細めた。
「それができれば十分」
親のようだと、綺沙羅は思った。
厳しい。
けれど突き放しているわけではない。
間違えないように、手を引くのではなく、進む方向だけを指してくれる人。
「宵先輩は、怒らないんですか」
綺沙羅は思わず尋ねていた。
「怒るわ」
宵は即答した。
「けれど、怒りは法廷の外に置いてくる」
「置けるものなんですか」
「置けない日もある」
宵は静かに言った。
「怒りで正しく裁定できない日もある。だから法があるの」
その言葉は、宵自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
---
桐谷正一は、予定時刻の五分前に来た。
面談室の扉が開き、職員に案内されて男が入ってくる。
綺沙羅は思わず息を止めた。
もっと恐ろしい男を想像していた。
大柄で、威圧的で、目つきが鋭く、見るからに暴力的な男。
だが実際に入ってきた桐谷正一は、思っていたより小さく見えた。
痩せた頬。
白髪の混じった髪。
安物のスーツ。
深く刻まれた眉間の皺。
目の下には濃い隈がある。
その姿は、怪物というより、疲れ切った中年男性だった。
それが綺沙羅には嫌だった。
いっそ怪物のような男ならよかった。
憎みやすい姿ならよかった。
正一は椅子に座ると、深く頭を下げた。
「桐谷正一です」
声は低く、掠れていた。
宵が名乗り、続いて暁星、綺沙羅も名乗った。
正一は三人の顔を順に見た。
そして、視線を落とした。
「今日は、息子さんについてお話を伺います」
宵が言った。
「はい」
正一は小さく頷く。
「面会を希望されたと聞いています」
「はい」
「理由をお聞かせください」
正一は膝の上で両手を握りしめた。
節の太い手だった。
その手を見て、綺沙羅は資料の写真を思い出す。
幼い翔の腕に残った痣。
この手が。
そう思った瞬間、胸の奥に怒りが燃えた。
綺沙羅は唇を閉じる。
感情で殴りたくなったら、一度黙りなさい。
宵の言葉を思い出した。
「息子に」
正一は言った。
「謝りたいんです」
その言葉は、あまりにも簡単だった。
謝りたい。
それだけで済むのか。
綺沙羅は思わず口を開きそうになった。
だが、宵が先に尋ねた。
「何を謝りたいのですか」
正一は俯いた。
「全部です」
「全部、とは」
「殴ったことも」
声が震える。
「怒鳴ったことも、飯を食わせなかったことも、家に閉じ込めたことも」
綺沙羅の指が強張る。
「父親らしいことを何もしてやれなかったことも」
正一は頭を下げたままだった。
「全部です」
沈黙が落ちた。
綺沙羅は、謝罪の言葉を聞いても怒りが消えないことに気づいた。
むしろ、余計に腹が立った。
そんなことは分かっているのか。
分かっていて、なぜやったのか。
分かっていて、なぜ今まで放置したのか。
その怒りが喉まで上がってくる。
「なぜ」
綺沙羅は気づけば声を出していた。
宵が少しだけ視線を向ける。
止める視線ではなかった。
続きを選べ、という視線だった。
綺沙羅は息を整えた。
「なぜ、今なんですか」
正一が顔を上げた。
「翔さんが子どもの頃に謝る機会はあったはずです」
自分の声が震えている。
それでも止められなかった。
「助けを求めていた記録もあります。学校からの連絡も、児童相談所の介入もありました。それでもあなたは面談を拒否した」
正一は何も言わない。
「なのに、なぜ今になって謝りたいんですか」
正一は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「怖かったんです」
綺沙羅は眉をひそめた。
「何がですか」
「自分が、間違っていたと認めるのが」
その答えは、あまりにも弱かった。
綺沙羅は一瞬、言葉を失う。
正一は続ける。
「私は、父親は強くなきゃいけないと思っていました」
「強く?」
「泣くな。甘えるな。言い訳するな。殴られても黙って立て」
正一の声は遠くなった。
「そうやって育てられました」
綺沙羅は息を止める。
「私の父も、そういう人でした。酒を飲んでは殴る。仕事で失敗すれば家で怒鳴る。母はいつも黙っていた」
正一は自分の手を見た。
「私は、それが嫌で嫌で仕方なかった」
「なら、なぜ」
綺沙羅の声が漏れる。
正一は頷いた。
「そうです」
彼は苦しげに笑った。
「私もそう思います」
「自分が嫌だったことを、なぜ息子さんにしたんですか」
その問いに、正一はすぐには答えなかった。
面談室の空気が重く沈む。
「分からなかったんです」
「分からなかった?」
綺沙羅の声が鋭くなる。
「殴ったら痛いことがですか」
「違います」
正一は首を振った。
「殴ったら痛いことは分かっていました」
「なら」
「殴らずに育てる方法が、分からなかった」
その言葉は、綺沙羅の胸に不快な形で残った。
言い訳に聞こえた。
しかし同時に、資料の中の翔と重なる。
分からない。
どうすればいいか分からない。
誰にも教えられなかった。
それは罪を消す言葉ではない。
けれど、人間が壊れていく時の言葉でもあった。
「妻が出ていってから、特に駄目でした」
正一は続けた。
