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変わり始めた距離

2話更新します。よろしくお願いいたします。

 サロン・ブルームの一室で身支度を整えながら、アリーネは数日前のマダムの言葉を思い出していた。



『粗相をしたからとご依頼を断ることは許しません。伯爵様からお断りがあるならともかく、あなたの不始末はあなたが挽回なさい』


『感情的になるのを恐れるのではなく、なぜそうなったのかを考えるのです。誇りとはただ耐えることではありません。自分を知ることです』



「自分を知る……」


 アリーネはひとりつぶやいて紅を手に取った。

 考えないようにしてきた問いが、胸の奥で形を成していく。

 あの日、あれほど言葉を荒げたのはなぜだったのか。

 侮辱されたから──それは確かだ。けれど、こちらを侮る言葉などもう飽きるほどに聞いてきた。


『誰に』言われたか。それが問題だった。

 過去を知る彼なら、何も知らない他人とは違う言葉をくれるはずだと、そう決めつけていた。

 おそらく、二人で過ごした時間に対する信頼がそう思わせたのだろう。


 アリーネは静かに息を吐いた。

 心の底に沈めたものは、もう浮いてはこない。胸にあるのは痛みではなく自身に対する落胆。結局アリーネは、過去の想いに縛られていたにすぎない。今の自身の考えなど、伝えていないものを誰も知るはずがないのだと、当たり前のことにようやく気づいた。



 ──私のことは、私が知っていればいい


 鏡の向こうの女は、迷いなく口紅を引き終える。

 揺れるのは美しい光を放つ宝飾品だけ。




 迎えに現れたイアンとごく普通の挨拶を交わし、馬車に乗り込んだ。


 イアンは驚くほど自然体だった。

 先日のサロンでの時とも前回の夜会の時とも違う様子を見せる彼は、アリーネを伺うように見ることはなかった。張り詰めた空気も感じない。

 そしてそれはきっと、自分も同じなのだろうと感じていた。もう、彼の視線をたどることはしない。発する言葉に身構えることもない。


 他の客よりも少しだけ共通の話題の多い顧客。彼はそれ以上でも以下でもないのだ。




 最近ではアリーネを伴うのは年配の客が多く、参加する催しや会場での応対も穏やかなことが多かった。

 だから忘れかけていた。アリーネを快く思わない者もいることを。


 イアンが離れた際に声をかけてきたのは、女学校時代の知人であり、現在は子爵夫人となったキーラだった。

 裕福な子爵家に相応しく、流行りを押さえた最新の型のドレスをまとっている。


「あら、アリーネ。相変わらずお美しいこと」


 キーラはゆったりと扇を揺らしながら、視線を上から下へと滑らせた。


「愛しの元婚約者様と感動の再会かしら? 花の盛りをとうに過ぎてもお仕事を続けていらして良かったわね」


 扇の奥からアリーネにだけ聞こえるように囁かれる。


 アリーネはことさら美しく見えるように微笑んだ。


「出会いには事欠きませんの。ただ、どなたの隣に立つかは私自身が選びます。たとえ身元の確かな方であっても、お断りすることもありますのよ。

主が戻りますので、失礼します。次にお会いするのはいつになるか知れませんが、どうぞお元気で」


 柔らかな笑みを保ち話すアリーネは、周囲からは淑女同士の和やかな挨拶に見えただろう。

 アリーネの言葉どおり、グラスを手にしたイアンが戻り、自然な足取りで歩み寄った。


「ああ、お話は済みましたか? 子爵があちらで夫人を探しておられましたよ。どうかご自身の居所をお間違えなきよう」


 目の奥を見せない笑みでキーラを一瞥したイアンは、流れるような動作でアリーネに手を差し出すと、キーラの前から立ち去った。




 帰路についた二人は、ランプの灯りに淡く照らされ馬車に揺られていた。

 適度な疲労に心地よさを感じていたアリーネに、向かいに座るイアンから声がかかった。


「先ほどは……余計なことでしたか」


 窓の外へ視線を向けたまま、イアンが呟いた。


「女性同士の社交に、無遠慮な足を踏み入れたのではないかと」


 その声に、以前の重苦しい心配の響きはない。ただの確認にすぎない口調だった。

 アリーネは一瞬きょとんとし、当然のことのように首を横に振った。


「いいえ。ちょうど暇の頃合いでした」


「そうか。それならよかった」


 イアンが軽く笑う。横顔からも穏やかな笑顔が見て取れた。



 その後も何か特別な話をすることもなく、ともに窓の外を眺めていた。

 沈黙だけが流れる空間にも、息苦しさは感じなかった。


 仕事を円滑に行ううえで必要な信頼関係。

 存外悪くはない距離に、アリーネは知らず口角を上げた。

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