第5話
前髪の確認を済ませ、居酒屋の個室の襖を開くと、今日もすでに綱が先にいた。
静:「お疲れ様。
いつも待たせちゃって、悪いわね」
綱:「お疲れ。
男なんて支度も何もないからな。
連日、外に連れ出して悪いな」
静:「…それは…毎日でもいいけど」
綱はいつものクセか、静が小声で返した言葉を聞こえていない振りをしてスルーする。
綱:「ビールでいいだろ?
そろそろだと思って注文してある」
静:「普段から、それぐらい気が回せたら良かったのに」
綱:「…そんなに鈍感に見えるか?
そもそも、ラットの実験に違和感を覚えたって言ったら、お前なら冷静に考えれば色々分かりそうじゃないか?
ラットの実験を見る機会なんか、入社式ぐらいなもんだろ」
静は目を閉じ、落ち着いて考える。
静:「……私に被害が来ないように…?」
綱:「そういうことだ。
俺は元々システム担当志望だったし、そんな俺が不審な行動をしていれば、彼女まで監視対象になるかもしれないだろ…。
そもそもあれだけ偶然の出会いが重なる美人、気にならない男がいるわけないだろ。
それが、自分に好意を持ってくれていることまで分かったなら、なおさら。
あれだけ分かりやすい好意、気づかないわけないだろ…」
綱が俯きかげんで頭の後ろを掻いている。
綱が照れている……私に対して。
それに、今の言葉だと、最初から両思いだった。
危険に巻き込まないために、鈍感なフリをして、恋愛感情を誤魔化していた。
顔が熱い。
真っ赤になっているのが分かる。
前を向けない。
静:「…入社式の日に違和感に気付いて、調査を始めていたの?
新人の頃から残業していたのは、仕事人間だからじゃなく、人目につかずに調べる…ため?」
綱:「残業が不審に思われないよう、仕事はしていたし、成果も残していたぞ?
それに、さらに情報を得るためには、権限を上げる必要があった。
だから、必死で成果を出し続けた」
不器用で綱らしい真っ直ぐさに、静はクスッと笑う。
静:「社内政治なんて、出来る性格じゃないもんね。
そりゃあ、あんなに勘がいいのに、恋愛だけあそこまで鈍感なわけないか…。
綱のおかげで私、職場の中で"ちょろイン"なんて言われてるのよ?」
綱:「それは、露骨に出過ぎな静が悪いだろ。
俺が──」
外から声掛けがあり、襖が開く。
店員:「お待たせしました。
生中2つとお通しと唐揚げです」
店員が出て襖を閉められると、軽く咳払いをして、小さく乾杯した。
静:「…そっか、私、ずっと護られてたんだ」
綱:「そりゃあ、好きになったんだから、不幸になるかもしれないことに巻き込むわけにいかないだろ。
全てのコンピュータに繋がる、世界一の能力と信頼を誇るAI相手だぞ?」
静:「…6年間私を遠ざけていたのに、今になって私を関わらせるのは、そろそろ付き合いたくなった…とかじゃないのよね?」
綱:「悪いが、違う。
これ以上の情報を得るのに、静のポジションが必要になった」
静:「…聞かせて」
綱:「今までの情報については後から話すとして、生物実験が続けられている可能性については昨日話したが、そこら辺の資料には、俺の権限ではアクセス出来ない。
一番下の権限でアクセス出来るのが、医療部門の部長みたいだ」
静:「私に今すぐ部長になれ…って話じゃないわよね?
それに、生物実験にはうちの部長も関わっているってこと?」
綱:「部長のデスクに近いお前の席から、部長のアクセスコードで書類を写して貰いたい。
その下準備は済んでいる。
そして、部長はおそらく関与はしていない。
なぜ部長に権限が付与されているのかは知らないが、とても複雑に入り込んだところに保存されていて、権限があるだけじゃ発見することも難しい。
そして、医療部門の部長権限で見られる生物実験のファイルは、容量の小さな1つのファイルだけだ。
不自然過ぎて、Ωコアの罠の可能性もある。
だから、お前を巻き込むか散々迷ったんだ。
でも、お前が保管庫のラットの実験の原本データを調べても不自然じゃないタイミングと、勘のいい源さんの出張が重なるなんてチャンス、罠かもしれなくても見逃せなかった」
静は数秒黙り、考えを整理する。
静:「そのタイミングの良さすら、罠に思えて来るわね。
…でも、昨日の夜一晩考えて、綱とは一蓮托生だって決めて来た。
詳しく教えて。私は何をすればいいの?」
綱:「一つ目は終わっているが、改竄の出来ない、原本持ち出し禁止の保管庫の、当時の紙資料でラット実験のコピーを、静本人じゃなく部下にとってもらうことだ。
他の人間が聞いている中で、それを依頼することに意味があった。
そしてもう一つは、部長のデスクの半径2m以内で、部長がデバイスにログインしている時、このインターフェイスを使ってMRデバイスで資料を閲覧してくれ。
Ωコアに察知されずに不正アクセスをするには、その距離までの信号が精一杯だ。
そして、部長のデスク上のインターフェイスには3ヶ月前に仕込みは終わっていて、それ以降も俺しかあの居室の人間のインターフェイスは調整していない。
ただし、内容のコピーをすればΩコアに不審に思われる。
だが、閲覧だけなら、部長がたまたま見たという可能性がある。
権限を与えているなら、許容されるはずだ。
データ量から考えて、あって数百文字程度。
暗記と地道な勉強の得意な静なら、筆記と記憶ですぐに情報を抜けるはずだ」
静:「聞いてなかった?
私、"ちょろイン"て呼ばれるぐらいに顔に出るのよ?
それに、そんな緊張の中で記憶出来るか分からないし、今時直筆のペンなんて使ってたら目立つじゃない」
綱:「静が顔に出すのは、照れた時ぐらいだろ?
それに仕事中の静は他部署から、"鉄の女"とか呼ばれてるんだろ?
そして、静が本番に強いのは知っている。
…大学2年の時の剣道の試合の日、たまたま通りかかった弓道場で見かけたんだ。
集中した時の顔も、準決勝、プレッシャーのかかる場面で的の真ん中を射抜いて決勝に進んだのも、全部覚えている」
また顔が熱くなるのを感じる。
…それなら、大学生の綱の試合も見たかった。
静:「分かった…やる。
でも、鉄の女ってのは……綱以外の告白を断り続けた、身持ちの堅い女って意味が強いんだけど…」
後半尻すぼみに声が小さくなっていき、それと反比例するように顔が赤くなっていくのを感じた。
綱:「そうか…」
綱も照れて、しばらく沈黙が続く。