「仕事は上手くいかない。金はない。家に帰れば翔がいる」
「翔さんがいることが、負担だったんですか」
暁星が静かに尋ねた。
正一は唇を噛んだ。
「はい」
その一言に、綺沙羅の胸が痛んだ。
「息子なのに」
正一は消え入りそうな声で言った。
「息子なのに、負担だと思った」
誰も何も言わなかった。
「泣かれると腹が立った」
「失敗されると腹が立った」
「お腹が空いたと言われるだけで、自分が責められているような気がした」
正一の声は震えていた。
「翔が悪いわけじゃない」
「でも、私はあの子を見るたびに、自分が駄目な人間だと突きつけられている気がした」
綺沙羅は拳を握った。
これは懺悔なのか。
自己弁護なのか。
自分を可哀想な父親にしたいだけなのか。
分からない。
だが一つだけ分かることがある。
この人は、翔を愛していなかったわけではない。
愛していたと言えるほど、綺麗でもない。
ただ、不完全な愛情と未熟な憎しみが混ざり合い、子ども一人を壊した。
その事実が、何よりも気持ち悪かった。
「翔さんに会って、何を言うつもりですか」
宵が尋ねた。
正一は顔を上げた。
「謝ります」
「それだけですか」
「それだけです」
宵の目が細くなる。
「謝って、どうしたいのですか」
正一は言葉に詰まった。
「どう、とは」
「許されたいのですか」
その問いは静かだった。
だが鋭かった。
正一の顔が強張る。
「私は……」
「桐谷さん」
宵は淡々と続ける。
「謝罪は相手のためにするものです」
「はい」
「でも時に、謝罪は自分の罪悪感を軽くするための行為にもなる」
正一は何も言えなかった。
「あなたはどちらですか」
沈黙。
正一の呼吸が浅くなる。
やがて彼は、両手で顔を覆った。
「分かりません」
綺沙羅はその言葉に胸を突かれた。
また、分からない。
翔も言った。
分からない。
父親も言った。
分からない。
この親子は、あまりにも多くのことが分からないまま生きてきたのではないか。
何が正しいのか。
どう愛せばいいのか。
どう謝ればいいのか。
どう償えばいいのか。
そしてその分からなさは、誰かの命を奪う免罪符にはならない。
「本当は」
正一が言った。
「会わない方がいいのかもしれません」
その声は弱々しかった。
「私が会ったら、翔は傷つくかもしれない」
「そうですね」
宵ははっきりと言った。
正一の肩が震える。
「あなたに会うことが、翔さんにとって負担になる可能性はあります」
「はい」
「それでも会いたいのですか」
正一は俯いた。
「会いたいです」
「なぜ」
正一は長く黙った。
そして、ようやく答えた。
「父親だからです」
その言葉に、綺沙羅の奥底で何かがざわついた。
父親だから。
便利な言葉だと思った。
今さら父親を名乗るのかと思った。
だが同時に、たぶんこの男にはそれしか残っていないのだとも思った。
父親であること。
それは彼にとって、罪でもあり、最後の繋がりでもあった。
「私は」
正一はかすれた声で言った。
「あの子に父親らしいことを何もしてやれなかった」
「……」
「だから最後に一度だけでも、父親として謝りたい」
綺沙羅は目を伏せた。
最後に一度だけ。
その言葉の中に、逃げがあるようにも感じた。
自分の罪に区切りをつけたいだけのようにも聞こえた。
けれど、それでも。
この人なりに、初めて翔と向き合おうとしているのかもしれない。
綺沙羅はその可能性を否定しきれなかった。
「翔さんが会いたくないと言ったらどうしますか」
暁星が尋ねた。
正一はゆっくり頷く。
「会いません」
「本当に?」
「はい」
「責めませんか」
「責めません」
暁星は少しだけ目を細めた。
「以前のあなたなら?」
正一は黙った。
痛いところを突かれたようだった。
やがて、小さく首を振る。
「責めたと思います」
「今は?」
「今は」
正一は苦しげに言った。
「責める資格がないと、思っています」
綺沙羅はその言葉を聞いた。
責める資格がない。
それは正しいのかもしれない。
しかし、資格がないからといって、罪が消えるわけではない。
謝る資格があるのか。
会う資格があるのか。
父親でいる資格があるのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
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面談が終わった後、桐谷正一は深く頭を下げて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
綺沙羅は大きく息を吐いた。
自分がずっと呼吸を詰めていたことに、その時ようやく気づいた。
「どう思った」
宵が尋ねた。
綺沙羅はすぐには答えられなかった。
「嫌いです」
正直な言葉が出た。
「そう」
「でも」
綺沙羅は自分の手元を見た。
「ただの悪人だとは、思えませんでした」
暁星が静かに目を伏せる。
宵は表情を変えない。
「良い答えね」
「いいんですか」
「嫌いなまま理解することもある」
宵は言った。
「理解する事と、好きになる事はイコールじゃない」
