憐れみは侮辱です
本日も2話更新します。
よろしくお願いいたします。
「……ヴァルノー男爵のことです」
「男爵様が何か?」
「もしかすると、私は少々失礼な態度を取ってしまったのではないかと……」
イアンは時々口ごもりながらゆっくりと話した。
「……長いのですか。あの方と過ごす時間は」
「五年ほどになります」
アリーネは感情を込めずに返した。
この時間を早く終わらせたいと、息苦しさの増すなかで考えていた。
沈黙が落ち、アリーネは昼の光に照らし出されたテーブルを眺めた。
イアンは小さく息を吐いてから居住まいを正す。
これから発する内容が、今日彼が本当に言いたかったことだとアリーネは直感した。
「……あの方は、あなたにとって」
そこで言葉が止まる。まだわずかに逡巡し、それでも彼は続けた。
「どういう存在なのですか」
イアンの声にこちらを責める調子はない。けれども、アリーネの在り方を問われているようで、言いようのない不快さに知らず眉根が寄った。
「仕事上の信頼関係です」
答えるアリーネの声は、自分で思うよりも硬質だった。
「そう、ですか」
イアンのそれは返事ではなかった。アリーネの言葉を飲み込むまでの、時間稼ぎの相づちのように思えた。
また沈黙が落ちる。
彼はアリーネの答えをどう思ったのだろう。安心だろうか。それとも落胆?
夜会で見かけるときと変わらず、これほど近くにいても彼の心情はやはりわからなかった。
不意にイアンが長く息を吐き出して言った。
「君の本意ならいいんだ」
それは柔らかく、あまりに穏やかな声だった。かつてと同じその声が、アリーネの心の奥底へとするりと侵入する。
「ただ君が、望まないことをさせられているのでなければ、それでいい」
「……させられている?」
心の奥を引っかいたイアンの言葉をとっさに繰り返す。イアンはアリーネの様子に目を見開いたが、そんなことに構ってはいられなかった。
まくしたてないように、冷静にと頭のどこかで声がする。
「私は自分で選んでここにいます。この仕事も、男爵様の隣に立つことも、すべて」
「すまない。言い方が気に障ったのなら謝る。だけど分かってほしい。君のことが、僕はずっと心配で──」
その言葉に、急速に思考が冷え固まっていった。
「……あなたに」
震える声を、アリーネはかろうじて絞り出した。
「あなたに、心配される理由などありません」
視界がわずかに滲む。それが怒りによるものか、あるいはもっと別の、重りの下のもののせいなのかは分からなかった。
「私の人生です。これまでも、この先も、すべて私が決めていきます」
吐き出した言葉が、室内の静寂を重く震わせる。昼の穏やかな陽光さえも、その場の寒々しさを消すことはできなかった。
イアンは動かなかった。ただ何かを堪えるような表情で、まっすぐにこちらを見つめている。痛ましく心配げなその顔が、アリーネの心をさらに傷つけた。
「……それとも、私が不幸であってほしいのですか。誰かを頼り、救いを待つ女でいてほしいと?」
「違う!」
初めて、彼が声を荒げた。弾かれたように立ち上がったイアンは、すぐに後悔したように息を詰める。
「違う……そんなことは、決して。ただ……」
続く言葉を探すように、彼はきつく目を閉じた。やがて、かすれるような声が漏れる。
「……君が、誰かの庇護の下でしか生きられないような、そんな状況に置かれていることが、僕は……」
そこまで言って、彼は言葉を切った。
続きを探しあぐね、それでも何かを訴えかけようとする意思を見せる。
その愚直なまでの姿に思い知る。
彼は本気なのだ。そこには一欠片の悪意もなく、純粋な憐憫しかない。
彼はサロンで働く今のアリーネを『落ちぶれてここにたどり着いた、ハイモンド家による哀れな犠牲者』だと信じて疑っていないのだ。
奥歯を噛み締め、アリーネは一歩、彼へと踏み出した。
「私は、私の十一年を、生きてきました」
彼への一語一語を、ゆっくりと紡ぐ。
「あなたがいない人生を、私は私の足で歩んできた。それを今さら、価値のないものだったかのように言われるのは……」
喉をせり上がる熱い塊を、十一年で培ったものすべてをかけて押し殺す。
「この上ない侮辱です、ハイモンド伯爵」
完全な沈黙が、二人を包み込んだ。
血の気が引いたイアンは何かを言いかけ唇を震わせたが、ついに言葉になることはなかった。
ただ深く頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした」
謝罪など欲しいわけではなかった。
言うべきことはすべて言ったはずなのに、アリーネの胸には苦い思いだけがいつまでもとどまり続けた。




