もうひとつの11年
「イアンお兄様、おかえりなさいませ。アリーネ様にはお会いになれまして?」
邸に戻ると、十歳下の妹がおずおずとイアンの様子を伺うように出迎えた。
彼女は先ごろ、とある伯爵家嫡男と婚約した。元々まとまりかけていた縁談を、当時ハイモンド家当主であった父が独断で破談にしようとしたのを阻止するため、イアンが父の弱みを握り当主の座を奪ったのち、婚約を成立させた。
名目は妹と家門の救済。
だがその深層には、父に屈し続けた己の屈辱を、同じく力で晴らそうとする歪な動機が潜んでいた。
その後イアンは、伯爵家の財政の大部分を開示し、前当主時代の不透明性を払拭した。さらに、先方の意で長らく結婚が先延ばしになっていた自身の婚約も解消した。
当主交代により父の横暴は潰え、父が歪めたものは出来うる限りの誠意をもって対応に当たってきた。
それでも、戻らないものは数多くあった。
そのひとつが、グラニエール家の未来だ。
妹に曖昧に返事をして、イアンは書斎に入った。
室内に昼下がりの光が差し込むが、やわらかい日差しを見てもイアンの心には晴れない影が残っていた。
権限はイアンが握ったが、代行として引き続き父が当主業務をおこなっている。父の時代は終わったと知らしめるため、代行用の簡素な執務室を新設し、元の書斎には大きく手を入れた。
父が好んだ金細工の額縁や過剰な彫刻はすべて処分し、必要なもののみを配置した。だが、重厚な執務机だけは残っている。木目の深い艶が父の名残となって、己の偽善と傲慢を突きつける。
イアンは机に近づき、視線を落とす。父は常に尊大で、人を金儲けの駒としか見ていないような人物だった。隙を見せれば、否、見せなくとも己の良いように人を動かし、奪ってきた人間。
それがやり手と称されたこともあったが、害された者が増えればいずれ家門が危機に瀕するのは時間の問題だった。
だからイアンは立った。
ハイモンド家を守るために。妹を自身と同じ目に遭わせないために。そして、グラニエール家に刻んだ父と自身の罪を贖うために。
机に手を置き、イアンは昼のアリーネの表情を思い返す。誰かの庇護に依存していない、己の人生を自分の力で守る意思が確かにあった。そのまなざしの強さに、胸の奥で小さな動揺が走る。
彼女が示したのはただの怒りではなく、『私の選択を軽んじるな』という半生を賭した矜持だった。
机を挟んで立つ自分を思い浮かべる。あの十一年の間、自分は何をしてきたのか。罪悪感は常に胸にあった。しかし、若輩を言い訳に行動に移すことなく、ただ諾々と父の意を汲むだけの歳月。そこに罪悪感があったからといって、何になるというのだろう。
イアンは目を閉じ、短く息を吐いた。
彼女が蓄積してきた努力と誇り。自身がそれを軽んじてしまったことに、あの揺るぎないまなざしに晒されてようやく気づいた。
目を開けると、机の上の書類やペン先がわずかに光を反射していた。
サロンで見た光は、彼女の生き様を鮮烈なまでに照らし出していた。
対して、ここの光が照らす先が父の机であることに、イアンは重い息を吐いた。
父は父であり、イアンではない。そう理解していても、ここの光に照らされる己の顔がいつか父と重なりそうな恐れが消えない。
イアンはきつく目をつぶり頭を振って、思考を切り替える。過去の記憶や痛みを引きずるのではなく、事実を認識する。十一年、彼女は生き抜いた。イアンにできなかった選択も、彼女は自分の力で乗り越えている。
次の夜会では傍に立つだけで十分だとイアンは悟る。守りや導きが必要だと考えるのは、結局、自分の後悔を晴らしたいだけの押し付けだ。
彼女が選んだ人生を尊重し、ただの契約者として並ぶ。
それだけが彼女の十一年に己が示せる唯一の敬意である。
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