綺沙羅は顔を上げた。
その言葉は、今の自分に必要なものだった。
「理解することと許すことは違う」
宵はもう一度言った。
「そして理解することと、受け入れることも違う」
綺沙羅はゆっくり頷いた。
「私は、桐谷さんのお父さんを許せません」
「ええ」
「でも、彼の話を聞かないままでは、翔さんを知ることもできない」
「そうね」
「それが苦しいです」
「苦しくて当然よ」
宵は少しだけ声を柔らかくした。
「人を知るというのは、綺麗なものを見ることだけじゃない」
その言葉が胸に残った。
人を知る。
その言葉は、昨日までの綺沙羅にとって希望に近かった。
けれど今は少し違う。
人を知ることは、時に醜さに触れることだった。
怒りに触れることだった。
身勝手さに触れることだった。
そして、それでも目を逸らさないことだった。
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その日の夕方。
綺沙羅は拘置所へ向かった。
翔に父親の面会希望を伝えるためだった。
面会室に入ると、翔は前回よりも落ち着かない様子だった。
椅子に座るなり、指を組んだり解いたりしている。
「先生」
「はい」
「父さんのことですか」
綺沙羅は驚いた。
「知っていたんですか」
「職員さんから少し」
翔は俯いた。
「会いたいって、言ってるんですよね」
「ええ」
沈黙が落ちた。
綺沙羅は言葉を選んだ。
「会うかどうかは、あなたが決めていいそうです」
翔は笑った。
「僕が決めていいんですか」
「はい」
「変な感じです」
「変?」
「僕、家では何も決められなかったから」
綺沙羅は息を呑んだ。
翔は続ける。
「ご飯を食べる時間も、寝る時間も、怒られる理由も、全部父さんが決めてました」
「……」
「だから、会うかどうかを僕が決めていいって言われると、どうしていいか分からないんです」
その声は幼かった。
二十歳の青年の声ではなく、父親の足音に怯えていた子どもの声のようだった。
「会いたいですか」
綺沙羅は尋ねた。
翔はしばらく黙っていた。
「分かりません」
また、その言葉だった。
だが今回は、少し違って聞こえた。
逃げではなく、迷いだった。
「怖いです」
翔は言った。
「会ったら、また怒られる気がします」
「今のあなたを、お父さんが怒ることはできません」
「でも、怖いんです」
翔の肩が震える。
「父さんが大きな声を出さなくても、僕はたぶん怖い」
綺沙羅は黙って聞いていた。
「でも」
翔は顔を上げた。
「会わなかったら、ずっと怖いままな気もするんです」
「怖いまま」
「父さんが、僕の中に残ったまま」
綺沙羅は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
翔は胸元を掴んだ。
「ここにいるんです」
「お父さんが?」
翔は頷いた。
「怒鳴る声とか、足音とか、手とか」
「……」
「もうここにはいないのに、ずっといるんです」
綺沙羅は胸が締め付けられた。
父親は、過去の人物ではなかった。
翔の中でまだ生きている。
怒鳴り、殴り、怯えさせ続けている。
「会ったら、その声が消えると思いますか」
翔は首を振った。
「分かりません」
「そうですか」
「でも」
翔は小さく言った。
「父さんが謝るなら、聞いてみたいです」
「許すために?」
翔はすぐに首を振った。
「違います」
その答えははっきりしていた。
「許せるかは分かりません」
「では、なぜ」
翔は目を伏せる。
「本当に謝るのか、見てみたいんです」
綺沙羅は何も言えなかった。
「父さんが、僕に頭を下げるところなんて、一度も見たことがないから」
その言葉は、悲しいほど小さかった。
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裁判所へ戻った後、綺沙羅は面会実施の意向を報告した。
桐谷翔は父親との面会を希望。
ただし、心理士立ち会いのもと短時間。
必要に応じて中断。
その条件をまとめながら、綺沙羅は自分の中にある感情を整理しようとしていた。
父親を許せない。
翔を哀れに思う。
美香の死を忘れてはいけない。
遺族の苦しみを軽くしてはいけない。
その全てが同時に存在していた。
どれか一つだけなら、どれほど楽だっただろう。
机の端に置かれた資料の上で、夕陽が赤く滲んでいた。
宵が言った。
感情で裁く方がもっと怖い。
暁星が言った。
人は資料より少し面倒くさい。
翔が言った。
父さんが、僕の中に残ったまま。
綺沙羅はペンを止めた。
人はどこまで許されるべきなのだろう。
その問いは、今や翔だけのものではなかった。
罪を犯した人間。
人を壊した人間。
壊されたまま、人を壊してしまった人間。
そして、それを見つめる自分。
誰が許されるのか。
誰が許されないのか。
誰が決めるのか。
綺沙羅は答えを出せなかった。
ただ、次に何を見るべきかだけは分かっていた。
父と子が向き合う瞬間。
そこに、桐谷翔という人間の何かがある。
そしてたぶん。
桐谷正一という人間の罪も、そこにある。




