婚約が終わった日
『君は邸から出るな! 父上の手の者がそこらにいるかもしれない』
初めて聞く彼の硬く低い声。
『婚約解消なんてありえない。父上に話をつけてくるから、待っていてくれ』
見たことがないほど真剣な表情をした彼は、それからしばらく姿を現すことはなかった。
アリーネが次に彼に会ったのは、グラニエール家が財産の大部分を失ったあとだった。
父の友人だったはずのハイモンド伯爵によって、グラニエール家の鉱山が奪われたのだ。
領地は縮小され、タウンハウスは手放した。爵位は残ったが、それが幸いだったかはわからない。
婚約は破棄に近い形で解消された。
『すまない』
すべてが終わったあと、アリーネの前に現れた彼からは快活な笑顔は失われ、体つきさえも小さくなってしまったようだった。
上着越しでもわかるほどにやつれた肩を震わせて、ただひと言を絞り出した彼を、アリーネは責められなかった。
彼のつむじを見つめたまま、働かない頭で謝罪の意味を考える。
すまないとは、何に対する言葉だろう。
父親を止められなかったこと?
グラニエール家に暗すぎる影を落としたこと?
それともアリーネから、愛しい人と手を取り合って歩む未来を失わせたことだろうか。
おそらくは全てなのだろうと思った。
彼はきっと精一杯抗ったはずだ。それでもどうにもならなかったのだろうと、頭では理解はしている。
彼を待つ間に希望は恐れに変わり、やがてすっかり諦念に塗り替わった。覚悟はしていたはずだった。
それでもどうしても、涙の止め方だけはわからなかった。
領地に戻る両親に同行すると言う弟をアリーネは止めた。
初等部から在籍した貴族学園を辞めるべきではないというのがその理由だ。
学費はすでに納めてあった。問題は、寮費あるいは王都での住まいだった。
そしてアリーネは、サロン・ブルームを訪れた。
『容姿、教養、振る舞い。すべて問題はありません。ここに相応しいものを備えているわ』
先王の妹を祖母に持つサロンの主人マダム・ブルームは、厳格な目でアリーネを評し、サロンへの所属を認めた。
彼女の言葉は、アリーネが今も仕事を続ける理由となっている。
『あなたの家に対する世間の目は決して良くはないでしょう。それでも逃げず、その目を見返すのです。目を逸らす、それは没落よりも恥ずべきことよ』
新たな境遇は、アリーネの体と心を苛んだ。
誂えものでない靴がこんなにも足を傷つけるなど知らなかった。
かつて苦楽を共にした親友にかけたアリーネの声は、夜会の音に紛れた。
給金は学園の寮費と化粧品に消え、金も時間も心にも、余裕などひとつとして作れなかった。
それでも目だけは伏せず、ただマダムの言葉を守り続けた。
三年が経つころにはようやく指名の客がつきはじめ、サロンに若い令嬢も増えるなか、アリーネの背中はいつしか彼女たちの追うべき目標となっていった。
弟の卒業式にはアリーネが参列した。首席挨拶をする弟は、もう不安げな少年ではなかった。当主修行のため領地へ帰る弟を見送ってからも、アリーネはサロンの仕事を続けた。
誰からも、自分の過去からさえも目を逸らさない。胸がじくじくと痛んでも、それがあるからこその自分なのだと思えるようになった。
涙の止め方は、もう知っている。
これがアリーネの過ごしてきた、彼の知らない十一年だ。
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